第1話 黒猫、悪役令嬢と出会う
完結確定。
毎日朝7時に更新します。
よろしくお願いします。
目が覚めたら、猫だった。
いや、待ってほしい。
何を言っているのか分からないと思う。
私も分からない。
ほんの少し前まで、私は人間だったはずだ。
たぶん。
そこがすでに曖昧なのが、かなり困っている。
名前は思い出せる。山田由美子。
漢字で書けば、いやに四角ばった名前だな、ということまで覚えている。
年齢も思い出せる。
二十六歳、独身、恋人無しの寂しいお一人様。
職業はWebプログラマー。
かっこいいし、今時食いっぱぐれないだろうと、安易に選んだ職業。
朝から晩までひたすらコードを書き、バグを潰し、仕様変更に泣き、納期という名の取り立てに追われる、どこにでもいる社畜だった。
唯一の息抜きは、乙女ゲーム系ソシャゲ。
通勤電車でイベントを走り、昼休みにログインボーナスを回収し、寝る前に推しの親愛度を上げる。
眠い目をこすりながらも、それだけが、社畜生活唯一の心の栄養だった。
うん、そこまでは覚えている。
けれど、どうして自分が死んだのか、本当に死んだのか、そこだけが、ぽっかり抜け落ちていた。
ちょっと夢かも、って現実逃避してみたり。
そして冒頭に戻り、今、私は猫である。
視界が低い。
毛むくじゃらの体に、つやつやした肉球装備。
試しに声を出してみた。
「にゃあ」
猫だった。
完全に、紛うことなく、猫だ。
庭の隅に置かれた水瓶をのぞき込むと、水面に映ったのは、テカテカしている黒い毛並みと、金色の目をした成猫と言っていい大きさの……猫だった。
毛並みは驚くほどきれいで、野良猫というより、どこかの貴族に飼われているような、高級感のある美しい黒猫である。
いや、待て。
状況を整理しよう。
私は二十六歳のWebプログラマー。
何らかの理由で黒猫になった……らしい?
現在地は不明。
現実かどうかも不明。
鳴き声は正常。
肉球も正常。
人間としての尊厳は異常事態。
……。
私は水瓶の前で、しばらく固まった。
だが、固まっていても仕様は変わらないし、バグ報告を投げる相手もいない。
まずは現状の確認だ。
うん、Webプログラマーで培った危機管理能力は、この猫の姿でも健在らしい。
そう思いつつ顔を上げた瞬間、私はまた固まった。
目の前に広がっていたのは、日本にはあり得ないような庭だったからだ。
庭が広いのか、自分が小さいのかという問題もあるが、この地面に近い視点から見れば、地平線が見えてしまうほど、だだっ広い。
白い石で作られた噴水。
きれいに刈り込まれた長く続く植え込み。
季節の花が咲く花壇。
奥には薔薇のアーチがあり、その向こうに白い壁の大きな屋敷がそびえている。
こんなのテレビでしかみたことないわ。
確実に一般家庭ではないし、金持ちの家でも足りない。
これは貴族の屋敷と呼ぶべき規模で、ザ・庶民の私からしたらすでに城である。
私は植え込みの陰に身を隠し、屋敷を見上げた。
青灰色の屋根。
アーチ型の窓。
二階の左から三番目にある、大きなバルコニー。
どこかで見覚えが……
その感覚に、背筋がぞわりとした。
いや、猫なので背筋というより背中の毛が逆立った。
私はこの景色を知っている。
画面越しに、何度も見た。
イベント背景として。
ログイン直後のホーム画面として。
悪役令嬢の回想シーンとして。
まさか。
いや、そんなはずがない。
