第20話 王太子、ようやく目を開く
完結確定。
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よろしくお願いします。
アレクシス王太子は、成長した。
これは、黒猫である私が認める。
七歳の頃の彼は、正直かなり不安だった。
顔はいい。
身分もいい。
礼儀もある。
周囲の評価も上々。
だが、観察力がなかった。
シルビアが目を細めれば、睨まれたと思う。
シルビアが緊張して表情を固くすれば、不機嫌だと思う。
シルビアが照れ隠しで強い言い方をすれば、高慢だと思う。
表面だけを見て、奥を見ない。
その結果、シルビアは小さな恋心にふたをした。
おそらくアレクシス本人も、少しずつ気づいてきている。
自分が、彼女を見ていなかったことに。
その日の午後、星降る学院の図書室でのことだった。
学院の図書室は、かなり広い。
高い天井まで届く本棚、磨かれた木の机。
大きな窓から差し込む光。
静かにページをめくる音。
前世の私なら、ここを見てまず思っただろう。
電源はどこだ。
作業用の机としては申し分ない。
ただし、パソコンがない。
仕事にならない。
いや、今の私は猫である。
必要なのは、監視である。
私はシルビアの足元に座っていた。
シルビアは魔法理論の課題を進めている。
隣にはリーナ。
向かいにはアレクシス。
なぜこの三人が同じ机にいるのか。
経緯は単純だ。
リーナが魔法理論の課題で困っていた。
それを見たシルビアが、放っておけずに声をかけた。
ただし第一声は、こうだった。
「その程度の課題で固まっていては、この先が思いやられますわね」
私は即座に机の下から鳴いた。
「にゃ」
シルビアは少し顔を赤くし、言い直した。
「……どこが分からないのです」
リーナは、もう慣れ始めている。
最初こそ少し驚いたが、すぐに笑って言った。
「ここです。計算式の途中から、どうしてそうなるのか分からなくて」
シルビアはリーナのノートを見た。
目を細める。
リーナはもう、その顔を睨みとは受け取っていなかった。
「ここですか?」
「ええ」
「そこは、前の式を展開し直せば分かりますわ。あなた、途中を飛ばしましたね」
「あ」
「焦るからです。ひとつずつ確認なさい」
「はい」
会話が成立している。
すばらしい。
リーナのシルビア語翻訳能力は、想像以上に成長が早い。
私は内心でうなずいた。
すると、近くにいたアレクシスが興味を持った。
「僕もそこ、少し分かりにくかった」
シルビアは顔を上げる。
「殿下もですの?」
声が少し強い。
アレクシスは一瞬だけ身構えたが、すぐに苦笑した。
「うん。そこは、僕もつまずいた」
よし。
身構えたが、逃げなかった。
昔なら、ここで少し距離を取っていたが、今は違う。
アレクシスは自分のノートを持って、同じ机についた。
こうして、シルビアによる魔法理論講座が始まったのである。
講師、シルビア・グランベル。
受講生、アレクシス王太子、リーナ聖女候補。
監督、黒猫ノワール。
非常に奇妙な図である。
だが、悪くない。
シルビアの説明は分かりやすかった。
言い方は時々刺さるが。
「そこを間違えるのは、式を見ていない証拠ですわ」
刺さる。
「殿下、そこまで戻らないと理解できませんの?」
抉られる。
「リーナ嬢、その計算では答えが逃げますわ」
答えが逃げるとは。
だが、説明そのものは正確だった。
リーナは素直にうなずきながら、式を直していく。
アレクシスも、少し苦笑しながら聞いている。
私は机の下で待機し、危険な言い方が出るたびに軽く鳴いた。
「にゃ」
シルビアはそのたびに小さく息を吐いて、言い直す。
「……つまり、ここをもう一度確認すればよいのです」
「……わたくしも最初は間違えましたから」
「……焦らずに進めれば、分かります」
良い。
かなり良い。
そのやり取りを、アレクシスはじっと見ていた。
以前とは違う目だった。
怖がる目ではなく、困った目でもない。
何かを確かめるような目。
シルビアの言葉にノワールの鳴き声。
シルビアの言い直しとリーナの反応。
