第35話 悪役令嬢、黒猫を離さない
完結確定。
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事故のあと、私たちは近くの騎士詰所へ運ばれた。
正確には、シルビアに抱えられた私が運ばれた。
シルビアは私を一瞬たりとも離さなかった。
治癒師が診ると言っても、同行していた神官が祈りを添えると言っても 、アレクシスが「一度台に寝かせた方がいい」と言っても、シルビアは首を横に振った。
「ここで診てください」
声は静かだった。
だが、有無を言わせない響きがあった。
治癒師は少し困った顔をしたが、結局シルビアの腕の中にいる私をそのまま診た。
公爵令嬢の圧、すごい。
いや、今回はそれでよかった。
私も正直、シルビアの腕から離れるのは嫌だった。
痛いし、寒いし、眠いし。
何より、私を離したら壊れそうな顔をしていた。
私ではなく、シルビアが。
治癒師は慎重に私へ手をかざし、眉を寄せた。
「不思議です」
シルビアの腕に力が入る。
「何がです」
言い方。
圧が強すぎる。
「っ…、お、大きな衝撃を受けた痕跡があります。普通なら……」
治癒師はそこで言葉を切った。
シルビアの顔色がさらに悪くなる。
やめろ。
言葉を選べ。
私は心の中で治癒師に念を送った。
治癒師は咳払いした。
「しかし、今は命に関わる状態ではありません。かなり弱っていますが、安静にすれば回復するかと」
シルビアが、ようやく息をした。
それまで息を止めていたのかと思うほどだった。
「本当に?」
「はい。ただ、数日は無理をさせないように。体力がかなり落ちています」
無理をさせない。
猫に言われても困る。
私はしばらく動く気はないが。
シルビアの膝の上で溶けた餅のようになる予定である。
リーナはその言葉を聞いてほっとし、涙をこぼした。
「よかった……」
アレクシスも、目を閉じて息を吐いた。
彼の表情は、事故直後からずっと硬いままだ。
穏やかな王太子の顔ではない。
怒りを押し殺している顔。
シルビアは、私の背をゆっくり撫でた。
その手はまだ震えている。
「ノワール」
「にゃ」
声は小さいが、出た。
シルビアの目がまた潤む。
しまった。
鳴くだけで泣かせる状態になっている。
非常にまずい。
私は喉を鳴らそうとした。
大丈夫だと伝えたい。
だが、うまく鳴らせず、少しかすれた音になった。
シルビアは唇を噛んだ。
「もう、無茶をしないで」
ごめん、それは約束できない。
とはいえ、今は黙っておく。
猫なので黙っていることしかできない。
騎士詰所の別室で、事故の報告が行われた。
私はシルビアの膝の上。
リーナは隣の椅子。
アレクシスは机の前。
騎士と護衛が数人。
クラリスも別室に呼ばれていたが、今はここにはいない。
まず確認されたのは、道をふさいでいた荷車。
荷車の持ち主は、近隣の商人を名乗る男だった。
だが、護衛が確認したところ、身分証は偽物。
男はすでに姿を消していた。
次に、煙玉。
馬を興奮させる魔法薬が使われていた。
さらに、グランベル家の馬車ではなく、後方のローヴェル家の馬車の馬具にも同じ薬が塗られていた。
つまり、偶然ではない。
誰かが意図的に馬を暴れさせた。
アレクシスの声が低くなる。
「ローヴェル家の馬車の馬具に、薬が」
「はい」
護衛が答える。
「ただ、出発前に馬具を確認した者は、ローヴェル家側の使用人です。いつ塗られたかは調査中です」
クラリス側が被害者を装うためか。
それとも、馬具を管理していた者が仕込んだのか。
分からない。
だが、ローヴェル家の馬車が暴走し、シルビアを巻き込みそうになったのは事実だ。
私はシルビアの膝の上でじっとしていた。
体は痛い。
だが、耳は動く。
情報収集はできる。
アレクシスは続けて尋ねた。
