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「ダイジェストでお送りしています」

 ◆「少女とお勉強」


「この辺りはおそらく、迷いの森と呼ばれている部分です」


 わかる範囲で大雑把な地図を描かせ、現在地の把握に(つと)めてみる。思ったよりも人里がかなり近い。少女に描かせたので、距離や縮尺はかなり適当だが。そもそも私はあまり地図を読めない。北を上とか読んじゃうレベルではないが、大雑把に歩いてもなんとなく着くので。

 しかし、街に際して森がかなり大きい。少女も迷った口なので、私の拠点が森のどの辺りかはとんとわからなかった。


「迷いの森とは申せども、中にいる私は迷った覚えはないな。どのようなエピソードがあるんだ?」


 少女は食事処、それもあまり裕福ではない労働者が安く大量に食えるメシ屋で働いていたらしく、客から聞いた色々な噂話を知っていた。学のない人生を送っていた少女ではあるが、変なところで妙に物知りなのだ。


「そうですね。いわく、入って帰ってきたものはいないとか。いわく、深い霧に包まれて、気が付いたら森の出口に立っていたとか。いわく、真っ直ぐ直進していったのに、真っ直ぐ同じ入り口に戻って来たとか」


「矛盾しているな」


 少女は頷く。噂は所詮噂だ。信用性はデータの数によるだろう。手付かずの森ということで、資源を求めて挑戦する若者は数多くいるが、老人を中心としたベテランはこの森を神聖視し、情報は多く入って来ない。知らないものはいない程の存在感があるが、内情を知るものは誰もいない。それがこの迷いの森らしい。


「でも、どうしてわたしは迷いの森に迷わず入れたんでしょう」


 さあな、人間じゃないからじゃないのか。……何故私をじっと見ているのか。

 入ったら生きては出られない方のパターンではないのか、という可能性は飲み込んだ。私は優しいので。


「この森には精霊の泉が湧いてるとされ、向こうの街は、そこから流れた湖に寄り添って大きくなったらしいです。だからお水が豊富で美味しいんですよ」


 少女は自分のいた街から、森を挟んで対角にある街を指し示す。精霊の泉ね。私の脳裏には一瞬、あの巨大なハクチョウが収まっていた湧き水が思い浮かんだが、すぐにハゲて消えていった。毟ったのは私だが。

 どうやらこの辺りの水は品質がいいらしい。私も美味しく飲ませて貰っているし、その水で暮らしている少女も心持ち肌艶が良くなっている気がする。気のせいか。


 因みに、件のスワンの羽毛で作った布団は、物質創造を使えない少女に譲渡されている。少女には大きく、またベッドのスプリングを作る技術は無いため、少女の背中を慮り、中身を分けてソファ状の敷き布団にしたのだが、その柔らかさに少女は「だめになる……なにもかんがえられなくなるぅ……」と、いい感じに堕落しているので、羽を提供したスワンも本望だろう。

 起きる際に少女の精神力も鍛えられるので言うことなしだ。冬に入ってからが本番である。


「森の近くに二つも街があるのか。距離は? 大丈夫なのか、色々と」


 あまり大丈夫ではないらしい。距離は少女によると、馬車で五日くらい。それが近いのか遠いのか私にはわからないが、少女のいた街はなんだか薄汚れていて、客商売をしている人は「早く金を貯めて隣街に行きたい」という話をしているらしい。

 近くの街が水が豊富なら、輸入も安いと思うのだが、そんな簡単な話ではないのか。元々近くの採掘場の交易で発展した街なので、ガテン系が多く粗野な印象を受けるんだとか。国境から近いので輸出はするが、外国から来た人は隣街へ行くための足掛かりでしかないため、色々と鬱屈して寂れた感じになってるらしい。領主の跡取りも望み薄だしな。

 少女を、隣にある水が豊富な清潔な街ではなく、むくつけし粗野な街に放る辺り、淫魔(サキュバス)の好みはそっち系なんだろう。生気強そうだもんなー。ガテン系。


 この森の奥、サキュバスの隠れ里、鉱山は連山になっており、かなりの範囲に広がって、山向こうは隣国になる。人が往き来するような行路ではなく、隣国との交易も山を迂回して行っている。もちろん迷いの森は山側からも入ることは出来ない。かなり険しく、山越えは兎も角、軍隊の行軍など自殺行為でしかないため、両国の干渉地帯になっている。


