第6話 悪役令嬢の善行は、悪行に見える
完結確定。
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紅茶事件は、ひとまず未遂に終わった。
実際に紅茶はこぼれたし、カップは割れた。私は紅茶まみれになった。
しかし、侍女エマに火傷はなく、「シルビアが侍女に紅茶を浴びせた」という事実も発生しなかった。
つまり、最初の悪評イベントは阻止できたと言うことだ。
これは大きい。
かなり大きい!
私はシルビアの部屋の窓辺で、ふかふかのクッションに体を沈めながら、そう結論づけた。
なお、紅茶を浴びた後、私はぬるま湯で拭かれ、さらに清潔な布で包まれ、最後にはシルビアの膝の上で念入りに毛並みを整えられた。
その間シルビアはずっと不機嫌そうな顔をしていた。
「まったく。あなたは本当に手のかかる猫ですわ」
そう言いながら、手つきは驚くほど丁寧だった。
「今後、熱いものに飛び込むのは禁止です」
禁止と言われても、必要があれば飛び込むしかない。
「聞いていますの、ノワール」
「にゃ」
聞いている。
従うとは言っていないが。
するとシルビアは、少しだけ眉を寄せた。
「……熱かったでしょう」
その声は小さかった。
私は顔を上げる。
シルビアは私を見ていなかった。
視線をそらし、私の毛並みに櫛を通しているふりをしている。
だが、その指先は少しだけ震えていた。
怖かったのだろう。
私が怪我をしたかもしれないことが。
それを素直に言えないだけで。
私はそっと喉を鳴らした。
大丈夫、熱かったけど、火傷というほどではない。
少なくとも、悪役令嬢ポイントは大幅加算されずに済んだ。
その点では成功である。
ただし、気になることもあった。
紅茶騒ぎの後、廊下の向こうに見えた灰色のスカート。
誰かが見ていた。
使用人がただ通りすがっただけかもしれない。
まだ分からない。
だが、確かなことがある。
この屋敷には、シルビアを誤解しやすい空気があると言うことだ。
ほんの小さな出来事が悪評になっている。
きつい言葉が、悪意として受け取られる。
何か起きれば、「お嬢様がまた」と言われる。
シルビア本人に悪意がなくても、周囲がそう解釈すれば、悪役令嬢は作られてしまうのだ。
つまり、私がしなければならないことは、イベントの阻止だけではない。
シルビアの善意を、周囲に正しく見せること。
これが重要だ。
そう考えていた翌日。
事件は廊下で起きた。
私はシルビアと一緒に、屋敷の西棟へ向かっていた。
シルビアは午前の授業を終え、少し疲れているようだった。
背筋はぴんと伸び、歩く姿は完璧な公爵令嬢である。
私はその少し後ろを歩いていた。
猫として屋敷の中を歩くのは、なかなか便利だ。
人間のときには入れなかったであろう隙間にも入れるし、足音がほとんどしないから尾行や潜入にはうってつけだ。
人の会話も、猫の立場だと意外と拾いやすい。
相手が「どうせ猫だ」と油断しているからだ。
ただし深刻な問題が一つ。
ドアノブが開けられない。
そんなことを考えていると、廊下の角から小さな少女が現れた。
使用人の見習いだろうか。
年は十歳くらいで両腕いっぱいに布と箱を抱えている。
体より荷物の方が大きい。
明らかに無理がある。
少女は前がよく見えていないようで、ふらふらと歩いていた。
私は耳を立てた。
危ない。
廊下の先には段差がある。
ほんの小さな段差だが、あの荷物を抱えたまま足を取られれば、転んでしまう。
シルビアもそれに気づいたらしい。
足を止め、少女の方を見た。
ただし、目を細めて、眉間にしわを寄せて、口元をきゅっと結んで。
