第23話 夜明け前
目が覚めたのは、光のせいだった。
カーテンの隙間から、朝の光が一筋差し込んでいた。細い光。壁に斜めの線を引いている。
天井が違った。
いつもの自分の部屋の天井ではない。もう少し高い。色が少し濃い。
セレンの部屋だ。
身体が温かかった。
右手が動かなかった。何かに握られている。見なくても分かった。大きな手。硬い手のひら。剣だこのある指。
横を向いた。
セレンが眠っていた。
寝顔を見るのは初めてだった。起きている時のセレンは、いつも眉間に力が入っている。寡黙で、硬くて、感情を読ませない顔。
眠っていると、全部が緩んでいた。
眉間のしわが消えている。口が少し開いている。睫毛が長い。知らなかった。こんなに長かったのか。銀灰色の髪が額にかかっていて、朝の光に白く透けている。
傷だらけの手が、私の手を握ったまま離していなかった。
昨夜のことを思い出した。
断片的に。
セレンの手が私の頬に触れた。大きくて、不器用で、少し震えていた。唇が触れた。首筋に息がかかった。温かかった。暗がりの中で、蝋燭の灯りだけが揺れていた。
怖くなかった。
緊張はした。心臓がうるさかった。セレンもうるさかったらしい。途中で「すまない」と言った。何に謝ったのか分からなかった。たぶん、不器用なことに。私は「大丈夫」と言った。大丈夫だった。
あとは——あまり覚えていない。覚えていないのではなく、言葉にならない。身体の感覚は覚えている。温度と、重さと、呼吸と、暗闇の中で目が合ったこと。セレンの目が光っていたこと。
終わった後、セレンが私の手を握った。何も言わなかった。握っただけだった。そのまま眠った——のは、たぶん私が先だった。疲れていた。いろいろと。
朝。
セレンの寝顔を見ている。
この人の妻になった。名目ではなく。
名目ではなく、という言葉の意味が、昨夜ようやく身体で分かった。
良かった。
この人の妻で、良かった。
髪が額にかかっているのが気になって、指で払おうとした。触れた瞬間、セレンの目が開いた。
「…………」
「あ。起こしちゃった」
「……いや」
声がかすれていた。寝起きの声。低い。いつもより低い。
視線がぶつかった。
セレンの目が少し泳いだ。寝ぼけているのではなく——状況を把握して、照れているのだと分かった。
「……おはよう」
「おはよう、セレン」
「…………」
「……何?」
「いや。あなたの寝起きの顔を見るのは、初めてだと思って」
私の寝起きの顔。酷いだろう。髪は乱れているし、たぶん枕の跡がついている。
「見ないでください」
「見ている」
「見ないで」
「……綺麗だ」
朝の光の中で、ぼそりと言った。
嘘だ。寝起きの顔が綺麗なわけがない。
でもセレンの声には嘘がなかった。この人は嘘が下手だから、本気で言っているのだと分かった。
顔が熱くなった。
「……朝食、食べに行きましょう」
「……ああ」
起き上がった。手が離れた。
手が離れたことが、少し寂しかった。十ヶ月前、この人の鎖を外した時には想像もしなかった感覚だった。
二週間が過ぎた。
穏やかな二週間だった。
朝、一緒に起きるようになった。セレンの部屋か、私の部屋か、どちらかで。最初の数日は毎回どちらの部屋で寝るか決めるのが気まずくて、ヨハンに「いちいち報告しなくていいですから」と呆れられた。
食卓は変わらなかった。四人で食べる。マルテとヨハンと。マルテは二人の変化に気づいたのか気づいていないのか、同じように木彫りの馬を膝に載せて魚をほぐしている。
セレンが変わったのは、朝の表情だった。
起きた時、少しだけ口の端が上がっている。笑みと呼ぶには小さすぎる変化。でも私には見えた。この人はこういう顔をするのだと、初めて知った。
仕事は続いていた。復興事業の月次報告。旧街道の第二次補修。孤児たちの教育体制の構築。セレンは相変わらず赤い修正線を入れてくれた。地図を見て、数字を直して、輸送ルートの最適化を計算して。
変わったのは、作業中に時々、目が合うことだった。
以前も目は合った。でも以前は、合った瞬間にどちらかが逸らした。今は逸らさない。少しだけ、長く見る。それだけのことだが、その「それだけ」に慣れるまでに三日かかった。
夜、執務室で作業をしていると、セレンが「もう休め」と言うようになった。以前は「休んでください」だった。敬語がまた少し減った。
「まだ書類が」
「明日やればいい」
「でも」
「アネリーゼ」
名前を呼ばれると、弱い。
「……分かりました」
「よし」
ペンを置く。蝋燭を消す。
並んで廊下を歩く。足音が二つ。片方は聞こえない。もう片方は少し大きい。
指が触れる。
繋がる。
この廊下を何度歩いただろう。十ヶ月間。同じ廊下。同じ石畳。同じ窓。
でも今は、手が繋がっている。
それだけで、廊下が違う場所に見えた。
二週間目の朝。
セレンの部屋で目が覚めた。
いつもの朝。光が差し込む。セレンの手が私の手を握っている。
このまま、ずっと——。
扉を叩く音がした。
強い音。急いでいる音。
「殿下。セレン様。起きてください」
ヨハンの声だった。緊張している声。
セレンが先に起きた。瞬時に。軍人の反射だ。身体を起こし、扉に向かった。
「何だ」
「外務省から急報です。——レーヴェン軍が国境に集結しています」
扉越しにヨハンの声が響いた。
「規模は先日の小競り合いとは比較になりません。少なくとも三個連隊以上。ディルク殿下の直轄部隊を含むとの報告です」
セレンの背中が硬くなった。
私も起き上がった。
「セレン」
「……聞いた」
「これは——」
「最後の手だ」
セレンの声は、寝起きの柔らかさが完全に消えていた。戦場の声。低く、硬く、冷たい。
「返還要求で負けた。密使で負けた。情報戦で負けた。宣誓も止められなかった。残っているのは——」
「軍事行動」
「ああ」
セレンが振り返った。私を見た。
「これは宣誓式の前から準備されていたはずだ。宣誓の結果に関わらず動く腹だった。国内の強硬派への政治的パフォーマンスだろうが——兵が動いている以上、放置はできない」
私は寝台から降りた。上着を羽織った。髪を結んだ。手が少し震えたが、結べた。
「対策を立てます」
「ああ」
「セレン」
「何だ」
「行ってらっしゃい、とは言いたくないです。でも——」
言葉が詰まった。
二週間の穏やかな朝が終わろうとしている。セレンの寝顔を見て、手を握って、「綺麗だ」と言われた朝が。
「行って。——必ず帰ってきて」
セレンが頷いた。
「帰る。必ず」
扉を開けた。ヨハンが書類を抱えて立っていた。顔が険しい。
「詳細を」
「はい。こちらに——」
廊下を歩き始めた。三人で。
穏やかな朝は終わった。
でも、手は繋いだままだった。書類を受け取る直前まで。




