第19話 リーナ、シルビア翻訳を始める
完結確定。
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リーナは、思っていた以上に観察力のある少女だった。
これは大きい。
非常に大きい。
なぜなら、シルビア・グランベルという人間を正しく理解するには、観察力が必須要件だからだ。
顔だけを見ると、怖い。
声だけ聞くと、きつい。
言葉だけ抜き出すと、ほぼ悪役令嬢。
しかし、行動まで見ると違う。
怪我をした人を放っておけない。
困っている人を見つけると、つい手を出す。
ただし、手を出すときの言い方が最悪。
つまり、シルビアを理解するには、表面の言葉ではなく、前後の文脈と行動、そしてほんの少し赤くなる耳まで観察する必要がある。
チェックポイントが多すぎる。
高度だ。
人間関係に、そこまでの読解力を求めるな。
私は常々そう思っている。
しかし、リーナはその読解に足を踏み入れ始めていた。
謝罪失敗事件のあと、リーナはシルビアを見る目が少し変わった。
まだ緊張はしている。
仕方ない。
顔面、言葉、身分。
緊張要素の詰め合わせがシルビアである。
シルビアが近づくと背筋が伸びるし、声をかけられると一瞬だけ肩が跳ねる。
だが、逃げない。
ただ怯えるのではなく、少し待つようになった。
シルビア様は、今、本当は何を言おうとしているのだろう。
そんな顔をするようになったのだ。
私はそれを見て、心の中で盛大な拍手をした。
人類の進歩である。
シルビア語の解読者が、ついに二人目になろうとしている。
一人目は、もちろん私。
猫である。
人類ではない。
なので、実質リーナが人類初である。
アレクシスもかなり成長したが、彼はまだ初級と中級の間をうろうろしている。
時々かなり良い通訳をするが、油断すると昔の誤解癖が顔を出す。
その点、リーナは素直だ。
分からないことを、分からないまま決めつけない。
これは才能である。
そんなある日の昼休み。
事件は学院の食堂で起きた。
星降る学院の食堂は、非常に広い。
大きな窓から光が差し込み、白いテーブルクロスのかかった長机がいくつも並んでいる。
貴族の子女が多いため、食事もかなり上等だ。
食堂というより、小さな宴会場である。
シルビアはいつものように、窓際の席に座っていた。
周囲には、王太子アレクシス、数人の貴族令嬢、そして私。
私はシルビアの椅子の横に置かれた小さなクッションに座っている。
学院側が用意したものではない。
シルビアの私物だ。
「ノワールが床に直接座るなど、ありえませんわ」
とのことである。
公爵令嬢の猫待遇、かなり高い。
正直、快適だ。
だが、私はくつろぐためにここにいるわけではない。
監視である。
リーナは少し離れた席にいた。
彼女の周りには、同じく神殿推薦の生徒や、比較的身分の低い貴族の生徒たちがいる。
少しずつ友人ができ始めているようだ。
よかった。
孤立は危険である。
ヒロインが孤立すると、周囲が「守らなければ」と過剰に反応し、シルビアが近づいただけで悪役扱いされかねない。
友人は多い方がいい。
ただし、クラリスのような人物が友人枠に入り込むと厄介だ。
油断ならない。
要観察である。
食堂では、焼きたてのパンとスープ、白身魚の香草焼きが出されていた。
私は魚の匂いに、少し意識を持っていかれる。
いや、仕方ない。
猫なので。
私が魚に集中しかけたそのとき、食堂の反対側で小さな声が上がった。
「熱っ」
リーナだった。
手元のスープが、少しこぼれている。
隣の生徒が慌てる。
「大丈夫?」
「はい。少し手にかかっただけです」
リーナは笑っているが、指先が赤い。
火傷だ。
軽いものだろうが、放っておくと痛い。
私はすぐにシルビアを見た。
当然、シルビアも気づいていた。
シルビアの目が鋭くなる。
まずい。
この顔。
完全に怒っているように見える。
だが、たぶん心配している。
シルビアは席を立った。
周囲の令嬢たちが驚く。
アレクシスも顔を上げた。
「シルビア嬢?」
シルビアは返事をせず、リーナの席へ向かった。
私は慌てて後を追う。
食堂の視線が集まる。
公爵令嬢が聖女候補へ向かって歩いている。
それだけで、空気が張りつめる。
やめてほしい。
ただ火傷を見に行くだけなのに、どうしてこう事件の導入みたいになるのか。
シルビアはリーナの前で足を止めた。
「あなた」
声が硬い。
リーナがびくりとする。
「は、はい、シルビア様」
「手を見せなさい」
出た。
