第5話 黒猫、最初の悪評イベントを阻止する
完結確定。
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シルビア・グランベルが悪役令嬢に見える原因は、だいたい分かってきた。
言葉選びは壊滅的。
表情は固い。
視力が悪いせいで、遠くを見ると睨み顔。
さらに、兄レオンハルト仕込みの貴族教育により、「優しくしたいときほど厳しく言うべき」という謎解釈まで搭載されている。
違う、そうじゃない。
私はクッションの上で丸くなりながら、深いため息をついた。
猫なので、実際には鼻からフスンと息が出ただけだったけど。
このお嬢様、かなり難易度が高い。
だが、放っておくわけにはいかない。
何しろ、彼女は十年後に断罪される予定である。
乙女ゲーム『星降る学院と運命の恋』において、シルビア・グランベルは極悪非道の悪役令嬢として語られる。
その悪評の中でも、最初の方に必ず出てくる事件があった。
侍女に紅茶を浴びせた事件。
たしか、ゲームの資料ではこうだった。
幼い頃から気性の荒かったシルビアは、気に入らない侍女に熱い紅茶を浴びせた。侍女は火傷を負い、屋敷を去った。
それ以来、グランベル公爵家ではシルビアを恐れる者が急増する。
彼女が「幼い頃から残酷だった」と示すための、重要なイベントである。
そして私は、出会い頭に庭で見た。
シルビアは確かに紅茶にうるさい。
だが、それは侍女を苦しめたいからではなく、熱すぎる紅茶で火傷しないように、心配していただけだった。
つまり。
悪評イベントには、誤解が含まれている可能性が高い。
そして、もし私の記憶が正しければ。
その事件は、そろそろ起きる。
私はクッションの上で、耳を立てた。
ここからが、本当の任務開始である。
数時間後。
私はシルビアの部屋にいた。
シルビアは窓辺のテーブルで本を読んでいる。
七歳とは思えないほど分厚い本だ。
公爵家の娘は大変である。
私はその足元で丸くなっているふりをしながら、部屋の中を警戒していた。
そして、扉の向こうから聞こえる足音。
来た。
侍女が紅茶を運んでくる。
私は体を起こした。
扉が静かに開く。
「お嬢様、お茶をお持ちしました」
入ってきたのは、あの日庭でシルビアに焼き菓子をもらっていた若い侍女だった。
名前はたしか、エマ。別の侍女がそう呼んでいた。
まだ新人に近いのか、動きに少し緊張がある。
シルビアの前では特にそうだ。
無理もない。
シルビアは、ただ本から顔を上げただけだが、目元が鋭く、完全に「遅かったわね」と言っている顔である。
実際には、たぶん何も考えていないだろうが。
エマは緊張した様子で、ティーポットをテーブルへ運ぶ。
私は床からその動きを見ていた。
手が震えている。
まずい、非常にまずい。
ティーポットから立ち上る湯気。
緊張した侍女。
無表情のシルビア。
白いクロス。
熱い紅茶。
イベントどうぞ、といわんばかりに状況が整いすぎている。
私はゆっくりと立ち上がった。
エマがカップを置きポットを傾ける。赤茶色の紅茶が細い線になって注がれる。
そのとき、シルビアが口を開いた。
「エマ」
「は、はいっ」
「その紅茶、熱すぎませんこと?」
出た。
シルビアの紅茶チェックである。
エマの肩がびくりと跳ねた。
「も、申し訳ございません。すぐに――」
「まだ謝る場面ではありませんわ。確認しているだけです」
怖い。
確認なのに、すでに尋問である。
シルビアは眉を寄せた。
「先日も言いましたでしょう。熱すぎるものを不用意に扱えば、火傷をします。あなたは少し注意が足りませんわ」
エマの顔色が悪くなる。
シルビアよ、内容は正しい。
だが言い方が完全に叱責になっている。
エマは慌ててカップを持とうとした。
「申し訳ございません、お嬢様。すぐにお取り替えを――」
まずい。
焦っている。
手が震えている。
カップの縁に指が引っかかり、ソーサーが小さく鳴った。
シルビアはそれを見て、はっとしたように身を乗り出した。
「危ないですわ!」
シルビアの小さな手が、カップへ伸びる。
エマも同時にカップを押さえようとする。
このままでは、二人の手がぶつかる。
カップが傾く。
熱い紅茶がエマの手元か服にかかる。
ゲームの悪評イベント。
侍女に紅茶を浴びせた事件。
これだ。
私の背中の毛が逆立った。
考えるより先に、体が動く。
私は床を蹴った。
猫の体は軽い。
前世の私なら絶対に無理な距離を、一息で跳ぶ。
椅子の脚を蹴り、テーブルクロスの端に爪をかけ、さらに跳ねる。
視界の中で、カップが傾いていた。
紅茶がこぼれ始める。
エマの白い袖へ、熱い液体が落ちようとしていた。
間に合え!
