第37話 公爵、静かに激怒する
完結確定。
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シルビアの父、グランベル公爵が来た。
その一報が入った瞬間、部屋の空気が変わった。
シルビアは背筋を伸ばした。
そして、アレクシスは書類を整えた。
私は長椅子の上で、体を丸めたまま耳を立てた。
グランベル公爵、厳格で、有能で、貴族社会の中心にいる人物。
そして、娘に関してだけは、かなり分厚い父親フィルターを装備している男である。
私はこれまで、彼を何度も見てきた。
シルビアが幼い頃、難しい礼儀作法を覚えたとき。
シルビアが初めて「ありがとう」を使用人に言えたとき。
シルビアが私を「家族のようなもの」と言ったとき。
公爵はいつも、表情を崩さなかった。
崩さなかったが、目元がほんの少し柔らかいのだ。
娘がかわいくて仕方ない。
ただし、公爵なので表に出さない。
表に出さない結果、周囲からは「厳格な父」に見える。
シルビアも、昔は父に褒められると緊張していた。
だが私は知っている。
この父は、娘が部屋を出たあと、執事に向かって小声で言ったことがある。
「今日のシルビアは、よくできていたな」
声は静か。
だが、口元がほんの少しだけ緩んでいた。
あれは完全に、娘がかわいい父の顔だった。
その公爵が、今、来る。
娘が馬車に轢かれかけた。
娘を庇って、家族同然の黒猫が死にかけた。
しかも、親族であるローヴェル家と、神殿派閥の影がある。
これは、まずい。
いや、こちらにとっては頼もしいが。
だが、敵にとっては非常にまずい。
扉が開いた。
グランベル公爵が入ってくる。
濃い金の髪。
鋭い紫の瞳。
整った顔立ち。
シルビアは父親似だ。
その場にいるだけで空気が引き締まる。
シルビアの顔面圧は、この父から受け継がれたものだとよく分かる。
公爵は部屋に入ると、まずシルビアを見た。
次に、私を見た。
それだけだった。
声を荒げない。
駆け寄らない。
取り乱さない。
けれど。
部屋の温度が三度ほど下がった気がした。
いつもと違う。
怒っている。
ものすごく怒っている。
静かに。
深く。
底が見えないほどに。
アレクシスですら、一瞬だけ背筋を伸ばした。
私の毛も逆だった。
分かる。
王太子でも少し引く程の圧である。
グランベル公爵はシルビアの前まで来た。
「シルビア」
「お父様」
シルビアは立ち上がろうとした。
だが、公爵が片手を上げて止めた。
「そのままでよい」
声は低い。
静か。
シルビアは少し戸惑いながら、座ったままでいる。
公爵はシルビアの顔色を見て、全身の様子を確認した。
そして、私に目を止めた。
「ノワール」
「にゃ」
生きています。
かなり弱っていますが。
公爵はわずかに目を細めた。
「よく、シルビアを守った」
その声に、私は少し驚いた。
公爵が、私に礼を言っている。
しかも、かなり本気で。
「にゃ」
どういたしまして。
シルビアは私の背に手を置いた。
指先が少し震えている。
公爵はそれを見た。
見ただけだった。
だが、空気がさらに冷えた。
アレクシスが口を開く。
「グランベル公爵。今回の件について、現時点で分かっていることをお伝えします」
「伺いましょう、殿下」
公爵はアレクシスへ向き直った。
礼儀正しい。
非常に礼儀正しい。
しかし、その声が怖い。
アレクシスは書類を広げた。
慈善会の魔法糸。
神殿派閥の倉庫から消えた魔法薬。
ローヴェル家が購入していた同種の糸。
馬車事故で使われた煙玉。
偽の身分証。
ローヴェル家の馬具に塗られていた薬。
事故後に姿を消した使用人。
アレクシスは一つずつ説明した。
公爵は、最後まで遮らなかった。
相槌すら少ない。
ただ聞いている。
だが、その沈黙が重い。
情報が増えるたびに、怒りが積み上がっていくのが分かる。
机を叩くわけではない。
声を荒げるわけでもない。
しかし、部屋にいる全員が理解していた。
この人は、激怒している。
アレクシスが説明を終えると、公爵はしばらく黙った。
そして、静かに言った。
「ローヴェル家は、使用人の単独犯を主張するでしょう」
アレクシスがうなずく。
「その可能性が高いと見ています」
「神殿派閥も、倉庫管理の不備で片づけようとする」
「ええ」
「では、そうさせなければよい」
公爵の声は、淡々としていた。
だが、その一言で空気が変わった。
そうさせなければよい。
怖い。
この父、怖い。
王太子の静かな怒りもかなりだったが、こちらは別種の怖さだ。
アレクシスも、わずかに目を細めた。