完全に尋問。
周囲の生徒たちが固まる。
リーナの隣にいた少女が、少し警戒するようにリーナの前に手を出しかけた。
まずい。
これは「シルビアがリーナを責めている」構図になりかねない。
私はすかさず鳴いた。
「にゃ」
シルビア。
言い方。
シルビアは一瞬だけ私を見た。
そして、少し息を吸う。
「……火傷をしたのでしょう。見せてください」
お、修正が早い。
八年の訓練は無駄ではない。
リーナは驚いたように目を瞬いたあと、おずおずと手を差し出した。
指先が赤くなっている。
シルビアは眉を寄せた。
「やはり赤くなっていますわ」
声が少し低い。
リーナの隣の少女が緊張する。
私は再び鳴いた。
「にゃ」
怖い。
怖く聞こえる。
シルビアは唇を引き結ぶ。
「……痛むでしょう」
リーナが、ぱちりと瞬きをした。
今のは伝わった。
ちゃんと心配に聞こえた。
「少しだけ」
リーナは正直に答えた。
シルビアは彼女の手を取り、淡い光を灯す。
治癒魔法。
金色に近い柔らかな光が、リーナの指先を包んだ。
食堂がざわめく。
「治癒魔法……」
「シルビア様が?」
「聖女候補のリーナ様に?」
声が広がる。
私は耳を伏せた。
頼むから、変な方向に広がるなよ。
シルビアは周囲の声を気にせず、火傷を治した。
赤みが引いていく。
リーナは自分の指を見て、目を丸くした。
「すごい……痛くないです」
「その程度、すぐ治せますわ」
またその程度。
悪気はない。
謙遜と照れ隠しである。
だが、聞こえ方によっては「その程度で騒ぐな」になる。
私は前足でシルビアの靴をパシパシ叩いた。
無論、俗に言う猫パンチである。
シルビアは気づき、少しだけ顔を赤くする。
「……大したことがなくて、よかったです」
よし。
非常に良い。
リーナはシルビアを見た。
じっと。
少し不思議そうに。
そして、ふわりと笑った。
「ありがとうございます、シルビア様」
シルビアが固まる。
礼を言われたときの反応は、十五歳になっても完全には慣れない。
ただ、七歳の頃よりはずっとましだ。
シルビアは小さく息を吸い、ちゃんと言った。
「どういたしまして」
食堂が、またざわめいた。
リーナの隣の少女が、少しほっとしたように肩の力を抜く。
アレクシスは遠くからこちらを見て、微笑んでいた。
よし。
ここまでは成功。
だが、ここで終わらないのがシルビアである。
シルビアはリーナのスープ皿を見た。
それから、厳しい顔で言う。
「そもそも、そんな持ち方をするからこぼすのです」
ああ。
始まった。
リーナの肩が少し揺れる。
周囲もまた固まる。
シルビアは真剣な顔で続けた。
「スープ皿に手を添えるときは、指先を縁に近づけすぎてはいけません。器が熱ければ、当然火傷します。神殿では教わらなかったのですか?」
言い方。
完全に責めている。
だが、内容は正しい。
そして、たぶんリーナが同じ失敗をしないように教えている。
しかし最後の一文が非常に危険。
神殿では教わらなかったのですか?
これはアウト寄り。
周囲の貴族令嬢たちが、かすかに反応した。
平民出身の聖女候補に、礼儀がなっていないと言ったように聞こえる。
まずい。
私は噛むべきか迷った。
そのときだった。
リーナが、じっとシルビアを見た。
怖がるでもなく、怒るでもなく。
何かを考えるような顔で。
そして、ゆっくりと言った。
「……次に火傷しないように、教えてくださっているのですか?」
私は固まった。
お。
おお!
リーナ。
今、翻訳した。
シルビアも固まった。
完全に虚を突かれた顔だ。
リーナは自分の皿を見下ろし、少し恥ずかしそうに笑った。
「すみません。神殿では、食器の扱いは教わりましたけれど、まだ慣れていなくて」
彼女は両手でスープ皿の位置を少し直す。
「こう、ですか?」
シルビアは、しばらく黙っていた。
顔が赤い。
かなり赤い。
それから、ふいっと顔をそむけた。
「……そうですわ。縁から少し離して持ちなさい。急いで口に運ぶ必要もありません」
リーナは素直にうなずいた。
「はい。ありがとうございます」
「何度も礼を言わなくてよろしいですわ」
出た。
照れ隠し。
私はシルビアを見る。
シルビアは、私が鳴く前に小さく言い直した。
「……覚えておけば、それでよいのです」
ぎりぎり。
でも、だいぶまし。
リーナは小さく笑った。
周囲の空気が、少しだけ変わった。
さっきまで「シルビアがリーナを責めている」と受け取りかけていた生徒たちが、少し戸惑っている。
よし!そのまま戸惑え!