私はカップそのものではなく、ソーサーの端に体をぶつけた。
傾きかけたカップが、エマの方ではなく、テーブルの奥へ倒れる。
軽い陶器の音と銀のスプーンが跳ねる音。
エマの悲鳴。
シルビアの息をのむ音。
カップは横へ弾かれ、紅茶はエマではなく、テーブルの上と床へこぼれた。
そして一部は、私にかかった。
熱いっ!
「にゃっ!」
私は情けない声を上げて、テーブルから床へ落ちた。
着地はした。
猫なので。
そこはきちんと着地した。
だが、背中の毛に熱い紅茶が染みている。
痛いというほどではない。
けれど熱い。とても熱い。そしてとても不快である。
床に着地した私は、ぶるぶると体を震わせた。
紅茶のしずくが飛ぶ。
白い床に茶色い点が飛び立った。
エマは呆然としていた。
シルビアも呆然としていた。
数秒の沈黙。
その後、シルビアが声を上げる。
「ノワール!」
彼女は椅子から立ち上がり、私のもとへ駆け寄った。
ドレスの裾が床の紅茶を吸い込んでも、そんなことを気にする様子もなく、シルビアは私を抱き上げた。
「あなた、何をしているのですか!」
怒っている。
いや、違う。
言い方は怒っているが、声も手も震えていて顔色が悪い。
心配している。
シルビアは私の背中を見て、さらに眉をつり上げた。
「こんなに濡れて……!」
エマが我に返り、慌てて頭を下げる。
「も、申し訳ございません! 私が不注意で……!」
「違いますわ!」
シルビアの声が鋭く響いた。
エマがびくりとする。
シルビアは私を抱いたまま、唇を噛んだ。
「あなたではなく、この子が勝手に飛び込んだのです!」
言い方。
それでは私が、ただの暴れ猫ではないか。
いや、実際、外から見ればそうかもしれない。
シルビアとエマの間に飛び込み、カップを弾き、紅茶を床にぶちまけた黒猫。
完全にいたずら猫にしか見えないだろう。
だが、目的は達成した。
エマに紅茶はかかっていない。
ゆえに火傷もしていない。
ということは、シルビアが侍女に紅茶を浴びせた、という事実は発生していないことになる。
イベント阻止成功。
ただし、私は紅茶まみれである。
成功とは何か、再考の余地がある。
シルビアは私の背中を見て、目に涙をためていた。
だが、すぐにきゅっと口元を引き結ぶ。
「エマ、濡らした布を。早くなさい」
「は、はい!」
「いえ、違いますわ。水は冷たすぎていけません。ぬるいものを。あと、清潔な布を何枚か。急いで」
「かしこまりました!」
エマが部屋を飛び出す。
シルビアは私を抱きしめたまま、小さく息を吐いた。
「まったく。わたくしの猫が、こんなにみすぼらしくなったら困りますわ」
出た。
みすぼらしい。
本心は「大丈夫?」だろう。
だが、口から出るのは「みすぼらしい」。
私は濡れた毛のまま、シルビアを見上げた。
シルビアの紫の瞳が、近くにある。
今は目を細めていない。
けれどその瞳は、ひどく不安そうで、涙の幕が張っていた。
「……熱かったでしょう」
小さな声だった。
私はピクピクと耳を動かした。
今、ちゃんと言った。
熱かったでしょう、と。
責める言葉でも、命令でもなく、心配の一言。
ほんの小さな一歩である。
だが、確かに一歩だ。
私はシルビアの腕の中で、短く鳴いた。
「にゃ」
大丈夫。
いや、少し熱いけど。
エマが布を持って戻ってきた。
シルビアは布を受け取ると、私の背中をそっと拭いた。
手つきは不器用だが、とても丁寧だった。
エマはその様子を見て、少し驚いていた。
無理もない。
シルビアは、ついさっきまで怖い顔で注意していた。
だが今は、紅茶まみれになった黒猫を必死で拭いている。
眉を寄せながらも、触れる手はとても優しい。
エマの目が、少し変わった。
怯えだけではない、戸惑いと、驚きと、ほんの少しの理解。
「お嬢様……」
「何ですの」
言い方きつい。
シルビアは顔を上げずに答えた。
エマは少し迷ったあと、小さな声で言った。
「ノワール様が飛び込まなければ、私に紅茶がかかっていたかもしれません」
シルビアの手が止まった。
「……そうですわね」
「お嬢様も、止めようとしてくださったのですよね」
シルビアは一瞬、固まった。
それから、ぷいっと顔をそむける。
「当然ですわ。あなたが火傷などしたら、仕事に差し障りますもの」
またそれか。
だが、今回はエマが少しだけ笑った。
ほんの少し、けれど、確かに。
「ありがとうございます」
シルビアの頬が、かすかに赤くなる。
「お礼など不要ですわ」
いつもの言葉。
だが、声はさっきより少し小さかった。
私はシルビアの腕の中で、ぐったりしながらも満足した。
エマに火傷はない。
シルビアが紅茶を浴びせた事実もない。
悪評イベントは阻止した。
そして、エマはシルビアの本心に少しだけ気づいた。
これは大きい。
いや、かなり大きい。
ただし、部屋も私も紅茶まみれ。
シルビアのドレスの袖にも、少し紅茶がついている。
損害はある。
しかし必要経費である。
そのとき、扉の外から別の侍女たちの声が聞こえた。
「どうしたの?」
「大きな音がしたけれど」
「お嬢様が、また何か……?」
また?
