第2話 黒猫、危うくブラック・デス・キャットになる
完結確定。
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悪役令嬢予備軍の、シルビア・グランベルと出会って数分後。
「あなた、どこから来ましたの?」
シルビアは私を見下ろして言った。
見下ろす、といっても、彼女はまだ七歳の少女。大人に比べればずっと小さいが、猫の私からすれば十分に高い。
そして何より、圧がすごい。
小さな少女に見下ろされているだけなのに、なぜか面接官三人を前にしたときのような緊迫した圧がある。
公爵令嬢、恐るべし。
私は踏みとどまり、短く鳴いた。
「にゃあ」
「野良猫ですの?」
野良猫かと問われれば、現状その通りである。
飼い主はいない。
首輪もない。
住所もない。
まぎれもなく野良である。
ただし、中身は二十六歳元Webプログラマー。
この情報は、残念ながら音声出力できない。
シルビアは私の前にしゃがみ込んだ。
ドレスの裾が石畳につきそうになる。
そばに控えていた侍女が慌てて声を上げた。
「お、お嬢様! そのような場所に膝をつかれては……!」
「うるさいですわね。少し黙っていなさい」
言い方。
もう少しあるだろう。
侍女はびくりと肩を震わせた。
シルビアはそれに気づかず、私をじっと見つめている。
いや、正確には、目を細めて見ている。
鋭い。
ヤバい、怖い。
完全に獲物を品定めする猛獣の目である。
私は耐えた。
ここで逃げるわけにはいかないのだ。
この子が将来迎えるであろう、断罪エンド回避のためには、まずこの少女のそばにいる必要がある。
やることは山積みだ。
まずは情報収集と行動観察から始めて、フラグ管理、そして悪役令嬢の監視。
猫一匹に任せる業務量ではない。
私が真面目に今後の計画を立てていると、シルビアはすっと手を伸ばしてきた。
白く小さな手が、私の頭上に近づいてくる。
私は反射的に身構えた。
猫としては当然の警戒である。
いきなり触られるのは怖い。
しかしシルビアの手は、思ったよりずっと優しく私の頭に触れた。
おそるおそる、壊れ物に触れるかのように。
「……ふわふわですわ」
小さな声だった。
さっきまで侍女に厳しく言っていた少女と同じ人物とは思えないほど、柔らかい声だ。
シルビアは私の頭を一度だけなでると、すぐに手を引っ込め、ごほんと咳払いをする。
「まあ、悪くありませんわね」
……悪くありませんわね。
たぶん「かわいい」だ。
翻訳すると、そういう意味だろう。
この子、本当に出力がおかしい。
侍女が恐る恐る口を開いた。
「お嬢様、その猫はどこから入ったのか分かりません。もしかすると、病気を持っているかもしれませんし……」
「この毛並みを見て、病気だと言うのですか?」
シルビアはキッと侍女を見た。
侍女が黙る。
いや、侍女の言っていることは間違っていない。
野良猫は危ない。
衛生面の確認は必要だ。
だがシルビアは私を見つめ、少しだけ胸を張った。
「この子は、見るからに気高い猫ですわ。そこらの猫とは違います」
いや、身元不明のそこらの猫です。
ただ、中身は人間なので、そこらの猫とは少し違うけど。
「黒い毛並み。金色の瞳。堂々とした態度。何より、わたくしを見ても逃げませんでしたわ」
それは断罪エンド回避という重大任務のためだから。
だが、外から見れば「シルビアに懐いた猫」に見えるのかもしれない。
シルビアは満足げにうなずいた。
「決めました。この子は、わたくしが飼います」
早い。
決断が早い。
公爵家の令嬢が、庭で拾った黒猫を即決で飼う。
侍女は真っ青になった。
「お、お嬢様! 旦那様や奥様に確認を……!」
「もちろん後で確認しますわ。けれど、この子がわたくしの猫になることは、もう決定事項です」
強い。
子供なのに決定事項という言葉を使うな。
だが、これは私にとって悪くない展開だった。
屋敷に入れる、それも合法的に。
そしてシルビアのそばにいられるってことだ。
断罪回避作戦の第一歩としては、かなり順調である。
そう。
順調だった。
この瞬間までは。
「では、名前をつけなくてはいけませんわね」
シルビアが、きらりと目を輝かせた。
その瞬間、ぶわりと背中の毛が逆立った。
何故か嫌な予感がする。
分からないが、かなりする。
シルビアは私を抱き上げた。
慣れていないのか、少しぎこちないけれど力加減は丁寧だ。
私は彼女の腕の中に収まる。
温かい。
小さな腕だが、意外と安定している。
うん、悪くない。
シルビアは私を見つめ、真剣な顔で言った。
「あなたにふさわしい名を、わたくしが授けてあげます」
……授ける。
名前をつけるではなく、授ける。
これが高貴な人間のデフォルトなのだろうか。
侍女が不安そうな顔をした。
私も別の意味で不安だった。
シルビアはしばらく考え込む。
庭に沈黙が落ちる。
そして彼女は、閃いたようにぱっと顔を上げた。
「漆黒の支配者」
私は硬直した。
侍女も硬直した。
シルビアだけが、満足げだった。
「どうかしら。黒い毛並みにぴったりですわ」
どうかしらとは?