もしかして、教えていただけなのか。
そういうザワザワした空気だ。
リーナが自分でそう受け取ったことで、場の解釈が変わったのだ。
私は震えた。
これだ。
これが欲しかった。
リーナがシルビアの言葉を正しく受け取れば、周囲も簡単には悪評へ持っていけない。
ヒロイン本人が「助けてもらった」「教えてもらった」と思えば、シルビアを悪役にする流れは弱くなる。
リーナ。
あなたは本当に、すばらしい!
このままシルビア語通訳検定三級くらいまで進んでほしい。
ただし独学になるので、根気がいるが。
なんせ私は猫だから、レクチャーができないので。
食堂の端で、クラリスがその様子を見ていた。
彼女は穏やかに微笑んでいる。
だが、その目は少しだけ冷たい。
面白くなさそうだ。
よし。
クラリスが面白くなさそうなら、こちらは順調である。
昼食後。
私は中庭の木陰で、少し休んでいた。
魚は食べたし、監視もした。
火傷イベントも乗り切った。
猫にも休憩は必要である。
すると、近くから声が聞こえた。
「あの、ノワールさん」
リーナだった。
彼女は少し緊張した様子で、私の前にしゃがみ込んだ。
私は顔を上げる。
「にゃ」
どうした、ヒロイン。
リーナは周囲を確認してから、小さな声で言った。
「シルビア様は……本当は、すごく優しい方なんですか?」
私はゆっくり瞬きをした。
おお。
ついに来た。
核心に近い質問である。
私は猫なので、言葉では答えられない。
だが、答えは決まっている。
私は立ち上がり、リーナの手に頭をすり寄せた。
「にゃ」
そうだ。
とても優しい。
ただし、言い方が誤解しか招かないという、絶望的に下手なだけだ。
リーナは少し驚いたあと、私の頭をそっと撫でた。
手つきが優しい。
「やっぱり、そうなんですね」
やっぱり。
彼女はもう、半分気づいていたのだ。
リーナは小さく笑った。
「最初は、怖い方だと思いました。今も、少し怖いです」
正直。
非常に正直。
だが、悪意はない。
「でも、昨日も今日も、私が困っていると、必ず来てくださって」
リーナは自分の指先を見る。
もう火傷の跡はない。
「言い方はびっくりしますけど、してくださることは、優しいんです」
私は喉をいつもより多めに鳴らした。
そう。
その通り。
言い方はびっくりする。
だが、行動は優しい。
リーナは私を見る。
「ノワールさんは、いつもシルビア様に教えているんですね」
「にゃ」
そうです。
八年やっています。
長期案件です。
リーナは楽しそうに笑った。
「私も、少し分かるようになりたいです」
私は固まった。
リーナ。
あなた、今すごいことを言った。
つまり、シルビアを避けるのではなく、理解しようとしている。
これは大事件である。
悪役令嬢ルートに対する強烈なカウンターである。
私は感動のあまり、リーナの手にもう一度すり寄った。
リーナはくすぐったそうに笑った。
そのとき、背後から冷たい声がした。
「リーナ嬢」
シルビアだった。
私は振り返る。
シルビアは少し離れた場所に立っていた。
表情は固い、目つきも鋭い。
そして、視線はリーナの手元。
つまり、私を撫でている手。
あ。
まずい。
シルビアの猫独占欲が発動している。
リーナは慌てて手を引っ込めた。
「す、すみません。勝手に撫でてしまって」
シルビアは一歩近づく。
「ノワールは、わたくしの猫ですわ」
出た。
七歳の頃から変わらぬ所有宣言。
悪役令嬢ポイント、加算。
私は急いで鳴いた。
「にゃ」
違う。
その言い方は怖い。
シルビアは私を見る。
それから、リーナを見る。
少しだけ顔を赤くする。
「……ですが、ノワールが嫌がっていないのなら、撫でても構いません」
おお。
成長。
ただし表情が怖い。
リーナは恐る恐る言った。
「よろしいのですか?」
「ええ。ノワールが許すなら」
シルビアは顔をそむける。
「ただし、しっぽを強く引いたり、耳をつかんだりしたら許しませんわ」
「しません!」
リーナが慌てて首を振る。
シルビアは少しだけ満足そうにうなずいた。
「ならよろしいです」
私はシルビアを見上げる。
今のはかなり良い。
嫉妬はしたし、所有宣言もした。
しかし、最終的には許可した。
リーナもそれを分かってくれたのか、ほっと笑った。
「ありがとうございます」
シルビアは、また固まった。
「……どういたしまして」
言えた。
良い流れだ。
そう思った瞬間、リーナがぽつりと言った。
「シルビア様は、ノワールさんのことが本当に大切なんですね」
シルビアの耳が赤くなった。