……完全に睨んでいる。
少女はシルビアに気づいた瞬間、びくりと肩を跳ねさせた。
「お、お嬢様……!」
その拍子に、荷物がぐらりと傾く。
まずい。
私は身構えた。
だが、私が動くより先に、シルビアが歩き出した。
「あなた」
「は、はいっ!」
「そんな遅い動きでは邪魔ですわ」
出た。
善意の悪役変換。
少女の顔が青ざめる。
シルビアはさらに近づき、少女の腕の中から箱を取り上げた。
「貸しなさい」
廊下の空気が固まった。
近くにいた使用人たちが振り返り、誰かが小さく息をのむ。
見た目だけなら、完全にいじめである。
下働きの少女が重い荷物を運んでいて、そこへ公爵令嬢が近づき、「邪魔ですわ」と言って荷物を強奪。
悪役令嬢ポイント、急上昇。
違う。
違うのだ。
シルビアはたぶん、荷物を持つのを手伝おうとしている。
いや、確かに箱を強奪したように見えるが、実際は重さを減らしてやったのだ。
だが、周囲にはそう見えていない。
少女は怯え、使用人たちは固まり、シルビアは自分が誤解されていることに気づいていない。
まずい。
私は床を蹴った。
少女の腕の中に残っている布束の隙間から、小さな瓶が滑り落ちかけている。
薬瓶だ。
透明な瓶の中に、薄い緑色の液体が入っている。
割れたら危ない。
私は低く走り、落ちかけた瓶へ飛びついた。
前足で押さえる。
我ながら器用だと思う。
でも猫の前足で瓶をつかむのは難しい。
丸いし滑る。
肉球では、保持力が足りない。
瓶はころりと床へ落ち、廊下を転がり始めた。
まずい。
私はそれを追いかける。
瓶はシルビアの足元を通り過ぎ、壁際へ転がった。私は飛びかかり、今度は口でくわえた。
う、硬い。
薬草の匂いがする。
私は瓶をくわえたまま、少女のもとへ戻った。
廊下にいた使用人たちの視線が、私に集まる。
シルビアも、ようやく私を見た。
「ノワール?」
私は少女の足元に瓶を置いた。
「にゃ」
これだ。
少女は目を丸くした。
「あ……!」
布束の隙間を確認し、顔色を変える。
「薬瓶……!」
シルビアは小さく息をついた。
「だから言ったでしょう。そんな持ち方では危ないと」
……言ってない。
シルビアよ、そうは出力されてないよ。
シルビアは箱を片腕に抱えたまま、もう片方の手で少女の荷物を少し整えた。
不器用だが、丁寧な手つきだった。
「これは割れたら困るものでしょう。あなたが怪我をするかもしれませんし、中身も無駄になります」
お、今回はかなり言えている。
少しきついが、意味は伝わる!
少女は呆然とシルビアを見上げた。
「お嬢様……」
「何ですの」
「私が、落としかけていたのを……?」
「見れば分かりますわ」
見えていたのか。
近かったから見えたのかもしれない。
シルビアはぷいっと顔をそむけた。
「まったく。あなたでは遅すぎます。運ぶ場所はどこですの」
「え?」
「その荷物です。どこへ運ぶのかと聞いています」
少女は慌てて答えた。
「医務室です。奥様から、薬草布と薬瓶を運ぶようにと」
「では行きますわよ」
「えっ」
シルビアは箱を抱えたまま、すたすたと歩き出した。
少女が慌てて追いかける。
「あ、あの、お嬢様! 私が運びます!」
「あなた一人では危なっかしいですわ。わたくしが持った方が早いでしょう」
言い方。
だが、行動は完全に手伝いである。
私は二人の後を追いかけた。
廊下に残された使用人たちは、ぽかんとしている。
その中の一人が、小さくつぶやく。
「お嬢様が……手伝っていらっしゃる?」
別の者が首をかしげる。
「でも、邪魔だとおっしゃって……」
「でも、薬瓶が落ちそうだったから……?」
よし!
