第41話 悪役令嬢の従姉妹の笑みが、少し歪む
完結確定。
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クラリス・ローヴェルは、笑っていた。
窓の外には、学院の中庭が見える。
療養中とはいえ、ここにいれば学院の空気は少しだけ分かった。
クラリスはいつものように。
優しく、控えめで、品よく。
だが、その笑みはいつもより、少しだけ歪んでいた。
本人は気づいていないのかもしれない。
いや、気づいていて、必死に整えているのかもしれない。
どちらにせよ、もう以前の完璧な微笑みではなかった。
私はそれを、窓辺から見ていた。
まだ完全には動けない。
だが、少しずつ歩けるようになってきた。
シルビアは相変わらず厳しいが、部屋の中を少し歩くくらいなら許可してくれるようになった。
「部屋の中だけです」
「にゃ」
廊下は?
「だめです」
「にゃ」
窓辺は?
「そこまでなら」
少しずつ自由を取り戻している。
革命は小さな一歩からである。
クラリスは中庭にいた。
数人の令嬢に囲まれている。
以前なら、彼女の周囲にはもっと人がいた。
優しく、話しやすく、安心できる令嬢。
そう思われていたからだ。
だが、今は少し違う。
慈善会以降、学院の空気が変わった。
シルビアを怖がるだけではなく、助けられた者が彼女を語るようになった。
リーナははっきりとシルビアを信頼すると言った。
アレクシスは噂をそのままにしなくなった。
公爵家は静かに調査を進めている。
クラリスの言葉は、以前ほど滑らかに人の心へ入り込まなくなっていた。
それでも彼女は笑う。
「シルビア様、まだ学院へいらっしゃらないのですね」
令嬢の一人が言った。
「事故の後ですもの。お休みになるのは当然ですわ」
別の令嬢がそう答える。
クラリスは優しくうなずいた。
「ええ。本当におかわいそうに。あのような事故に遭われたのですもの」
かわいそう。
またその言葉。
私は窓辺で耳を伏せる。
以前なら、その言葉はシルビアを少し下に置くためのものだった。
強いように見えるけれど、かわいそうな人。
誤解されやすくて、孤独な人。
だが今は、少し効きが悪い。
令嬢の一人が言った。
「でも、ノワール様が助かってよかったですわね」
ノワール様。
様づけは学院内では安定の定着率である。
悪くない。
「シルビア様、とても大切になさっているそうですもの」
「家族だとおっしゃったとか」
「わたくし、その場にいた方から聞きましたわ。とても優しいお声だったそうです」
クラリスの笑みが、わずかに固まる。
そう。
今、噂は少しずつ別の形になっている。
シルビアは怖い。
ではなく。
シルビアは黒猫を家族と言った。
ノワールを心配して泣いた。
事故で震えていた。
怖かったと認めた。
それは、クラリスが広めたい「強くて怖いシルビア」とは真逆。
人間らしいシルビア。
不器用だが、優しいシルビア。
その姿を、少しずつ皆が知り始めている。
クラリスは扇を開いた。
「シルビア様は、昔からお気に入りのものを大切になさる方でしたものね」
もの。
また、その言葉。
だが、すぐに令嬢の一人が首をかしげた。
「もの、ですか? ノワール様は家族だと」
クラリスの指が止まる。
「ええ。そうですわね。失礼しました」
すぐに微笑む。
だが、少しだけ遅かった。
令嬢たちは気づいただろうか。
だが私は見た。
クラリスの仮面に、小さなひびが入ったのを。
別の令嬢が言う。
「最近、リーナ様もシルビア様のことをとても慕っていらっしゃいますわね」
クラリスは微笑む。
「リーナ様はお優しい方ですから」
またそれ。
リーナの意思を優しさで無効化する言葉。
だが、今度は別の令嬢が言った。
「でも、リーナ様ご本人が、シルビア様に助けられたと何度もおっしゃっていますわ」
「ええ。慈善会でも、シルビア様が守ってくださったと」
「勉強会もまた開かれるそうですわね」
クラリスは一瞬黙った。
その沈黙は短い。
だが、以前の彼女なら見せなかった沈黙だ。
「……そうですか」
声は柔らかい。
しかし、少し冷たい。
令嬢たちは気づかず話を続ける。
「シルビア様が戻られたら、また参加したいですわ」
「リーナ様も参加なさるでしょうし」
「殿下もいらっしゃるかしら」
その言葉に、クラリスの目がわずかに細くなった。
アレクシス。
王太子。
シルビアの婚約者。
クラリスが本当に欲しかった場所。
シルビアが持っているもの。
けれど、シルビア自身はその価値に気づいていないと、クラリスは思っている。
だから許せないのだろう。
シルビアは何もかも持っている。
公爵家の娘という地位。
誰もが認める美貌。
家族の愛。
王太子の婚約者という立場。
そして今は、リーナの信頼や周囲の評価まで得始めている。