「鉱山の見分けはつくか?」


「い、いえ……。里では採掘もやってたみたいですけど、わたしはよくわからないです」


 なんでもやるなサキュバス。

 少女が目利き出来るんなら、鉄鉱石や岩塩などを掘るのが現実味を帯びるかと思ったが、出来ないものはしゃーなし。この計画は却下だ。

 地理の他、一般的な常識、貨幣の価値、言語なども教わる。残念ながら少女は文字の読み書きは出来ないらしく、これは人里に降りるまではどうにもならない感じだ。

 淫魔だけに学など必要ないのか、と思いきや、少女が勉強嫌いで逃げ回ったのが原因と判明。私のためにならないのでぐりぐりしておいた。



「あのぅ、どうしてあるじさまは、その……、そんなにものを知らないのですか?」


 言葉を選んだ結果がそれか。まあ、八歳の少女にオブラートに包んだ婉曲な語彙表現を期待する方が間違いだし、私は飾らない方が好ましい。はぐらかすがね。


「生まれた時からずっと、ここに居たんだよ」


 嘘は言ってない。嘘は。この世界に転じ、生を受けて以来、私はここを動こうとはしなかったのだから。


「あるじさまは、森の精霊さまだったのですか?」


 いや、そんな事実はないが。いくら転生して産まれ変わったとて、流石に精霊化をしていたら私でも気が付くだろう。多分。精霊がどんなものなのかは知らないけれども。

けれどもしかし。



 ◆少女へのご褒美


 いつも働いてくれている少女に何か報いようと思う。

 しかし、私と少女はわりかし感性が合わないらしく、何をすれば喜ぶのかがわからない。仕事をさせないで休みを与えれば「役立たずでごめんなさい」と半べそだし、血と細胞を壊さないように脳漿を与えてみれば、震えて葛藤している。これでは好意の押し付けだ。相手が断れない立場にあるのに強要するのは良くないことである。

 良い主としては、日々の感情の揺らぎから然り気無く相手の好みを熟知し、その時々に際した褒美を取らせるものだ。しかし少女と過ごした期間はそれほど長くはなく、データ不足感は否めない。とりあえず甘いものを好むのはわかっているが、それでは芸がない。普段の食生活が好みに合っていない反動もあるのだろう。

 接している期間が短いのであれば、この場合必要なのは1にも2にもコミュニケーションだ。というわけで、本人に直接聞いてみることにする。


「ご褒美に何が欲しいか……ですか? いえその……、わたしはあまりあるじさまのお役にたててはいませんし、ご褒美をもらうなんておそれおおいのです……」


「ふむ。別にそれはそれで選択肢の一つではあるのだがね。だが、主が従者に褒美を取らせる場合、理由の一つに感謝されたい、というものがある。

 下の者に感謝されたい。尊敬されたい。手放したくない。そういった気持ちで、優れた人間に施しを与えることで、自分が良い気持ちになりたいという欲求だよ。

 ここで君が、褒美をいらないと拒否するのは君の自由だがね。だが、今後君は報酬を受け取らない類の人間だ、という評価を下されるリスクも考慮すべきかと思う。

 ……で、何か欲しいものはあるかな?」


 あうあうと言葉に詰まる涙目の少女。よく泣くな、本当。まるで私がいじめてるみたいではないか。失敬な。か弱い少女をいじめて悦ぶ趣味はない。いじめて愉しいのは自分は強いと思ってる傲慢の鼻っ柱だろう。失敬な。

 まだ逡巡はしているが、これは今後の方向性を兼ねたリサーチでもあると伝えると渋々。何もないなら報酬は血の滴る生首になるかも知れんなー精力が付くぞーと伝える(脅す)と、青褪めて口を開いてくれた。