混乱している!混乱してしまえ!
これだと悪い方向に断定されにくい。
この評価は大きい。
私は心の中でうなずいた。
悪評とは、断定される前に別の情報を混ぜることが大事だ。
前世の仕事で学んだ。
炎上対応は初動が命である。
医務室までの道中、シルビアはずっと箱を持っていた。
箱は、七歳の少女には少し重そうだったが、彼女はそれを顔に出さない。
背筋を伸ばし、涼しい顔で歩く。
ただし、耳のあたりが少し赤い。
たぶん、人前で荷物を持つことに照れているのだろう。
少女は何度もシルビアを見た。
怖がってはいる。
だが、それだけではない。
不思議そうで、少し申し訳なさそうで、そして少しだけ嬉しそうだった。
医務室に着くと、シルビアは箱を机の上に置いた。
「次からは、何度かに分けて運びなさい。一度に持てばよいというものではありませんわ」
「はい……」
「それと、前が見えないほど荷物を抱えるのは愚かです」
きつい。
最後の一言がきつい。
少女の肩がまた少し縮こまる。
まずい、せっかく良い流れだったのに。
私はシルビアの足元へ行き、すりっと体を寄せた。
「にゃ」
言い直せ。
今だ。
シルビアは私を見下ろす。
「何ですの、ノワール」
「にゃ」
言い直せ。
ここで優しい言葉を追加するのだ!
シルビアはしばらく私を見ていた。
それから少女へ視線を戻す。
「……転んで怪我をされても、困りますもの」
少女が顔を上げた。
シルビアは目をそらした。
「あなたが怪我をしたら、医務室に運ぶものを運ぶ人間が減るでしょう」
惜しい。
また効率の話になった。
だが、「怪我をされても困る」は言えた。
前進である。
少女は少しだけ笑った。
「はい。次からは、何度かに分けて運びます」
「そうなさい」
シルビアはそれだけ言って、くるりと踵を返した。
私はその後ろをついていく。
医務室を出る直前、少女の声が聞こえた。
「あの、お嬢様」
シルビアが足を止める。
「何ですの」
「ありがとうございました」
シルビアの背中が、ぴんと伸びた。
驚いている。
たぶん、礼を言われると思っていなかったのだろう。
シルビアは振り返らないまま、早口で言った。
「当然のことですわ。礼を言われるほどではありません」
そして、逃げるように廊下へ出た。
その横顔は赤い。
照れている。
完全に照れている。
かわいい。
このお嬢様、褒められると弱い。
私は少しだけ喉を鳴らした。
シルビアは私を見下ろす。
「何を笑っているのです、ノワール」
「にゃ」
笑っていない。
猫なので。
廊下を少し歩いたところで、シルビアは小さく息を吐いた。
「……わたくし、ちゃんとできていましたかしら」
その声は、とても小さかった。
私は足を止めた。
シルビアは前を向いたまま、続ける。
「お兄様は、下の者を導くのも公爵家の務めだとおっしゃいました。けれど、わたくしが言うと、皆、怖がるのです」
私はシルビアを見上げた。
彼女は気づいていた。
完全ではないし、理由も分かっていない。
けれど、自分の言葉が人を怖がらせることを、感じていた。
「わたくしは、間違っているのでしょうか」
少し大人びた七歳の子どもの声だった。
完璧な公爵令嬢の声ではない。
小さな女王様の声でもない。
ただ、自分が人とうまく関われないことに戸惑っている少女の声だった。
私はシルビアの足元へ歩み寄り、そっと体をすり寄せた。
「にゃ~」
間違っているわけではない。
ただ、伝え方が壊滅的なだけだ。
かなり致命的だが、修正は可能である。
シルビアは私を見下ろした。
「……あなたは、わたくしを怖がりませんのね」
「にゃっ」
怖がる理由がない。