その一言に、私は耳を動かした。
エマが慌てて扉の方を見た。
シルビアの表情が固くなる。
まずい。
このままだと、別の誤解が生まれる。
シルビアが侍女に紅茶を浴びせた事件は防いだ。
だが、「シルビアの部屋で紅茶がこぼれた」「侍女が青ざめていた」「黒猫が濡れていた」という情報だけが伝われば、噂は別の形で広がる可能性がある。
悪評とは、事実よりも速く走るのだから。
私は猫である。
説明はできない。
どうする。
エマが小さく息を吸った。
そして、扉へ向かって声を上げた。
「大丈夫です。ノワール様が少し驚いて、カップに飛び込んでしまっただけです」
おお!
エマ!
あなた、なかなかできる!
扉の外が静かになる。
「ノワール様が?」
「ええ。お嬢様もすぐに布を用意するよう指示してくださいました。大事ありません」
シルビアが驚いたようにエマを見た。
エマは少し緊張しながらも、シルビアに向き直る。
「……そう、ですよね。お嬢様」
シルビアはしばらく黙っていた。
それから、小さくうなずく。
「ええ。大事ありませんわ」
声はまだ少し固いが、怒ってはいなかった。
扉の外の侍女たちは、ほっとしたように去っていく。
私は心の中で大きく息を吐いた。
私の名誉は少し失われた。
だが、シルビアの悪評よりは安い。
噂の拡散、一次防止成功。
しかし油断はできない。
この屋敷には、シルビアを誤解する土壌がすでにある。
何か起きれば、すぐに「お嬢様がまた」と言われる。
ゲームの悪評は、きっとこうやって作られていくのだ。
ほんの小さな事故。
きつい言い方。
怯えた使用人。
断片だけを聞いた者の想像。
そしていつの間にか、「シルビア様は侍女に紅茶を浴びせた」となる。
今回は防げたが、次も防げるとは限らない。
シルビアは私の背中を拭き終えると、清潔な布で私をくるんだ。
「まったく。あなたは本当に、手のかかる猫ですわ」
違う。
手がかかるのはあなたです。
そう言いたかったが、私は鳴くだけにした。
「にゃ」
シルビアは私を抱き、少しだけ微笑んだ。
その笑みは、エマにも見えたらしい。
エマが目を丸くし、それから、どこかほっとしたように表情をゆるめた。
小さい、本当に小さい変化だ。
だが、確かに変わった。
シルビアの悪評イベントを一つ潰した。
そして、侍女一人の見方を少しだけ変えた。
私は布にくるまれながら、真剣に考える。
シルビアの善意を、周囲に正しく伝える必要がある。
それができなければ、この子は本当に悪役令嬢にされてしまうだろう。
私は黒猫ノワール。
魔法は使えない。
人間の言葉も話せない。
だが、カップに体当たりすることはできる。
……できれば、次はもう少し熱くない方がいい。
エマはやはりもう少し、紅茶の温度に気を配るべきだろう。
そう思った瞬間、廊下の向こうで小さな足音が止まった。
私は耳を立てた。
誰かが、今の騒ぎを聞いていた。
扉の隙間の向こう。
一瞬だけ、灰色のスカートの裾が見えた。
足音はすぐに遠ざかっていく。
私はシルビアの腕の中で、目を細めた。
最初の悪評イベントは防いだ。
けれど、この屋敷にはまだ、シルビアを見ている誰かがいる。
その視線が、味方のものとは限らない。
断罪エンドまで、あと十年。
どうやら、私の仕事は思っていた以上に多そうだ。
「エマは本当にいい子や。見ているとドジっ子で危なっかしくて、ハラハラするが。いい子や。個人的にも成長に期待しているのだ!by ノワール」
ここまでお読みいただき、ありがとうございます!
続きが何か気になる、面白いと思っていただけましたら、ブックマークや評価で応援していただけると、とても嬉しいです。
黒猫一匹と作者が喜びます。
ありがとうございました!