それらを、一つずつ見ている。
ようやく目を開き始めた。
そう思った。
遅いな。
課題が一段落した頃、リーナが嬉しそうに顔を上げた。
「できました!」
シルビアはノートを確認し、静かにうなずく。
「ええ。合っていますわ」
リーナの顔が明るくなる。
「ありがとうございます、シルビア様」
シルビアは少しだけ頬を赤くした。
「どういたしまして」
完璧。
非常に完璧。
私は満足して喉を鳴らした。
すると、アレクシスがふと口を開いた。
「シルビア嬢は、教えるのが上手いね」
シルビアの手が止まった。
褒め言葉。
それも、王太子から。
シルビアはすぐに表情を引き締めた。
「この程度、誰でも説明できますわ」
出た。
私は鳴く準備をした。
だが、アレクシスの方が先に言った。
「僕はそう思わない」
私は耳を立てた。
シルビアも、少し驚いたように彼を見る。
アレクシスはノートを閉じ、静かに続けた。
「分かっていることと、人に分かるように説明することは違う。君は、相手がどこで止まっているのかちゃんと見ている」
図書室の空気が、少しだけ静かになった気がした。
リーナも、アレクシスを見ている。
シルビアは何も言わない。
ただ、目を少し見開いていた。
アレクシスは、少しだけ困ったように笑った。
「僕は、昔からそれができていなかった」
シルビアの表情が変わった。
ほんの少し。
だが、私は見逃さなかった。
アレクシスはシルビアを見る。
「君のことも」
私は動きを止めた。
お。
これは。
来るのか。
王太子、ついに自覚の話をするのか。
シルビアは、少し警戒したように背筋を伸ばした。
「わたくしのこと、ですか」
「うん」
アレクシスはうなずいた。
「君が何を言ったかばかり見て、なぜそう言ったのかを考えていなかった」
静かな声だった。
シルビアは言葉を失う。
リーナも黙っている。
私は机の下で、じっとアレクシスを見上げた。
王太子。
続けろ。
ここで逃げるな。
「昔、君はよく怒っているように見えた」
シルビアの顔が少し硬くなる。
アレクシスはすぐに言い直すように続けた。
「でも、今思うと、怒っていたわけじゃないことも多かったんだと思う」
シルビアは小さく息をのんだ。
「……どうして、そう思われるのです」
「最近、見ていて分かったから」
アレクシスは、リーナのノートを見る。
「リーナ嬢が火傷をしたときも、君はすぐ治した。ドレスの裾が危ないときも、気づいた。今日も、課題で困っていたら教えた」
彼は視線を戻す。
「言葉は少し強い。でも、君はいつも先に誰かの困りごとに気づいている」
リーナが、小さくうなずいた。
「私も、そう思います」
シルビアがリーナを見る。
リーナは少し照れたように笑った。
「最初は怖かったです。でも、シルビア様は、いつも私が困っているときに声をかけてくださるので」
シルビアの頬が赤くなっていく。
「そ、それは……」
何か言い訳しようとしている。
私は見上げた。
シルビアは口を閉じた。
えらい。
アレクシスは、少しだけ目を伏せた。
「僕は、それを昔は見なかった」
その声には、後悔があった。
「君を怖いと思って、少し距離を置いた。周りが言うことも、そのまま信じた」
シルビアの指先が、わずかに震える。
七歳の頃。
王太子に距離を置かれたこと。
殿下は、わたくしのことがお嫌いなのかしら。
あの夜の声が、私の中によみがえる。
シルビアは、平静を装っていた。
だが、私は分かる。
今の言葉は、彼女の奥に届いている。
アレクシスはゆっくり頭を下げた。
「すまなかった、シルビア嬢」
謝った。
王太子が。
シルビアに。
図書室の一角が、完全に静まり返る。
私は息を止めた。
大きい。
これは大きい。
八年前の小さな傷に、アレクシスが初めて触れた。
シルビアはしばらく何も言わなかった。
彼女はアレクシスを見つめている。
目を細めてはいない。
近い距離だから、ちゃんと見えている。
紫の瞳が、少し揺れていた。
「……殿下が謝られるようなことではありませんわ」
出た。
いつもの逃げ。
だが、声は少し震えていた。
アレクシスは首を振る。