クラリスの笑みが、また少し歪んだ。
令嬢の一人が、不意に聞いた。
「クラリス様は、シルビア様のご親戚ですものね。ご心配でしょう?」
クラリスはすぐに微笑みを整えた。
「ええ。もちろん」
嘘のように滑らかな声。
「シルビア様には、早くお元気になっていただきたいですわ」
その言葉だけなら、優しい従姉妹だ。
だが、私はもう知っている。
クラリスは、シルビアが元気になることを本当に望んでいるのか。
あるいは、元通りの「怖くて誤解されるシルビア」に戻ることを望んでいるのか。
たぶん、後者だ。
そのとき、クラリスの背後に一人の侍女が近づいた。
学院別邸の侍女ではない。
ローヴェル家の者だろう。
彼女はクラリスに小さく耳打ちした。
クラリスの表情が、ほんの一瞬だけ消えた。
完全に消えた。
微笑みも、優しさも、全部。
空っぽの顔。
すぐに戻ったが、私は見逃さなかった。
令嬢たちには「少し失礼しますわ」と言い、クラリスは中庭の奥へ向かった。
私は窓辺から身を乗り出した。
追いたい。
非常に追いたい。
だが、シルビアの声がした。
「ノワール」
ばれていた。
振り返ると、シルビアがこちらを見ている。
「まだ窓から出てはいけません」
「にゃ」
任務です。
「だめです」
強い。
反論できない。
そのとき、廊下から足早な足音が近づき、部屋の扉が開いた。
レオンハルトだった。
「ちょうどいい」
彼はそう言って、シルビアに一枚の紙を渡した。
「クラリス嬢の周囲にいた者の一人が、今朝から姿を消した」
シルビアの表情が変わる。
「誰ですか」
「ローヴェル家に出入りしていた若い従僕だ。慈善会の前後、学院別邸にも近づいている」
私は耳を立てた。
逃げた使用人とは別か。
レオンハルトは続ける。
「その者が、先ほど王都へ向かう馬車に乗ろうとしていたところを、グランベル家の者が確認した。今は尾行している」
兄、仕事が早い。
かなり早い。
若い貴族社会だけでなく、実働の人間まで追っている。
シルビアは紙を握る。
「クラリスは」
「今のところ、表向きは何も知らない顔だ」
レオンハルトの声が少し冷える。
「だが、知らないにしては、周囲の者がよく消える」
その通り。
慈善会の細工。
馬車事故。
消えた馬具係。
偽の身分証。
そして、今度はローヴェル家の従僕。
尻尾切りが多すぎる。
アレクシスも後から部屋へ来た。
彼も同じ情報を受け取っていたらしい。
「従僕を追えば、金の流れか指示役に届く可能性がある」
レオンハルトがうなずく。
「こちらでも確認します。殿下の騎士と連携を」
「お願いする」
王太子と兄が普通に連携している。
強い。
そして怖い。
シルビアは静かに言った。
「クラリスは、焦っているのでしょうか」
アレクシスは少し考えた。
「おそらく」
レオンハルトも言う。
「追い詰められている者ほど、次の手を急ぐ」
私はしっぽを低くした。
その通り。
クラリスの微笑みは歪み始めている。
追い詰められた敵は、危険だ。
何をするか分からない。
シルビアは窓の外を見た。
中庭の奥に、クラリスの姿はもうない。
「わたくしは、クラリスと話すべきでしょうか」
部屋が静かになった。
アレクシスがすぐに言う。
「今は危険だ」
レオンハルトも頷く。
「証拠が揃う前に接触すれば、向こうに準備させることになる」
シルビアは唇を引き結んだ。
「分かっています」
でも、話したいのだろう。
従姉妹として。
幼い頃から知っていた相手として。
どうして、と聞きたいのだろう。
私はシルビアを見上げた。
優しい。
この子は、本当に優しい。
だから悪役令嬢には向いていない。
クラリスは、それを分かっているのだろうか。
分かっていて、利用しようとしたのだろうか。
だとしたら、なおさら許せない。
その日の夕方。
公爵夫人から報告が届いた。
マリナの手紙の一部が見つかったらしい。
宛先は偽名。
だが、使われていた封蝋の模様が、ローヴェル家の古い管理印と一致した。
決定的ではない。
だが、また一歩近づいた。
クラリスの微笑みは、少しずつ歪んでいる。
逃げ道は、少しずつ塞がっている。
ただし、追い詰める側も油断できない。
獣は、追い詰められたときが一番危ない。
私はまだ完全には動けない体で、窓の外を見た。
クラリス。
あなたは次に、何をする。
黒猫ノワール。
悪役令嬢断罪エンド回避担当。
今日、分かったこと。
クラリスの仮面に、ひびが入り始めた。
ローヴェル家の周囲から、人が消え始めた。
そして、証拠は少しずつ揃い始めている。
反撃は進んでいる。
だが、終わりはまだ見えない。
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黒猫一匹と作者が喜びます。
ありがとうございました!