「シルビア嬢が馬車から降りた理由は?」
シルビアは私を見た。
「ノワールが外へ飛び出しました。馬を落ち着かせるためだったのだと思います」
さすが我が主。
理解が早い。
「わたくしは、ノワールが危ないと思って、外へ」
そこで声が少し詰まった。
リーナがそっとシルビアを見る。
シルビアは深く息を吸う。
「そして、ローヴェル家の馬車がこちらへ向かってきました」
アレクシスの拳が、わずかに握られた。
「ノワールが君を引いた」
「ええ」
シルビアの声が震える。
「わたくしを、助けました」
猫の体では限界があったが、シルビアに大事が無くて本当に良かった。
命は張った甲斐がある。
アレクシスは私を見た。
その青い瞳が、痛いほど真剣だった。
「ノワール、ありがとう」
王太子に礼を言われた。
私はしっぽを動かそうとしたが、少ししか動かなかった。
「にゃ」
どういたしまして。
シルビアを泣かせる結果になったので、完全勝利ではないが。
リーナも涙を拭きながら言った。
「本当に、ありがとう」
やめて。
感謝が重い。
今の私は弱っているので、受け止めきれない。
シルビアは私を抱く腕に、ほんの少し力を込めた。
しばらくして、クラリスが部屋へ入ってきた。
顔色が悪い。
それは演技なのか、本当に驚いているのか分からない。
彼女はシルビアを見ると、泣きそうな顔になった。
「シルビア様、ご無事で本当によかったですわ」
いつもの柔らかい声。
だが、私は動かなかった。
クラリスの言葉に反応する体力がない。
シルビアは静かに答える。
「ええ。ノワールが助けてくれました」
クラリスの視線が私へ落ちる。
一瞬だけ、目の奥が読めなくなる。
それから彼女は、痛ましげに眉を下げた。
「ノワールも、無事でよかったです」
本当にそう思っているのか。
私は金色の目でクラリスを見た。
クラリスは微笑んでいる。
相変わらず、綺麗な仮面。
アレクシスが口を開いた。
「クラリス嬢。君の馬車の馬具に、馬を興奮させる薬が塗られていた」
クラリスの顔がこわばる。
「まあ……」
「心当たりは?」
「ありませんわ。まさか、そのようなことが」
声が震えている。
演技か。
本当か。
分からない。
クラリスは胸に手を当てる。
「わたくしの馬車が、シルビア様を……」
泣きそうな顔。
だが、涙は落ちない。
「本当に、申し訳ございません」
彼女は深く頭を下げた。
シルビアは黙って見ている。
昔なら、ここで「あなたのせいではありませんわ」と強く言ったかもしれない。
あるいは、逆に責めるような言葉を言ってしまったかもしれない。
だが、今のシルビアは違った。
「調査が終わるまでは、何とも言えません」
静かな声だった。
クラリスが顔を上げる。
シルビアはまっすぐに彼女を見た。
「ですが、今日の事故は偶然ではないと考えています」
部屋の空気が冷えた。
クラリスの表情が、一瞬だけ止まる。
シルビアは続ける。
「クラリス。あなたも気をつけなさい。誰かがローヴェル家の馬車を利用した可能性もあります」
責めていない。
だが、疑いも捨てていない。
絶妙だった。
私は少し驚いた。
シルビアが、感情のままに言葉をぶつけなかった。
ちゃんと考えている。
クラリスは、ゆっくりとうなずいた。
「……はい。ありがとうございます、シルビア様」
その声は少し低かった。
ほんのわずかに。
シルビアは私を撫でながら言う。
「お礼を言うことではありませんわ」
「いいえ」
クラリスは微笑む。
「心配してくださったのでしょう?」
シルビアがわずかに眉を動かす。
リーナも、アレクシスも黙っている。
クラリスの言葉は、優しい。
だが、どこか試している。
シルビアは静かに答えた。
「親族ですから」
親族。
それ以上でも、それ以下でもない。
クラリスの笑みが、ほんの少しだけ硬くなった。
