第36話 王太子、静かに怒る
完結確定。
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アレクシス王太子は、怒っていた。
それは、声を荒げる怒りではなかった。
机を叩くわけでもない。
誰かをその場で責め立てるわけでもない。
感情のままに命令を飛ばすわけでもない。
むしろ、普段より静かだった。
静かすぎた。
その静けさが、怖かった。
私はシルビアの部屋の長椅子で、丸くなっていた。
体はまだ重い。
治癒師の言う通り、命に別状はないらしい。
ただし、体力がない。
少し動くだけで疲れる。
毛づくろいも途中でやめる。
いや、やめるのではない。
疲れるのだ。
これは猫として由々しき事態である。
シルビアは、私の横に座っている。
私が少し身じろぎするだけで、すぐに見る。
「痛みますの?」
「にゃ」
痛くない。
少し。
いや、かなり。
でも、大丈夫。
そう伝えたいが、鳴き声一つでは限界がある。
シルビアは私の頭をそっと撫でる。
手つきが慎重すぎる。
壊れ物のように扱われている。
実際、一度壊れたようなものなので、何も言えない。
リーナは午前中に見舞いに来た。
泣きそうな顔で、護符を一つ置いていった。
「ノワールさん用に、小さく作りました」
黒猫用護符。
白い小さな袋に、銀色の星。
私の首輪につけられるよう、軽くしてある。
リーナは少し恥ずかしそうに言った。
「気休めかもしれませんけど……持っていてください」
シルビアはすぐに受け取った。
「ありがとうございます、リーナ嬢」
言い方は硬かった。
だが、感謝は本物だった。
私はその護符を首元に付けてもらった。
少し照れる。
いや、猫なので照れない。
でも、悪くない。
そして午後。
アレクシスが来た。
彼はシルビアの部屋へ入ると、まず私を見た。
「ノワール、具合は?」
「にゃ」
生きている。
かなり弱っているが。
アレクシスは少しだけ表情を和らげた。
「よかった」
それから、シルビアを見た。
「シルビア嬢は?」
「わたくしは平気です」
即答。
嘘である。
膝にはまだ包帯があり、顔色も良くない。
何より、馬車の音が遠くで聞こえるたびに手が止まる。
アレクシスはそれに気づいている。
以前の王太子なら、気づかなかったかもしれない。
だが、今は違う。
彼は静かに言った。
「平気ではないと思う」
シルビアが言葉に詰まる。
「……大げさで」
「大げさじゃない」
アレクシスは椅子に座らず、少し距離を取ったまま立っていた。
その声は穏やかだ。
けれど、強い。
「君は昨日、馬車に轢かれかけた。ノワールは君を庇って倒れた。平気なはずがない」
シルビアの手が私の背に触れる。
私は少しだけ喉を鳴らした。
シルビアは目を伏せた。
「……怖かったです」
昨日から、彼女はその言葉を少しずつ言えるようになっている。
怖い。
大丈夫ではない。
それを認めるのは、シルビアにとって簡単ではない。
けれど、言えた。
アレクシスの表情が少しだけ柔らかくなる。
「うん」
彼は静かに頷いた。
「怖かったね」
その一言で、シルビアの目が揺れた。
泣きそうになる。
だが、泣かない。
泣かないように唇を噛む。
私は前足を伸ばし、シルビアの手に触れた。
泣いてもいい。
とは言えない。
でも、少しでも伝わればいいと思った。
アレクシスは、それ以上追及しなかった。
代わりに、懐から折りたたんだ書類を出した。
「事故の調査について、分かったことを伝えに来た」
シルビアの顔が引き締まる。
「お願いします」
アレクシスは書類を机に置いた。
「まず、荷車を放置した男はまだ見つかっていない。偽の身分証を使っていた。ただ、その身分証を作った職人に心当たりがあるらしい」
「職人?」
「裏で偽造書類を扱う者だ。王都の下町に出入りしているらしい。すでに騎士が向かっている 」
王太子、仕事が早い。
次に、アレクシスは別の紙を出した。
「煙玉に使われていた魔法薬は、慈善会の魔法石と同じ系統の流通経路だった」
シルビアの眉が動く。
「神殿関係ですか」
「可能性が高い」
リーナが聞いたら傷つくだろう。
でも、避けて通れない。
アレクシスは続ける。
「ただし、神殿全体ではない。特定の派閥が管理する倉庫から、少量が消えている記録があった」
神殿派閥。
やはり出てきた。
私は耳を立てる。
「その派閥は、聖女候補を王家の中枢に近づけることで、影響力を強めたいと考えている」
シルビアの顔が静かに硬くなった。
「つまり、リーナ嬢を利用しようとしている者たちがいると」
「そうだと思う」
アレクシスの声が少し低くなる。
「リーナ嬢本人は関係ない。むしろ利用される側だ」
その言葉は大事だ。
リーナは敵ではない。
神殿の一部が動いていても、リーナ本人を疑ってはいけない。
シルビアも静かにうなずいた。
「分かっています」
よし。
ここでリーナを疑わない。
シルビア、かなり成長している。