乙女ゲームの世界に転生なんて、そんな。
ありえない。
と言いたいが、何度も言うが、今現在、私自身が猫である。
ありえないことが一つ発生している時点で、二つ目が発生しない保証はない。
そのときだった。
「だから、何度言えば分かるのですか!」
甲高い少女の声が、庭に響いた。
私は反射的に植え込みの奥へ潜り込んだ。
猫の体はすごい。
思った以上に軽いし、音もなく動ける。
前世の私にもこの俊敏性があれば、終電間際の乗り換えで勝てたかもしれない。
植え込みの隙間から、そっと声のした方を覗く。
庭の小道に、一人の少女が立っていた。
年は七歳くらいだろうか。
淡い金色の髪を、きちんと巻いている。
上質な青いドレスを着て、背筋はぴんと伸びていた。
顔立ちは恐ろしく整っていて、子どもなのにすでに完成された美貌。
白い肌に、紫色の大きな瞳。
ただ、その目元は少しつり上がっていて、表情も固い。
口元はきゅっと結ばれ、眉間にはわずかにしわが寄っていた。
見た目だけなら、天使のような美少女。
だが雰囲気は、完全に小さな女王様。
その少女を見た瞬間、私の中で何かがつながった。
シルビア・グランベル。
乙女ゲーム『星降る学院と運命の恋』に登場する、極悪非道の悪役令嬢。
公爵家の長女で王太子の婚約者。
高慢で冷酷、平民出身の聖女候補であるヒロインを、あらゆる手でいじめ抜く悪役令嬢だ。
ゲーム本編では十五歳で学園に入学し、ヒロインを徹底的に敵視する。
ドレスを破り、悪評を流し、階段から突き落した。
ザ・悪役令嬢の教科書、と言える程のやらかしを行うお嬢様だ。
最終的には、王太子や攻略対象たちの前で罪を暴かれ、断罪される。
国外追放。
修道院送り。
ルートによっては、最悪処刑。
とまあ、よくある展開の乙女ゲームだったのだが、プレイヤーからは「顔は最高なのに性格が最悪」と言われていた、最恐の人物である。
そのシルビアが、今、目の前にいる。
しかも、まだ七歳くらいの姿で。
ここ、ゲームの世界だ。
よりによって、悪役令嬢の家。
しかも私は、猫だ。
情報量が多い。
仕様書がない。
問い合わせ先もない。
社畜時代なら、とりあえず上司に確認する案件である。
もっとも、その上司はだいたい「いい感じにやっといて」と丸投げだったが。
シルビアの前には、一人の侍女が立っていた。
若い侍女は、両手でティーポットを持ったまま、青ざめている。
シルビアはその侍女をまっすぐ見上げ、びしっと指を突きつけた。
「紅茶は熱すぎてはいけませんわ!」
来た、紅茶。
星恋のシルビアといえば紅茶である。
ゲームでは、彼女は気に入らない相手に紅茶をかけることで有名だった。
いや、有名というか、悪評イベントとして何度も紅茶をかけまくる。
まさか、もう始まるのか、伝説の紅茶がけ。
七歳の時点で、すでに侍女に紅茶を浴びせるのか。
私は身構えた。
だが、シルビアは続けた。
「そんなに熱いものをそのまま出したら、火傷してしまうでしょう!」
……ん?
私は耳をぴくりと動かした。
侍女は慌てて頭を下げる。
「も、申し訳ございません、お嬢様」
「まったく。あなたはいつもそうですわ。少しは相手のことを考えなさい」
シルビアはつんと顔をそむける。
うん、言い方はきつい。非常にきつい。
七歳とは思えないほど、圧がある。
だが、言っている内容は。
紅茶で火傷しないように気をつけろ。
だった。
ん?