だめだ、絶対にだめだ。
それは猫の名前ではない。
中二病をこじらせたダンジョンボスの二つ名である。
私は即座に首を横へ振った。
「にゃっ」
「まあ。気に入りませんの?」
どこに気に入る要素が?
シルビアは少し考え、すぐに次の候補を出した。
「では、闇夜の皇帝」
「にゃあ!」
だめだ。
悪役名がレベルアップしている。
「黒き雷光」
「にゃっ!」
黒いのか光なのか、はっきりしてほしい。
「影を統べる者」
「にゃああ!」
私は猫だ、統べない。
せいぜいクッションを占拠するくらいだろう。
シルビアはむっとした。
「注文の多い猫ですわね」
注文ではない。
最低限の尊厳の問題である。
それとも何か?こっちの世界では、ペットにはそういう名前が普通なのか?
私はシルビアの腕からするりと抜け出し、石畳の上に降りた。
そして、きっぱりと背を向ける。
これは抗議である。
シルビアが目を丸くした。
「今、背を向けましたわね?」
向けました。
「わたくしの考えた名前に、不満があるということ?」
「にゃ」
その通り。
大いにあります。
シルビアは頬をふくらませた。
その顔だけは、年相応でとても可愛い。
「分かりました。では、もっと親しみやすい名前にしますわ」
本当に?私の一生の問題だから慎重に頼むよ。
この先十年、いや猫の寿命がどれくらいか分からないが、私はその名前で呼ばれるのだ。
普通でお願い。
シルビアは自信満々に言った。
「クロマル一世」
私は近くの低い植木に飛び乗った。
「にゃあああ!」
全力の拒否である。
クロマルはまだ分かる。
いや、よく分からないが、猫の名前としては存在しうる。
だが、一世とは何だ、二世も作る気か。
侍女が口元を押さえて震えていた。
笑いをこらえているのか、恐怖で震えているのかは分からない。
たぶん両方だろう。だとしたら器用だな。
シルビアは不服そうに腕を組んだ。
「わがままな猫ですこと」
違う。
その名前を受け入れる猫の方が少ないと思う。
「ならば……ブラック・デス・キャット」
私は植木から飛び降り、そのまま東屋にかけられていた薄布へ飛びついた。
爪が引っかかる。
体がぶら下がる。
しまった。
抗議のつもりが、普通に降りられない。
「まあ!」
シルビアが目を輝かせた。
「その名前が気に入ったのですか?」
違ーーーっう!
どこがそう見える!
私は薄布にぶら下がりながら、必死に鳴いた。
「にゃあ!にゃああ!」
これは肯定ではない。
救助要請!
