第47話 従姉妹は、初めて笑えなくなる
完結確定。
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クラリス・ローヴェルは、笑っていなかった。
いや、正確には笑おうとしていた。
口元だけは、まだ微笑みの形を保っている。
けれど、目が笑っていない。
頬が強張り、指先が扇を強く握りしめている。
美しい伯爵令嬢の仮面が、音もなく静かに剥がれ始めていた。
大広間には、重い沈黙が広がっている。
証拠は並べられた。
魔法糸。
慈善会の細工。
馬車事故の煙玉。
ローヴェル家の小商会を経由した金。
マリナの手紙。
神殿派閥の倉庫から消えた魔法薬。
リーナの証言。
アレクシスの宣言。
これだけのものが並んだ今、クラリスの「心配していただけ」という言葉は、もう力を持たない。
それでも、彼女は崩れなかった。
クラリスはゆっくりと息を吸い、静かに言った。
「……何か、誤解があるようですわ」
声は震えていない。
さすがだ。
追い詰められても、まだ立っている。
「マリナが何を考えていたのか、わたくしには分かりません。ローヴェル家の古い印が使われたとしても、それだけでわたくしが関わったとは言えませんわ」
その通り。
言い逃れとしては正しい。
「馬車の件も、ローヴェル家の馬車が利用されたのなら、わたくしも被害者です」
これも、想定通り。
クラリスは自分を被害者の位置に置く。
直接の証拠がなければ、そこを突く。
公爵は黙って聞いている。
アレクシスも遮らない。
クラリスは続ける。
「わたくしは、ただリーナ様を心配していただけです。シルビア様のことも、誤解されないようにと思って」
言葉が戻ってきた。
優しい従姉妹の言葉。
だが、少しだけ遅い。
リーナが一歩前へ出た。
「クラリス様」
クラリスがリーナを見る。
その顔に、わずかな期待が浮かんだ。
リーナは優しい。
だから、まだ庇ってくれるかもしれない。
そう思ったのかもしれない。
だが、リーナは静かに言った。
「私を心配してくださったことは、感謝しています」
クラリスの表情が少し和らぐ。
「でも」
リーナは続けた。
「私の気持ちを、勝手に決めないでください」
大広間が静まる。
リーナの声は大きくない。
けれど、よく通った。
「私は、シルビア様のおそばにいることを、自分で選びました」
クラリスの目が揺れる。
「リーナ様、わたくしは」
「シルビア様は怖い方ではない、とは言いません」
リーナは少しだけシルビアを見た。
シルビアは固まる。
私は腕の中で身じろぎした。
リーナは続けた。
「今でも、言い方にびっくりすることはあります」
正直。
非常に正直。
シルビアの耳が赤くなっている。
しかし、逃げない。
「でも、シルビア様は私を見てくださいます。困っていたら気づいてくださいます。間違っていたら教えてくださいます。怖い言い方の奥に、相手を思いやる優しさがあります」
リーナはクラリスを見た。
「私は、それを自分で知りました」
強い。
クラリスの口元がわずかに引きつる。
リーナは最後に言った。
「だから、私のためという言葉で、シルビア様を疑わせないでください」
大広間が静まり返った。
神官が何か言おうとした。
だが、アレクシスが先に口を開く。
「リーナ嬢の意思は明確だ」
王太子の声。
誰も反論できない。
クラリスは、少しだけ視線を伏せた。
だが、まだ終わらない。
彼女は次に、シルビアを見た。
「シルビア様」
声が少し変わっていた。
優しさが薄れ、本音に近いものが混じっている。
「あなたは、いつもそうですわね」
シルビアの眉がわずかに動く。
クラリスは笑った。
今度は、いつもの微笑みではない。
薄く、冷たい笑み。
「何も知らない顔で、全部持っていらっしゃる」
大広間がざわめく。
クラリスにはもう、周囲を気にする余裕がなくなっていた。
また一つ、仮面が剥がれていく。
「公爵家の本家に生まれて、王太子殿下の婚約者になって、誰からも守られて」
「クラリス」
シルビアが小さく呼ぶ。
クラリスは止まらない。
「あなたは、それが当然だと思っているのでしょう?」
「違います」
シルビアの声は静かだった。
だが、クラリスには届いていない。
「わたくしがどれほど努力しても、どれほど微笑んでも、どれほど良い子でいても、あなたには届かない」
クラリスの声が震え始める。
「本家の娘というだけで、あなたは全部持っている。王太子殿下も、家族の愛も、周囲の注目も」
ああ。
出た。
本音だ。
どうして、シルビアばかり。
クラリスの中にずっとあった言葉。
それが今、溢れ出している。
シルビアは黙って聞いていた。