いや、顔の圧は少し怖い。
命名センスは改良しなくてはならない。
でも、シルビア自身は怖くない。
この子はただ、不器用なだけだ。
シルビアは少しだけ口元をゆるめた。
「変な猫ですこと」
それは否定できない。
元人間の黒猫ですから。
そのとき、廊下の角の向こうで、小さな声が聞こえた。
「……お嬢様が、荷物を?」
私は耳を立てた。
さっき廊下にいた使用人たちだろうか。
「ええ。医務室まで運んでくださったらしいわ」
「でも、邪魔だって言ったんでしょう?」
「それは……でも、薬瓶が落ちそうだったからって」
「お嬢様が?」
「ノワール様が薬瓶を拾ったそうよ」
「ノワール様、賢いのね」
「お嬢様も……もしかして、心配してくださったのかしら」
よし。
私は内心で拳を天高く振り上げた。
猫なので実際はできないが。
噂の方向が変わっている。
完全な悪評ではなく、疑問が混ざっている。
「怖い」だけではなく、「もしかして心配していたのかも」が混ざっている。
これは大きな進歩だ。
シルビアは声に気づいたのか、少しだけ足を止めた。
しかし、何も言わずに歩き出す。
顔はいつも通り澄ましているが、耳が赤い。
分かりやすい。
非常に分かりやすい。
私はその後を歩きながら、ひそかに考える。
シルビアの善行は、放っておくと悪行に見える。
だが、少しだけ補助を入れれば、周囲に本当の意味が伝わることもある。
薬瓶を拾う。
動機を見える形にする。
誤解される前に、別の情報を差し込む。
猫にできることは少ない。
だが、ゼロではない。
私はしっぽを立てた。
この調子で一つずつ変えていけば、シルビアは悪役令嬢にならずに済むかもしれない。
そう思った、その直後。
廊下の向こうから、一人の侍女が歩いてきた。
灰色のスカート。
私はぴたりと足を止めた。
昨日、紅茶騒ぎの後に扉の隙間から見えた色と同じだった。
侍女は私たちに気づくと、すぐに頭を下げた。
「お嬢様」
声は落ち着いていて顔も穏やかだ。
だが、目が笑っていない。
シルビアは何も気づかず、いつものように軽くうなずいた。
「ごきげんよう」
侍女は顔を伏せたまま、静かに道を譲る。
私たちはその横を通り過ぎた。
すれ違う瞬間、侍女の視線が私に落ちた。
ほんの一瞬。
冷たい視線だった。
私は耳を伏せた。
この侍女だ。
昨日、見ていたのは。
そしておそらく、今日のことも見ていた。
シルビアの善行を、どう受け取るか、どう広めるか。
それは、この屋敷にいる人間次第だ。
私は振り返った。
灰色のスカートの侍女は、すでに廊下の角を曲がろうとしている。
その横顔には、うっすらと笑みが浮かんでいた。
優しい笑みではない。
何かを見つけた者の笑みだった。
私は静かに目を細める。
シルビアの善意を悪意に変えるのは、本人の言葉だけとは限らない。
それを悪意として広める誰かがいるなら。
そちらも、どうにかしなければならない。
私は黒猫ノワール。
悪役令嬢断罪エンド回避担当。
次の任務は、決まった。
灰色のスカートの侍女。
名前は、まだ知らない。
だが、覚えた。
あの灰色の侍女を、マークする。
「ドアノブ開けられない問題に続報!出入りしたいドアの前でしっぽをフリフリすると、使用人のみんな開けてくれるんだ。公爵家の人たち優しいな。さっきは公爵自らが開けてくれたよ。顔の威圧に毛が逆だっちゃったのは内緒。by ノワール」
ここまでお読みいただき、ありがとうございます!
続きが何か気になる、面白いと思っていただけましたら、ブックマークや評価で応援していただけると、とても嬉しいです。
黒猫一匹と作者が喜びます。
ありがとうございました!