侍女が慌てて駆け寄ろうとしたとき、低い男性の声が響いた。
「お嬢様。何事でございますか」
屋敷の方から、一人の老紳士が歩いてきた。
きっちりと整えられた白髪。
隙のない黒い服。
穏やかながら、ただ者ではない雰囲気。
セバスチャン。
いや、名前は知らないが、この見た目と立ち居振る舞いは完全に、セバスチャン枠である。
おそらく、この屋敷を長く支えている人物だろう。
彼は、薄布にぶら下がる私を見た。
それから、得意げなシルビアを見た。
最後に、青ざめた侍女を見た。
数秒の沈黙。
状況把握が早い。
さすがプロフェッショナル。
「お嬢様。その黒猫は?」
「わたくしの猫ですわ」
シルビアは即答した。
彼は一瞬だけ眉を動かしたが、すぐに落ち着いた声で言う。
「左様でございますか。では、まず旦那様と奥様にご報告を」
「ええ。ですが、その前に名前を決めておりますの」
「名前でございますか」
「ええ。ブラック・デス・キャットがよいと思ったのですけれど、この子は少々興奮してしまって」
「……」
興奮ではない。
拒絶と落下の危機である。
執事は私を見上げた。
目が合う、助けてほしい。
私はできるだけ真剣な目で訴えた。
猫の表情でどれほど伝わるかは不明だが、セバスチャンに賭けるしかない。
彼はごく自然な動作で私を薄布から外し、両手で受け止めてくれた。
手つきが慣れている。
そして、シルビアへ向き直った。
「お嬢様。この子は大変美しい黒猫でございます。恐ろしげな名より、気品ある名の方がふさわしいかと」
いいぞ!
もっと言ってほしい!さすがセバスチャン!
シルビアは少し不満そうに眉を寄せた。
「気品のある名?」
「はい。たとえば、ノワール、などはいかがでしょう」
ノワール。
私は耳をぴくりと動かした。
悪くない。
黒を意味する響き。
短くて呼びやすい。
猫の名前としても自然。
何より、ブラック・デス・キャットより百倍いい。
いや、比べる対象が悪すぎるだけかもしれないが。
シルビアは私をじっと見た。
「ノワール……」
口の中で転がすように、何度かつぶやく。
「ノワール。ノワールですか」
そして、ぱっと顔を明るくした。
「よいですわね。気高く、上品で、わたくしの猫にふさわしい名ですわ」
そう言って、シルビアは私を受け取り腕に抱いた。
「あなたの名前は、今日からノワールです」
私は短く鳴いた。
「にゃ」
承認である。
ブラック・デス・キャットより、はるかにいい。
シルビアは満足げに微笑んだ。
ほんの一瞬だけ、表情がほどけた。
それは、さっきまでの高圧的な顔とはまるで違う、年相応の柔らかい笑みだった。
私は少し固まった。
この子、笑うと印象がまったく違う。
普段の無表情と鋭い目つきで、どれだけ損をしているのか。
今の顔で「ありがとう」とでも言われたら、使用人みんな即陥落だろう。
いや、待て。
その前に、名前候補のセンスをどうにかしなければならない。
ブラック・デス・キャットは危険すぎる。危うく私は、一生その名で呼ばれるところだった。
このお嬢様、油断ならない。
「ノワール。これからは、わたくしのそばにいるのですよ」
その声は、少しだけ柔らかかった。
私は彼女の腕の中から、屋敷を見上げる。
白い壁。
大きな窓。
この先に、ゲームで見た未来につながる道がある。
シルビアが断罪される未来。
悪役令嬢として語られる未来。
ヒロインを傷つけたとされ、王太子に見捨てられる未来。
それを変えるために、私はここにいる。
私は猫だ。
魔法も使えない。
人の言葉も話せない。
できることは少ない。
けれど、ゼロではない。
まずは観察だ。
この不器用なお嬢様が、なぜ悪役令嬢になっていくのか、何が彼女を誤解させ、誰が彼女を追い詰めるのか。
見極めなければならない。
シルビアは私を抱いたまま、屋敷へ向かって歩き出した。
「まずはお父様とお母様に紹介しますわ。きっとお許しくださいます。だって、こんなに美しい猫ですもの」
美しい猫。
そう言われるのは、悪い気はしない。
ここからは油断は禁物だ。
屋敷の中には、まだ私の知らないものが山ほどある。
家族、使用人、婚約者、従姉妹。
そして、シルビアが悪役令嬢へ向かっていく理由。
今日から私は、ノワール。
悪役令嬢になる予定の少女に拾われた黒猫。
まずは、この屋敷の中を調べるところから始めよう。
ただし、名前だけはもう二度とシルビアに任せない。
「黒猫の名付け親は執事だった!シルビアが名付けるはずだったのに……。授かった名前を大切に、ノワールこれから頑張ります!」
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黒猫一匹と作者が喜びます。
ありがとうございました!