「わ、笑わないでくれますか?」


「私に実現可能ならな。荒唐無稽ならば鼻で嗤うぞ」


「その……、もし、よろしければでいいんですけど……」


 この期に及んで躊躇いがちだ。厚顔に当たると思っているのだろう。羞恥からか顔は真っ赤で、上がった体温のせいか涙が滲み、口の前で握った手はもじもじと落ち着かない様子で、ちらちらした上目遣いで私を仰ぎ見る。はいはい種族種族。

 少女のタイミングに任せて、目を細めてぼーっと待っていると、意を決したように拳を握り、ぐっと意気込んでそれを告げた。おっといかん。よだれが。ぼんやりし過ぎで半分寝てた。


「手を、手を握らせてくれませんか……?」


 手? 私の手をか。そんなんで褒美になるのかね。


「身体に触れると、いつもより多く生気を分けて貰えるんです。傍にいられるだけで、生きていくぶんには大丈夫なんですけど……。その、たまにはお腹いっぱいになりたいなって」


 ああ、なるほど種族性か。本当に感性が合わない。直接聞いといて良かったよ。

 大した働きをしていないのに更なる要求をするという恥、肉体的接触というハードルの高さ、生気を奪うという申し訳なさから、少女はきゅっと目を瞑って私の沙汰を待つ。両手を胸の前で握り、小刻みに震える姿は小動物さながらだ。そんなに私は怖いかね。まあ自覚はある。大して交流があるわけでもなし、馴れ馴れしいよりかは妥当であろう。

 私はそんな少女の頭に手を置き、かいぐりかいぐり撫ぜてやる。少々乱暴に。首ごと持っていくくらい。少女は腕を上げてあわあわとこっちを窺う。ようやくこちらに目を向けたので、解放して手を差し出した。


 少女の視線が、出された手と私の顔を何度も行き来し、口に出したら消えてしまうとばかりに葛藤をする。前科があるからな、私。「触ろうとした瞬間手を引っ込めるなんて、するわけがない」とは、口が裂けても言えないのだ。不安に思われても無理はない。

 少女の好きなようにやらせて待っていると、ややあって、喉を鳴らして生唾を飲み込み、私の手を両手でそっと包む。食欲には勝てなかったらしい。

 私の手に触れた少女は、熱に浮かされたような瞳でぽーっと私の手のひらを見詰め、最初はゆっくりと、私からの反応が無いと見て、徐々に大胆に、さわさわと指先を這わす。手のひらのシワを撫でる指先はいとおしげで、指の間をにぎにぎする様子は官能的ですらある。熱に浮かされた表情は段々と妖しくなっていき、具体的に言うとだらしなく弛んだ口許からよだれが垂れそうである。私の手はそんなに旨そうかい。

 熱が籠るにつれ、私の手ごと胸元に持って行き凝視するように顔は近くなる。荒い息を指先に感じ、我慢しきれないように口を開いて私の指先を含もうとしたところで、流石に振りほどいた。思わず切ない声を漏らし、少女の手指が名残惜しげに私の手を追う。


「喰うな。私の指だ」


 その声にようやく正体を取り戻したのか、冷や水を浴びせかけられように背筋を伸ばし、焦点の戻って来た瞳をあわあわと揺らして逃げ道を探す。どう足掻いても言い訳など浮かばなかったのか、正直に謝った。

 どうでもいいが、淫魔としての本性を現したのに、正体を失ったとはこれ如何に。


「ふぅ。これは定期的に褒美を取らせないとダメかな。こんなになるまでーー溜まってた? 足りなかった? とは、思ってなかった」


 少女は溜まっていた(欲求不満)という言い回しに覚えがないのか、きょとんとした様子を見せていたが、言わんとしていることは理解している。はしたない己に恥じ入って、小さくなって謝罪の言葉を口にした。私はその、俯く小さな首筋に指を這わせ、猫の仔でもあやすようにかりかりしてやる。