言い返さない。
逃げない。
私は彼女の腕の中から、クラリスを見た。
クラリスは、シルビアを憎んでいた。
けれど、その憎しみの中には、羨望もあった。
嫉妬。
劣等感。
欲しかったものに届かない痛み。
努力しても得られない。
切望、そして空虚。
それらが混ざっている。
クラリスは続けた。
「しかも、あなたはそれを大事にしない」
シルビアの目が揺れる。
「王太子殿下に好かれていることにも気づかない。ご家族に愛されていることにも、周囲があなたを見ていることにも。全部、当たり前のように」
アレクシスが少し息をのんだ。
シルビアは、完全に固まっていた。
今の言葉。
王太子殿下に好かれている。
そこに反応したのだろう。
いやまて、今ここで処理落ちするな。
大事だが、今はそこではない。
私は小さく鳴きそうになったが、場の空気が重すぎて黙った。
クラリスは笑った。
痛々しい笑いだった。
「だから、思ったのです。あなたがいらないなら、わたくしが欲しいと」
大広間の空気が凍った。
それは、ほとんど自白に近かった。
アレクシスが静かに言う。
「クラリス嬢。それは、王太子妃の座を望んでいたという意味かな」
クラリスは彼を見る。
その目には、もう以前の柔らかさはない。
「望んではいけませんか」
開き直り。
ついに。
クラリスは続ける。
「わたくしの方が、うまくやれましたわ。シルビア様よりも、ずっと」
レオンハルトの目が冷える。
公爵夫人の微笑みがすっと、氷の笑みに変わった。
グランベル公爵は表情を変えない。
それが逆に怖い。
アレクシスは静かに首を振った。
「王太子妃に必要なのは、うまく微笑むことだけではない」
クラリスの顔が歪む。
「では、何ですの?」
「人を駒にしないことだ」
その一言は、重かった。
クラリスが息をのむ。
アレクシスは続ける。
「リーナ嬢を利用し、シルビア嬢を陥れ、周囲に噂を流し、事故まで起こした者が、王太子妃にふさわしいと言うのか」
「事故は、わたくしが」
「まだ断定はしていない」
アレクシスは冷静に言った。
「だが、君が少なくとも噂の操作に関わっていたことは、この場の証言でも明らかだ。そして、今の発言は君の動機を示している」
淡々と詰める。
王太子、成長著しい。
クラリスは唇を噛んだ。
それから、シルビアを見た。
「あなたが悪いのです」
大広間が凍る。
「あなたが、何もかも持っているのに、何も分かっていないから」
その言葉は、刃だった。
シルビアへ向けられた、まっすぐな刃。
シルビアは少しだけ目を伏せた。
私は彼女の腕の中で、心配になる。
傷ついた。
間違いなく。
だが、シルビアは逃げなかった。
顔を上げた。
そして、静かに言った。
「そうかもしれません」
え。
私は目を見開いた。
大広間もざわめく。
シルビアは続けた。
「わたくしは、たくさんのものを持っていたのだと思います。それに気づかず、うまく受け取れず、何度も人を傷つけたかもしれません」
声は震えていない。
「あなたがわたくしを憎む理由のすべては、分かりません。分かると言えば、嘘になります」
クラリスが黙る。
シルビアは彼女を見つめた。
「でも、それでも」
シルビアの手が、私の背をそっと撫でた。
「リーナ嬢を利用してよい理由にはなりません。ノワールを傷つけてよい理由にもなりません。誰かを陥れてよい理由にもなりません」
静かでいて、強い。
けれど、責め立てる強さではない。
自分の言葉で立つ強さ。
「あなたが欲しかったものを、わたくしが気づかずに持っていたのだとしても」
シルビアは一度、息を吸った。
「それを奪うために誰かを傷つけることを、わたくしは許しません」
大広間が静まり返った。
私は胸が熱くなった。
シルビア。
言えた。
自分の非も認めた。
でも、相手の罪まで自分のせいにはしなかった。
これは、昔のシルビアにはできなかったことだ。
クラリスの表情が崩れる。
怒り。
悲しみ。
悔しさ。
全部が混ざった顔。
彼女は初めて、完全に笑えなくなった。
そのとき、騎士の一人が大広間へ入ってきた。
アレクシスのそばへ寄り、何かを耳打ちする。
アレクシスの目が鋭くなる。
「分かった」
彼は大広間を見回した。
「逃走していたローヴェル家の従僕が確保された」
クラリスの顔から血の気が引く。
「彼は、指示を受けた相手の名前を証言し始めている」
大広間の空気が、さらに重くなる。
アレクシスは静かに言った。
「クラリス・ローヴェル。君の名も出ている」
クラリスは、何も言えなかった。
微笑みの仮面が、落ちた。
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