アレクシスは少し安堵したように息を吐いた。
そして、最後の紙を出した。
「ローヴェル伯爵家についても調べている」
部屋の空気が、さらに重くなった。
「慈善会の魔法糸と同じ種類の糸を購入していたことは前に話したね」
「ええ」
「昨日、ローヴェル家の馬車の馬具に薬が塗られていた。ただ、ローヴェル家側は被害者だと主張している」
当然だろう。
むしろ、そう主張するために自分たちの馬車を使った可能性もある。
アレクシスは表情を変えずに言う。
「問題は、馬具の手入れをした使用人が、事故後に姿を消したことだ」
シルビアの目が細くなる。
「逃げたのですか」
「おそらく」
「ローヴェル家は?」
「その使用人が勝手にやったと主張する可能性が高い」
尻尾切り。
非常に分かりやすい。
私はしっぽを揺らした。
アレクシスは静かに続ける。
「だが、その使用人はローヴェル家の遠縁の紹介で入った者らしい。単独犯とは考えにくい」
シルビアは黙った。
親族の名が、少しずつ黒くなっていく。
それは、彼女にとって痛いはずだ。
だが、シルビアは目をそらさなかった。
「クラリスは」
少し間を置いて、彼女は言った。
「クラリスは、どこまで関わっているのでしょう」
アレクシスはすぐには答えなかった。
「まだ分からない」
誠実な答えだった。
「ただ、彼女が何も知らないとは思えない」
シルビアは目を伏せた。
私は彼女の手に頭をすり寄せる。
シルビアは小さく息を吐いた。
「そうですか」
その声には、悲しみがあった。
怒りよりも、悲しみ。
クラリスは従姉妹だ。
幼い頃から知っている。
どれほど怪しくても、完全な敵として割り切るには時間がかかる。
アレクシスは、そんなシルビアを静かに見ていた。
それから、少しだけ声を低くした。
「シルビア嬢」
「はい」
「僕は、今回の件を許す気はない」
部屋の空気が変わった。
王太子の言葉だった。
「慈善会の細工も、今回の事故も、君とリーナ嬢を狙った可能性がある。そしてノワールは死にかけた」
死にかけた。
いや、実際一回死んだ。
言えないが。
シルビアの手が震える。
アレクシスの青い瞳が、静かに怒っていた。
「誰が関わっていても、調べる。神殿でも、貴族家でも、ローヴェル家でも」
彼は一度言葉を切る。
「君がまた悪者にされるのを、僕はもう見過ごさない」
直球。
かなり直球。
シルビアは固まった。
私も少し固まった。
王太子、ここまで言うようになったか。
八年の成長、すごい。
靴ひも教育、やはり効果絶大であった。
シルビアは、少し赤くなった顔で視線をそらした。
「……殿下は、責任感がお強いのですね」
違う。
違うぞ、シルビア。
今のは責任感だけではない。
かなり個人的な感情が入っている。
王太子の顔を見ろ。
あれは国政上の問題としてだけ怒っている顔ではない。
婚約者を傷つけられて怒っている男の顔である。
「責任感だけではないよ」
お。
行くか。
言うか。
シルビアが彼を見る。
アレクシスは一瞬、何かを言いかけた。
しかし、そこで扉が叩かれた。
空気を読まないノック。
非常に惜しい。
私は思わず扉を睨んだ。
入ってきたのは、グランベル公爵家の執事、セバスチャン改めグロースだった。
いつ見ても、どう見てもセバスチャンなのだが。
「お嬢様。旦那様がお着きになりました」
公爵。
シルビアの父である。
娘が事故に遭ったのだ。
来るに決まっている。
アレクシスは言葉を飲み込み、表情を整えた。
シルビアも少し背筋を伸ばす。
私は内心で悔しがった。
あと少しだったのに。
王太子の直球が出そうだったのに。
恋愛面の進展が、また延期である。
だが、今はそれどころではない。
グランベル公爵が来る。
彼が今回の件を知れば、ただでは済まない。
公爵家の娘が狙われ、王太子の婚約者が危険にさらされ、家族同然の黒猫が死にかけた。
しかも、親族であるローヴェル家の影がある。
これは、貴族社会全体を揺らす問題になる可能性がある。
アレクシスは静かに書類をまとめた。
「僕も同席する」
シルビアは驚いた。
「殿下が?」
「当然だ。これは王家にも関わる」
その声は穏やかだった。
けれど、やはり怒っている。
静かな怒り。
その怒りは、たぶん簡単には消えない。
私は長椅子の上で体を丸め直した。
黒猫ノワール。
悪役令嬢断罪エンド回避担当。
今日、分かったこと。
神殿派閥が動いている。
ローヴェル家の関与も濃くなった。
クラリスへの疑いも、限りなく濃くなった。
そして王太子は、静かに怒っている。
これまで守りに回っていた私たちは、そろそろ攻めに出る時期なのかもしれない。
爪を立てる相手が、ようやく見えてきたのだから。
「色々なことが明らかになり始めた。王太子のシルビアに対する思いも見逃せない。が!それよりも、次回、ラスボス⁈がやってくる! by ノワール」
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