「いや。謝ることだと思う」
シルビアは唇を引き結ぶ。
「わたくしにも、誤解されるような言い方が多かったのです」
「それでも、見ようとしなかったのは僕だ」
王太子。
今日、非常に強い。
私は少し感動した。
これはもう靴ひもをほどく必要はない。
むしろ、靴ひもを結び直してあげたいくらいである。
猫なのでできないが。
リーナは二人を見守っている。
口を挟まない。
良い子である。
シルビアは、長い沈黙のあと、小さく息を吐いた。
「……わたくしも、殿下が困っていらっしゃるのに、どうすればよいか分かりませんでした」
アレクシスが顔を上げる。
シルビアは視線を少し落とした。
「殿下にお会いすると、うまく話せなくて。失礼があってはいけないと思えば思うほど、言葉が固くなって」
私は目を見開いた。
シルビアが、自分のことを話している。
王太子に。
これはすごい。
悪役令嬢ポイントどころではない。
心の開示ポイント、大量加算である。
「それで、殿下が困ったようなお顔をなさると……わたくしは、ますますどう話せばよいか分からなくなりました」
アレクシスは、まっすぐ聞いていた。
今度は逃げない。
目をそらさない。
「そうだったんだね」
「ええ」
シルビアは小さくうなずく。
「ですから、わたくしにも原因があります」
アレクシスは少し考えたあと、言った。
「じゃあ、これからはお互いに少しずつ直せばいいのかな」
シルビアが目を瞬いた。
「お互いに……」
「うん。僕は、君の言葉の奥を見るようにする。君は……」
アレクシスは少しだけ笑った。
「ノワールに怒られない言い方を目指す」
シルビアが固まった。
リーナが小さく吹き出した。
「にゃ」
私は堂々と胸を張った。
正しい。
ノワール基準は重要である。
シルビアは顔を赤くし、少しむっとした。
「なぜそこでノワールが基準になりますの」
「一番分かりやすいから」
アレクシスは私を見る。
「ノワールが鳴いたら言い直す。これは、かなり信用できる」
「あなた、いつの間に殿下にまでそのように思われているのです」
靴ひも時代からです。
リーナも笑顔で言った。
「私も、ノワールさんが鳴いたら気をつけるようにします」
「リーナ嬢まで」
シルビアは少し頭を抱えた。
その姿が、いつもの氷の令嬢ではなく、年相応の少女に見えた。
アレクシスは、その表情を見ていた。
そして、少しだけ柔らかく笑った。
きっと、彼の中でまた何かが変わった。
怖い婚約者、高慢な公爵令嬢。
そして誤解されやすい少女。
そのどれでもなく。
目の前で照れて、困って、でもちゃんと向き合おうとしているシルビアを、見ている。
ようやく。
本当にようやく。
王太子は、自分の目でシルビアを見始めたのだ。
しかし、良い時間は長く続かない。
「皆様、ずいぶん楽しそうですのね」
クラリスだった。
私は即座に耳を伏せた。
来た。
また来た。
クラリスは数冊の本を抱え、穏やかに微笑んでいる。
彼女の後ろには、数人の令嬢がいる。
その視線は、シルビア、アレクシス、リーナを順に見ていた。
王太子。
婚約者のシルビア。
聖女候補のリーナ。
和やかに同じ机を囲んでいる。
良い光景だ。
だが、切り取り方によってはどうなるか。
王太子が、婚約者と聖女候補を同席させている。
シルビアがリーナを監視している。
あるいは、リーナが王太子に近づいている。
いくらでも悪くできる。
クラリスは、そういう切り取りが上手い。
私は机の下からクラリスを睨んだ。
クラリスは私を見ると、ほんの少しだけ微笑みを深める。
「リーナ様も、シルビア様に課題を見ていただいていたのですね」
優しい声。
だが、私は警戒する。
リーナは素直に答えた。
「はい。とても分かりやすく教えていただきました」
クラリスの表情が、一瞬だけ止まる。
リーナ。
先制防御、成功。
アレクシスも続けた。
「僕も教えてもらっていた。シルビア嬢の説明は分かりやすいから」
王太子。
援護、成功。
シルビアは顔を赤くする。
「殿下まで、そのように言わなくても」
クラリスは、すぐに微笑みを戻した。