その後、クラリスは別室へ戻された。
調査は続く。
偽の商人。
煙玉。
魔法薬。
ローヴェル家の馬車。
馬具に塗られた薬。
少しずつ証拠は集まっている。
だが、誰が指示したかまでは届いていない。
夕方近くになって、ようやく学院へ戻る準備が整った。
ただし、シルビアは馬車に乗ろうとしない。
「歩きます」
全員が止めた。
当然である。
治癒魔法を受けたとはいえ、彼女も膝を打っている。
私も弱っている。
リーナも疲れ切っている。
アレクシスは真剣な顔で言った。
「シルビア嬢、無理だ」
「馬車には乗りません」
断固とした返事。
声が硬い。
手が震えている。
私は気づいた。
シルビアは、馬車を怖がっている。
当然だ。
馬車が暴走し、目前に迫り、目の前で私がはねられた。
乗りたくないのは当たり前だ。
だが、公爵令嬢として、怖いとは言えない。
だから、歩くと言っている。
私はシルビアの腕の中で、小さく鳴いた。
「にゃ」
シルビアが私を見る。
私は彼女の手に前足を置いた。
怖いなら、怖いと言っていい。
とは言えない。
でも、伝えたかった。
リーナがそっと口を開いた。
「シルビア様、怖いですか?」
直球。
リーナ、強い。
シルビアは目を見開いた。
「わたくしは」
言いかけて、止まる。
私は彼女を見上げる。
「にゃ」
シルビアは唇を噛んだ。
そして、小さく言った。
「……怖いです」
部屋が静かになった。
シルビアが、自分で怖いと言った。
公爵令嬢としてではなく。
王太子の婚約者としてでもなく。
一人の少女として。
リーナは泣きそうな顔で、でも優しく微笑んだ。
「はい」
アレクシスも静かに言う。
「じゃあ、今日は無理に馬車に乗らなくていい方法を考えよう」
シルビアが彼を見る。
「でも」
「怖いと思ったことを、恥じる必要はないよ」
アレクシスの声は、驚くほど優しかった。
「君は今日、怖い思いをしたんだから」
シルビアの目が揺れる。
私は胸が熱くなった。
王太子。
かなり良い。
今日の靴ひもは無罪である。
結局、帰りは騎士詰所から学院へ連絡し、別の大型馬車を用意した。
アレクシスとリーナも同じ馬車に乗り、護衛が周囲を固めた。
シルビアは最初、乗るときに少し震えた。
だが、私を抱きしめ、リーナが隣に座り、アレクシスが向かいに座ると、少しだけ落ち着いた。
馬車が動き出す。
シルビアの手が震える。
私は彼女の腕の中で、弱いながらも喉を鳴らした。
大丈夫。
今は、大丈夫。
リーナがシルビアの隣でそっと言った。
「ノワールさん、ちゃんとここにいます」
シルビアは私を見た。
そして、目を伏せる。
「ええ」
その声は震えていたが、確かだった。
学院へ戻るまで、シルビアは私を離さなかった。
部屋に戻ってからも、ずっと。
ベッドに座り、私を膝に乗せ、ただ背を撫でていた。
夜になり、医師が来て、侍女が来て、すべてが慌ただしかった。
だが、シルビアは私を離さなかった。
私は眠りに落ちる前、彼女の顔を見上げた。
疲れ切った顔。
泣きすぎて赤くなった目。
それでも、私を見ている。
「ノワール」
「にゃ」
「もう、どこにも行かないで」
私はかすかに喉を鳴らした。
行かない。
少なくとも、私は行きたくない。
残り七つ。
その数字は、私だけが知っている。
でも、シルビアの心は七つもない。
一度死んだだけで、こんなに傷つけた。
私はもう、二度と軽々しく命を使ってはいけない。
たとえ命が残っていても。
シルビアの涙は、残り数には含められないのだから。
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黒猫一匹と作者が喜びます。
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