 むず痒くも気持ちいいのか、怯えて固くなっていた身体が徐々に解れ、私に身を委ねた一瞬の隙を突いて首を抱え込んで引き寄せた。爪を少し立て、頸動脈を軽く圧迫する。


「お前、毎日シャワーをして貰う時に、結構な時間私に頭を触って貰っているな?」


 身体を完全に硬直させ、触れた身体から、冷や汗をだらだら流しているのが伝わって来る。図星か。わかっててやっていやがる。これだから淫魔(サキュバス)は油断も隙もない。僅か八歳でもなかなかしたたかなことだ。嫌いじゃないわ。

 別に悪いことをしているわけではないが、少女もずるいことをしている自覚はあったのか、叱られた犬のように反省している様子なので、私は手打ちにする意味でうりうりしてやる。

 因みに、このお仕置き自体も、彼女(サキュバス)にとってはご褒美になるので、見た目に反してそこまで嫌がってはいない。つくづく業の深い種族だ。やっぱ誘い受けなんじゃないのか。



 ◆「少女と秋の味覚。私にとっての秋の味覚は肥えた馬の方なので」


 冬にも外に出て狩りをする。と話の流れで少女に言って以来、少女はせっせと果物や草の備蓄に勤しんでいる。保存場所は地下。小屋の床に戸を付けて下りられるように掘った。温度が変化しにくいらしい。

 少女は冬を甘くみてはいけませんと言うが、確かに動物が出歩かなくなり、冬の静謐が音と匂いを封じ込める。が、生物の温度はむしろ浮き彫りとなり、動きも鈍いので狩りにはなんら問題は無いのだ。動物は植物と違って、冬に枯れて春に芽吹く生態はしていない。


 私は少女の越冬のためにうさぎ狩りをして毛皮を集めてはいるが、肉を燻製したところでどれだけ日保ちするだろう。一緒にして少女の備蓄まで腐らせてはことだし、外に新しく掘っておこうか。

 実を言うと、備蓄はそう悪いことではない。今は少女に合わせて(せわ)しなく動いてはいるが、私の本質はぐうたらだ。冬の間、少女は外出を控えると言うなら、備蓄を切り崩して生活して貰い、私はその間いくらでも惰眠を貪れるのだ。


 少女は今日も木の皮で編んだカゴを背負い、秋の味覚を収穫しに行く。このカゴだが、なかなかの大きさだ。淫魔の腕力は成人男性を越えると言うが、体格やウェイトまでは追い付かないだろうに、少女はいつもカゴいっぱいにして帰って来る。田舎の子供は色々と逞しい。

 私も参考程度に同行する時もあるが、蒼い柿だの、黄色い林檎だの、紅い葡萄だの、コメントに困るような地味なファンタジー果実なんかを見付けているようだった。とりあえず地球産より彩度が鮮やかなので目に痛い。

 最も筆舌に尽くしがたいのは秋の味覚、うにだろう。うにである。栗ではない。私には栗にしか見えないのだが、少女ははっきりと「うに」と発音している。そう、天ぷらと同じである。他の言葉は異世界のものなのに、うにだけ日本語なのだ。何故なのか。シーアーチンではダメなのか。この世界の海はシーではないけれど。いや、栗なので海のものではないのだが。あ、栗じゃねぇうにだ。もうわけがわからん。

 木になる植物なのは間違いないのだが、何故か割ると中身がどろっとしていて、醤油と混ぜて食べるとプリンみたいな味になる。雲丹じゃん……いや、最初からうにだと主張しているのだが。この世界の人の認識としては、ザラメを焼いた黒いソースをかけて冷やし、甘味として食べると至高の味わいになる神秘の果実ということらしい。プリンじゃん……。もう何と言ったらいいのかわからん。地味にこちらの常識が交じって頭がおかしくなりそうだ。なんで醤油をかけた味とカラメルソースと一緒に食べた味が同じになるんだ。いや、甘く食べると言っただけで、プリンとは一言も言ってないのだが。ちなみにちなみに、「醤油と混ぜるとプリンみたいな味になる」というと、元々結構な甘さで雲丹とは似ても似つかない味だ。どこまで混乱しているのだ私は。毒でもあって錯乱効果が出てるんじゃないのか。