私は植え込みの中で、そっと首をかしげた。
ゲームのシルビアは、こんな子だったっけ。
私の記憶にあるシルビアは、気に入らない侍女を泣かせ、ヒロインのドレスに紅茶をかけ、高笑いをしながら笑顔で相手を追い詰めるタイプだ。
侍女はまだ震えている。
シルビアはそれを見て、なぜかさらに眉をつり上げた。
「な、泣くことはないでしょう! 別にあなたを責めているわけでは……いえ、責めてはいますけれど!そうではなくて!」
どっちだ。
心の中で、即座に突っ込んだ。
シルビアは何かを言おうとして、口をぱくぱくさせているが、どうまく言葉が出てこないらしい。
頬をほんのり赤くし、ぷいっと横を向く。
うん、まだ七歳だしね。
「と、とにかく!」
あ、諦めた。
「次からは気をつければよいのですわ。あなたが怪我をしたら、仕事に差し障るでしょう!」
違う。
そうじゃない。
悪役令嬢ポイント、加算。
いや、待て。
私は何を採点しているのか。
侍女はますます青ざめていく。
シルビアは困ったように視線をさまよわせ、テーブルの上に置かれていた小皿を手に取った。
そこには、焼き菓子が二つ並んでいる。
きれいに飾られた、お嬢様用のお菓子だ。
シルビアはそれを侍女に差し出した。
「これは、余りましたの。捨てるのはもったいないでしょう。あなたが処分なさい」
余っていない。
今、明らかに中央に置かれていて、食べる気満々の配置だったよね。
侍女も驚いたように顔を上げる。
「よ、よろしいのですか……?」
「よろしいも何も、余り物ですわ。わたくしは無駄が嫌いなだけです。勘違いしないことね」
シルビアは視線をそらしながら、早口で言った。
ツンデレか。
いや、違う。
これはツンデレというより、好意の渡し方を知らないのでは?
侍女は困惑しながらも、小皿を受け取る。
「ありがとうございます、お嬢様」
「お礼など不要ですわ。早く行きなさい」
シルビアはぷいっと横を向いた。
侍女が去っていくと、シルビアはその背中をちらちら見ている。
そして、誰にも聞こえないような小さな声でつぶやいた。
「……泣かせるつもりでは、なかったのに」
その瞬間、私の中で何かが音を立てた。
この子、悪役じゃない。
少なくとも、今は。
極悪非道どころか、ただの不器用な子どもだ。
言葉選びが壊滅的で、態度が高圧的で、表情が固くて、善意を悪意に変換する謎の出力バグを抱えた、ただのポンコツお嬢様に見える。
私は植え込みの中で、息をのんだ。
では、なぜ。
なぜゲームのシルビアは、あんな極悪非道の令嬢になったのか。
この子がこのまま成長して、本当にヒロインをいじめ抜くようになるのか。
あるいは、ゲームのシナリオそのものが、彼女を悪役に押し込むのか。
分からない。
分からないが、一つだけ確かなことがある。
このまま放っておけば、シルビア・グランベルは断罪される。
七歳のこの子が、十年後、学園の大広間で罪を突きつけられる。
王太子に見捨てられ、周囲に責められ、悪役令嬢として終わる。
ゲーム画面の向こうで見ていたときは、仕方ないと思っていた。
悪役令嬢だから。
ヒロインをいじめたから。
断罪されて当然だと。
だけど。
目の前の少女は、言いたい言葉も見つからず、泣きそうな侍女に焼き菓子を渡すだけで精一杯の、ただの不器用な子どもだった。
何だか放っておけない。
私は植え込みから、一歩踏み出した。
小さな肉球に、ひんやりとした感触が伝わる。
するとシルビアが気づいた。
「……猫?」
紫色の目が、こちらを向いた。
鋭い。
ものすごく鋭い。
普通に見ているだけなのだろうが、完全に睨んでいる。
私が何をしたっていうんだ。
怖いんだが。
だが、私は逃げなかった。
ここで逃げたら終わりだ。
私は猫である。
人の言葉は話せない。
未来を説明することもできない。
断罪イベントの危険性を訴えることもできない。
だが、猫には猫の戦い方がある。
やってやろうではないか。
この不器用ポンコツお嬢様を、断罪エンドから救ってみせる。
私はシルビアを見上げ、力強く鳴いた。
「にゃあ!」
シルビアは一瞬きょとんとした。
そして、なぜか得意げに胸を張った。
「ふふん。あなた、なかなか見る目がありますわね。このわたくしに仕えたいというのなら、特別に許してあげてもよろしくてよ」
……違う。
そうじゃない。
私はしっぽをゆっくり揺らした。
こうして私は、極悪非道の悪役令嬢になる予定の少女と出会った。
断罪エンドまで、あと十年。
猫の手しかないが、やるしかない。
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黒猫一匹と作者が喜びます。
ありがとうございました!