「まあ。シルビア様は本当にお優しいのですね」
来る。
私は身構えた。
「昔は少し近寄りがたい印象でしたけれど、最近は皆様と親しくなさっていて、わたくしも嬉しいですわ」
やはり。
褒めているようで、昔は近寄りがたかったと印象づける。
シルビアの表情が少し硬くなった。
だが、今度はアレクシスが口を開いた。
「僕は、昔から彼女をきちんと見ていなかっただけだと思っているよ」
クラリスの目が、わずかに動いた。
シルビアも驚いてアレクシスを見る。
アレクシスはクラリスに向かって、穏やかに言った。
「シルビア嬢は、前から人をよく見ていたんだと思う。僕がそれに気づくのが遅かった」
図書室の空気が変わった。
クラリスの周囲にいた令嬢たちが、少し驚いたように顔を見合わせる。
王太子本人が言った。
シルビアは昔から悪かったのではなく、自分が気づかなかったのだと。
これは大きい。
クラリスの「昔は近寄りがたい」という印象操作を、アレクシスが正面から上書きした。
私は机の下でしっぽを立てた。
王太子の評価を改める。
観察力、かなり成長。
国家運営への不安、さらに軽減。
クラリスは一拍置いて、柔らかく笑った。
「殿下がそのようにおっしゃるなら、きっとそうなのでしょう」
引いた。
だが、完全には引いていない。
彼女の目の奥が冷えている。
「シルビア様は、良い方々に囲まれてお幸せですわね」
その言葉に、私は少しだけ嫌なものを感じた。
良い方々に囲まれている。
つまり、シルビアは周囲に助けられている。
一人ではない。
恵まれている。
クラリスの中の嫉妬が、ほんの少しにじんだように思えた。
シルビアは、それには気づかなかった。
ただ、少し困ったように黙っている。
リーナは、クラリスを見つめていた。
以前より、少し考える顔をしている。
アレクシスもまた、クラリスの言葉をそのまま受け入れなかった。
これは良い傾向だ。
クラリスはそれ以上何も言わず、令嬢たちとともに奥の本棚へ向かった。
私はその背中を見つめる。
静かな戦いだった。
言葉と言葉の戦い。
そして今日、アレクシスは一歩も引かなかった。
図書室を出たあと、シルビアは少し無言だった。
リーナは先に神殿推薦の生徒たちの輪へ戻り、アレクシスも教師に呼ばれて別室へ向かった。
廊下には、シルビアと私だけ。
シルビアは歩きながら、小さく言った。
「殿下は、変わられましたわね」
「にゃ」
そうだな。
靴ひもの成果だ。
「昔は、わたくしを見ると困ったようなお顔をなさっていたのに」
シルビアの声は、思ったより静かだった。
私は足元から見上げる。
彼女は前を向いたまま続けた。
「今日の殿下は、わたくしを見てくださいました」
胸が少し温かくなった。
そう。
ようやく。
ようやく王太子は、シルビアを見た。
シルビアも、それに気づいた。
シルビアは少しだけ足を止める。
「ノワール」
「にゃ」
「わたくしも、ちゃんと見られていたかしら」
私はシルビアを見上げた。
何を。
と、聞くまでもない。
アレクシスを。
リーナを。
クラリスを。
そして、シルビア自身を。
シルビアはずっと、人にどう見られるかを気にしてきた。
公爵令嬢として、王太子の婚約者として。
強く、正しく、堂々としていなければならない者として。
でも、これからは。
自分も相手を見る必要がある。
言葉の裏や表情の奥。
噂ではなく、その人自身を。
私は彼女の足に体をすり寄せた。
「にゃ」
大丈夫。
少しずつでいい。
シルビアは、ほんの少し笑った。
「そう」
その笑顔は、まだ小さかった。
けれど、氷の令嬢ではなかった。
悪役令嬢でもなかった。
ただ、少しずつ人と向き合うことを覚え始めた少女の顔だった。
私はしっぽを立てる。
王太子、ようやく目を開く。
シルビアもまた、少しずつ目を開いている。
だが。
クラリスの冷たい視線を、私は忘れていない。
シルビアが見られるようになればなるほど。
シルビアを正しく見る人が増えれば増えるほど。
それが困る者たちは、次の手を打つ。
断罪エンドまで、あと二年。
物語は、まだ安全圏には程遠い。