「当然ですわ」
私は見上げる。
シルビアは、今度は言い直さなかった。
けれど、続けた。
「ノワールは、わたくしが間違えたとき、ちゃんと止めてくれますから」
私は目を丸くした。
シルビアが、自分からそれを言った。
八年前なら考えられない。
自分が間違えることを認めるのも、誰かに止めてもらっていることを認めるのも、彼女にとっては簡単ではなかったはずだ。
リーナも少し驚いた顔をした。
「そうなんですね」
「ええ」
シルビアは私を見た。
その表情は、少しだけ柔らかかった。
「ノワールは、わたくしに厳しいけれど……必要なことを教えてくれます」
やめてほしい。
泣きそうになる。
猫なので泣かないが。
いや、猫も泣くのだろうか。
少なくとも今、胸のあたりがじんわりしている。
リーナはその様子を見て、静かに微笑んだ。
「では、私もノワールさんを見習います」
「え?」
シルビアが目を瞬く。
リーナは少し照れたように言った。
「シルビア様のお言葉にびっくりしたとき、すぐ怖がるのではなくて、何を伝えたいのか考えます」
シルビアが固まった。
私も固まった。
通りかかったアレクシスも、なぜか少し離れた場所で固まっていた。
王太子、いつからいた。
まあいい。
今はそれどころではない。
リーナ。
あなたは今、シルビア語を学ぶ宣言をした。
これは歴史的瞬間である。
シルビアは、しばらく何も言えなかった。
やがて、顔を赤くして視線をそらす。
「……好きになさい」
出力はそれか。
だが、声は少し柔らかかった。
リーナは嬉しそうに笑った。
「はい」
その「はい」は、怖がって従う返事ではなかった。
前向きな返事だった。
私は空を見上げた。
青い空。
中庭の木々。
光の中で笑うヒロイン。
顔をそむけながら照れる悪役令嬢。
そして、その足元の黒猫。
ついでに、離れたところでこちらを伺う王太子。
ゲーム本編とは、かなり違う光景だ。
悪くない。
非常に悪くない。
その後、アレクシスが近づいてきた。
「リーナ嬢は、すごいね」
リーナは驚いて振り返る。
「殿下」
アレクシスはシルビアを見て、少し笑う。
「シルビア嬢の言葉を分かろうとするのは、なかなか難しい」
シルビアの声が少し低くなる。
「余計なことをおっしゃらないでくださいませ」
アレクシスは慌てて手を振る。
「ごめん、ごめん。でも僕も、最初は全然分からなかったから」
正直すぎる。
シルビアの眉が動く。
私はアレクシスの靴ひもに視線を向けた。
必要か?
久しぶりに行くか?
アレクシスは私の視線に気づいたのか、すぐに苦笑いしながら言い直した。
「でも、今は少し分かるようになったと思う」
よし。
靴ひも回避。
「シルビア嬢は、言葉は厳しく聞こえることがあるけれど、いつも誰かを見ている。困っている人を、見逃さない」
シルビアが目を見開いた。
リーナも、シルビアを見る。
アレクシスは少し照れたように続けた。
「だから、リーナ嬢もきっと、すぐ分かるようになると思う」
私はアレクシスを見上げた。
王太子。
成長したな。
七歳の頃の観察力不足王子はどこへ行った。
いや、まだ油断はしない。
なぜなら王太子の観察力には波がある。
だが、今の発言はかなり良かった。
シルビアは顔を赤くして、ぷいっとそっぽを向いた。
「……二人して、変なことを言いますのね」
しかし、その声は怒っていなかった。
リーナは笑った。
アレクシスも笑った。
私は喉を鳴らした。
この場面だけ見れば、断罪エンドなど遠い未来の話に思える。
けれど、私は忘れていない。
クラリス。
マリナ。
神殿派閥。
ローヴェル伯爵家。
そして、ゲームの強制力のように、何度もシルビアを悪役へ戻そうとする事件。
平和な場面ほど、油断してはいけない。
その証拠に。
中庭の奥、柱の陰に、クラリスが立っていた。
彼女はいつものように微笑んでいる。
だが、先ほどまでの会話を聞いていたのだろう。
薄緑の瞳が、わずかに冷えていた。
私はクラリスを見た。
クラリスも私を見た。
一瞬だけ、空気が冷たくなる。
クラリスはすぐに微笑みを深め、何事もなかったように去っていった。
私はしっぽをゆっくり揺らす。
リーナという通訳が増えた。
これは大きな希望だ。
だが、希望が見えたときほど、それを壊そうとする者も動く。
私は黒猫ノワール。
悪役令嬢断罪エンド回避担当。
今日の成果。
リーナ、シルビア語翻訳を開始。
アレクシス、補助通訳として成長。
シルビア、照れすぎ。
そしてクラリス、警戒継続。
学院生活は、まだまだ油断できない。