「公爵は、どのようにお考えですか」
「証拠を積み上げます」
公爵は即答した。
「ローヴェル家が購入した魔法糸の納入記録。保管場所。使用人の出入り。消えた使用人の家族関係、紹介状、給与の流れ。
神殿派閥の倉庫管理記録、鍵の管理者、帳簿の修正履歴。偽造身分証の依頼主。煙玉の材料の購入元。すべて洗います」
すべて。
今、すべてと言った。
アレクシスが少しだけ黙った。
王太子が引いている。
分かる。
グランベル公爵家の本気、かなり怖い。
公爵は続ける。
「ローヴェル家は分家です。こちらの商会、使用人筋、親族筋にも伝手があります。王家の調査で届きにくい場所は、こちらで当たりましょう」
アレクシスは表情を引き締めた。
「わかりました。ただし、私的制裁と取られないよう、王家の調査と連携した形にしたい」
「もちろんです」
公爵は静かにうなずく。
「我が家は法を乱しません。法を使います」
こわ。
私は思わずしっぽを体に巻いた。
法を乱さない。
法を使う。
この言葉、とても怖い。
怒っている貴族が、冷静に制度と証拠で相手を追い詰める気だ。
敵に回したら終わりである。
アレクシスも、たぶん同じことを思った。
彼は少しだけ苦笑に近い表情を浮かべた。
「グランベル公爵家を敵に回すというのは、王家を敵に回すのとは別の恐ろしさがありますね 」
公爵は表情を変えずに答えた。
「殿下。それは過分なお言葉です」
いや、否定していない。
謙遜の形で受け取った。
こわ。
シルビアが小さく言った。
「お父様」
公爵はすぐに娘を見る。
その瞬間だけ、空気が少し柔らかくなった。
「何だ、シルビア」
「わたくしは……」
シルビアは言葉を探している。
膝の上の私を撫でながら、少し目を伏せた。
「クラリスが関わっているのなら、知りたいです。でも、もし違うのなら……」
「分かっている」
公爵の声は静かだった。
「証拠なく断じることはしない」
シルビアが顔を上げる。
公爵は娘を見ていた。
「だが、証拠が出たのなら、私は躊躇しない」
シルビアは息をのむ。
「相手が親族でも、分家でも、神殿でも、王家に近い者でも関係ない」
公爵の紫の瞳が冷たく光る。
「お前を傷つけ、ノワールを死なせかけた者を、私は誰一人見逃さない」
部屋が静まり返った。
シルビアの目が揺れる。
私は少しだけ喉を鳴らした。
公爵。
静かに淡々と言っているが、内容がかなり重い。
アレクシスも、少しだけ息を吐いた。
「その点は、私も同じです」
公爵がアレクシスを見る。
王太子と公爵。
二人の静かな怒りが、同じ方向を向いた。
こわい。
非常にこわい。
敵側から見れば、絶望的な同盟である。
王家と公爵家。
しかも、どちらも感情だけで動くのではなく、証拠と手順で追い詰める気だ。
私は思った。
クラリス。
あなたは本当に、敵に回す相手を間違えた。
グランベル公爵は立ち上がった。
「シルビア」
「はい」
「しばらくは学院を休みなさい」
シルビアが目を見開く。
「ですが」
「これは命令ではない」
公爵は少しだけ声を柔らかくした。
「父としての願いだ」
シルビアは何も言えなくなった。
父として。
その言葉は、彼女にとって重かったのだろう。
「……分かりました」
「ノワールも安静に」
「にゃ」
はい。
これは逆らえない。
公爵は私を見た。
「お前にも、あとで魚を用意させよう」
「にゃっ」
今のは、少し元気が出た。
魚。
かなり大事。
シルビアが小さく笑った。
事故以来、初めて見せた、ほんの小さな笑みだった。
公爵はその笑みを見て、わずかに目元を緩めた。
だが、次の瞬間には、また公爵の顔に戻る。
「殿下。別室で、さらに詳しい話を」
「はい」
アレクシスが立ち上がる。
二人が部屋を出ていく。
その背中を見ながら、私は思った。
公爵の怒りはもう止まらないだろう。
これは、ただの父親の怒りではない。
公爵家当主としての判断。
政治家としての冷静さ。
父としての情。
すべてが合わさった怒り。
王家とグランベル公爵家が協力する。
その時点で、これはもう学院内の噂話では済まない。
物語は、確実に次の段階へ進んだ。
私は黒猫ノワール。
悪役令嬢断罪エンド回避担当。
今日、分かったこと。
グランベル公爵は、王家より怖い。
そしてその公爵が、完全に敵を捕捉し始めた。
「シルビア父、怖かった。野生の本能が警戒音を鳴らしっぱなしだった。でも本当は、家族大好きな優しいパパさんなんだ。by ノワール」
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