第40話 聖女候補は、駒ではない
完結確定。
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リーナが泣いた。
いや、正確には泣きそうになった。
けれど、泣かなかった。
唇を噛んで、両手を握りしめて、必死にこらえていた。
場所は学院別邸。
私が療養中の、あの部屋である。
シルビアは長椅子に座り、私はその隣の専用クッションに乗せられている。
ノワール専用療養クッション。
相変わらず高級である。
だが、いくら高級でも、ずっと寝ていると飽きる。
猫には散歩が必要だ。
しかし、シルビアは許してくれない。
「ノワール、まだ降りてはいけません」
「にゃ」
ほんの少し。
「だめです」
「にゃ」
廊下くらい。
「だめです」
完封。
公爵家の守りは、敵だけでなく猫の自由にも厳しい。
そんな私の前で、リーナはグランベル公爵夫人から話を聞いていた。
神殿派閥。
慈善会の護符に細工された魔法薬。
馬車事故で使われた煙玉。
リーナを王太子に近づけ、神殿の影響力を強めようとする勢力。
その説明は、かなり慎重に行われた。
リーナ本人を責める言い方は一つもない。
公爵夫人は穏やかに、けれどごまかさずに言った。
「リーナ嬢。あなた自身を疑っているわけではありません」
リーナは小さくうなずいた。
「はい」
「けれど、あなたを利用しようとしている者たちがいる可能性があります」
リーナの顔が白くなる。
当然だ。
彼女にとって神殿は、育った場所であり、帰る場所でもある。
そこにいる誰かが、自分を政治の道具にしようとしている。
リーナは膝の上で手を握りしめた。
「私が……王太子殿下に近づけば、神殿のためになるから、ですか」
声が震えている。
アレクシスは部屋の端に立っていた。
その表情は静かだが、明らかに怒りを押し殺している。
シルビアも、リーナを見ていた。
いつもの鋭い目。
だが、その奥には心配があった。
私はクッションの上で耳を伏せた。
リーナ。
君は悪くない。
悪いのは、君の優しさや立場を利用しようとした連中だ。
しかし、私は猫である。
言葉では言えない。
私は前足を伸ばし、クッションから少し身を乗り出した。
「にゃ」
リーナが顔を上げる。
「ノワールさん」
私は彼女を見た。
大丈夫。
少なくとも、ここに君を責める人はいない。
リーナは少しだけ涙をこらえるように笑った。
そのとき、シルビアが口を開いた。
「リーナ嬢」
「はい」
「あなたは、駒ではありませんわ」
声は少し硬かった。
だが、言葉はまっすぐだった。
リーナの目が見開かれる。
シルビアは続ける。
「聖女候補という立場を、誰かが勝手に利用しようとしているだけです。あなた自身が何か悪いことをしたわけではありません」
リーナは、何も言えずにシルビアを見つめた。
シルビアは少しだけ視線をそらす。
「ですから、そのような顔をしないでください」
言い方。
やや命令形。
でも、今回は悪くない。
リーナは小さく笑った。
「シルビア様は、私を心配してくださっているんですね」
シルビアが固まる。
「そ、そういう意味では」
出た。
照れ。
リーナはもう慣れている。
「ありがとうございます」
シルビアは少し顔を赤くした。
「どういたしまして」
よし。
やり取りとしては完璧だ。
公爵夫人が、その様子を柔らかく見守っている。
母は強い。
たぶん今のやり取りだけで、リーナとシルビアの関係が本物だと確認したはずだ。
アレクシスも少し表情を和らげた。
だが、彼はすぐに真剣な顔へ戻る。
「リーナ嬢。これからしばらく、君には王家とグランベル公爵家の保護を受けてもらいたい」
リーナが驚く。
「保護、ですか」
「神殿へ帰るな、という意味ではない。ただ、誰が君に接触しているのか、こちらでも確認したい。君の意思を無視して話を進める者がいれば、止める」
リーナは少し迷った。
当然だろう。
神殿の人々を疑うことになる。
自分が守られることで、神殿側と距離ができるかもしれない。
だが、シルビアが静かに言った。
「怖いなら、怖いと言っていいのです」
リーナがシルビアを見る。
その言葉は、シルビア自身が最近ようやく言えるようになった言葉だ。