 蒼い柿は毒抜きするため干して食べる。紅い葡萄はお酒にするには向かないくらい甘い。黄色い林檎は林檎の常識を覆すほど頑丈で、収穫しても一年は腐らない。その代わりほぼ水分で甘さ控え目。水と土壌がいいのかこれでも美味しい部類らしい。

 銀杏によく似た匂いの実、紅葉のように色付いた星形の葉っぱ、さつまいもに似た根菜。各種きのこに山菜と、少女の食べられる知識は素直に称賛に値する。淫魔でなければ一人でもサバイバル出来るかも知れない。あー、危険な動物から身を守ることが出来れば。


 越冬のために肥えていたたぬきに負けるほどの実力だ。野生は厳しい。少女は飽くまであんな魔物に勝てる訳がないと言い訳しているが。ただのたぬきを魔物呼ばわりとは、まったく子供の言い分はかわいらしいものである。ちょっと虎並みにでかいだけだろう。

 というわけで、カゴを預かり、少女でも勝てそうな相手にけしかけてみる。


「そんなわけで、アライグマだ」


「あらいぐま……? と、いうのですか」


 この世界に対応する種族名は知らん。少女も見たことはないらしい。しかしどう見てもアライグマだ。たぬき並みのサイズに尻尾の縞々、未だに生態がわからないが何故か食べる前に水で洗っている。


「おぎょうぎがいいですね。洗ってます」


 油断するなよ。ナリは小さいが凶暴で悪どい生態をしている。私も初めて見るので何をして来るかわからんぞ。最低限、毒らしき匂いはしないが。


「わ、わかりました。がんばります……!」


 少女は意気込んでアライグマに忍び寄る。最初の頃、少女は戦闘になるとキャストオフしてほぼ全裸の身体に張り付く紐状の何かだけになり、私の度肝を抜いてくれたものだ。サキュバスって、露出すると強くなるのか……? と私が引いていると、私から貰った服を傷付けたくない、と殊勝なことを言ってくれる。

 普段、森の散策などで発生するほつれを直しているのと同じように、少女の服を引き千切ってから、再度物質創造で作り直してやると、いくら破けても大丈夫だと思い知ったらしく、今では普段着のまま戦うことを思い切っている。防御力はないがね。絹の服は。ゲームとかだと、きぬのふくはそこそこの防御数値があるが、コットンとかの方が固くないのか? 物の値段が上がると性能が高くなるとか、金でも着込んでいるのか。

 余談ではあるが、一応は脱いだ方が強くなるは強くなるらしい。これだから淫魔は。


 少女が息を詰めて爪を剥くと、アライグマさんが気付いて俊敏な動きで跳び退(ずさ)り、尻尾の毛を逆立てて少女と正対する。しかし視線は逃げ道を探して全力で泳ぎ、どう見ても威嚇というより及び腰だ。

 少女がにじり、寄った分だけアライグマさんは後退る。しかし、先程洗いをしたばかりなので背後は川、そして対角線には私がいる。逃げ場はない。アライグマさんは忙しない動きで私と少女を見比べ、遂には尻尾を丸めて小刻みに震えだした。


「あの、あるじさま……襲いづらいです」


 見ればわかる。異世界アライグマはあまり凶暴ではないのか、それとも本能的に勝てないと悟っているのか。怯えて震える姿はいつもの少女を思い起こす。

 少女はアライグマと私を見比べ、逡巡して気が逸れた隙を狙ってアライグマさんは川へとダイブ。なかなかの水量と勢いで、下流に流されて行った。その後アライグマさんを見たものは誰もいない。はぁどっとおはらい。


「逃がしたな」


「……あれ、ころさないとだめですか?」


「甘いことだ。山育ちとは思えん。食えねば屍を晒すのは己となろう」


「あぅ……」


「敵は差せる時に取れ。見逃した敵が引き金を引けば、次に死ぬのはお前の大切なものたちやも知れん」


「あれってそんな邪悪な存在でしたか!?」


 戦争に善も悪もないよ。使われる兵士にもな。戦いはいつだって、大切な何かを守りたいという愛から生まれる。悲しいことだ。今この場ではなんの関係もない話だがね。



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