怖い。
大丈夫ではない。
平気ではない。
だからこそ、今のシルビアには言えたのだろう。
リーナの目に涙が浮かんだ。
「……怖いです」
小さな声だった。
「神殿の誰かが、私を利用しようとしているかもしれないことも。知らないうちに、シルビア様を傷つける理由にされていたかもしれないことも。怖いです」
シルビアの表情が少し痛そうになる。
彼女は何か言いかけた。
私は見上げる。
シルビアは少し考え、言葉を選んだ。
「なら、怖いままでも構いません」
リーナは目を瞬いた。
「怖いまま、一緒に確認しましょう。あなたが一人で抱えることではありません」
おお。
いい。
非常にいい。
シルビアが、他人に「一人で抱えるな」と言っている。
昔のシルビアからは考えられない。
リーナは、ついに涙をこぼした。
「はい」
公爵夫人がそっとハンカチを差し出す。
リーナはそれを受け取った。
「ありがとうございます」
公爵夫人は優しく微笑んだ。
「こちらこそ、あなたがシルビアのそばにいてくださって、感謝しています」
リーナが目を丸くした。
シルビアも固まる。
公爵夫人は続ける。
「この子は、とても不器用でしょう?」
「お母様」
シルビアの声が慌てる。
公爵夫人はにこりと笑った。
「でも、あなたはその不器用さを怖がらずに見てくださった。母として、とても嬉しく思っています」
リーナは涙を拭きながら、少し笑った。
「シルビア様は、不器用ですけど、とても優しいです」
「リーナ嬢」
シルビアが赤くなる。
完全に照れている。
この部屋、少しだけ温かくなった。
しかし、話はまだ終わらない。
アレクシスが言った。
「神殿派閥の動きについては、私が王家側から確認する。リーナ嬢には、誰からどんな話をされたか思い出せる範囲で教えてほしい」
リーナは頷いた。
「分かりました」
公爵夫人も言う。
「無理に今すぐでなくて構いません。思い出したことがあれば、書き留めておいてください。誰の言葉が優しかったかではなく、何を言われたかを」
優しかったかではなく。
何を言われたか。
これは重要だ。
クラリスも神殿派閥も、優しい言葉で人を動かす。
だから、印象ではなく内容を見る必要がある。
リーナは真剣にうなずいた。
「はい」
シルビアはリーナを見つめていた。
少し迷ったあと、口を開く。
「リーナ嬢」
「はい」
「もし、神殿のことで困ったら……わたくしにも言いなさい」
命令形。
しかし、今回はすぐに続けた。
「いえ。言ってください」
言い直した。
リーナは嬉しそうに笑った。
「はい。シルビア様にも相談します」
相談。
その言葉に、シルビアがまた固まる。
頼られることに、まだ慣れていない。
だが、逃げなかった。
「……分かりました」
私は喉を鳴らした。
よし。
リーナは孤立しない。
シルビアも、リーナを疑わない。
アレクシスも、公爵夫人も味方だ。
神殿派閥の思惑は、かなり崩れた。
聖女候補を王家に近づけ、シルビアを悪役にし、婚約者の座を揺らす。
その計画は、肝心のリーナ本人が拒否し始めている。
これは大きい。
部屋を出る前、リーナは私のそばに来た。
「ノワールさん、早く元気になってくださいね」
「にゃ」
努力します。
リーナはそっと私の護符を直した。
「これ、効いていますか?」
「にゃ」
効いている。
少なくとも、気持ちは。
リーナは微笑んだ。
「よかった」
その笑顔を見て、私は思った。
リーナは駒ではない。
ヒロインという役でもない。
聖女候補という看板だけの存在でもない。
彼女は彼女だ。
怖がりながらも、自分の目で見ようとする少女だ。
そんな彼女を利用しようとした者たち。
残念だったな。
リーナはもう、シナリオ通りには動かない。
そしてシルビアも、悪役令嬢には戻らない。
私は黒猫ノワール。
悪役令嬢断罪エンド回避担当。
今日の成果。
リーナ、守られるだけでなく協力者へ。
シルビア、リーナを疑わず。
公爵夫人、優しい顔で情報収集開始。
アレクシス、神殿派閥へ調査を伸ばす。
敵の計画は、少しずつほどけ始めている。
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