第17話 黒猫、ドレス破り事件を防ぐ
完結確定。
毎日朝7時に更新します。
よろしくお願いします。
学園初日、シルビア・グランベルと運命のヒロイン、リーナの初対面は、ぎりぎりのところで大事故を免れた。
本当に、ぎりぎりだった。
初手から、ぐらぐらの吊り橋を全力疾走するような状況だったが、あの一言には肝が冷えた。
「ずいぶん頼りなさそうですわね」
これは完全にアウト。
悪役令嬢ポイント、特大加算。
初対面のヒロインに向かって、それはだめだ。
ゲームなら選択肢も出ずに好感度が下がる。
いや、悪役令嬢の好感度など表示されないが、内部値は確実に下がる。
私が即座にシルビアの足に飛びつき、その結果、シルビアは何とか言い直したが。
「顔色が悪いですわ。慣れない場所で倒れられては困ります。無理をするくらいなら、早めに休むことです」
そして、それをアレクシス王太子が通訳した。
「シルビア嬢は、君の体調を気にしているんだと思う」
王太子、成長。
私は少しだけ感動した。
七歳の頃は、シルビアが目を細めただけで怯んでいた少年が、十五歳になり、ついにシルビア語を少し翻訳できるようになった。
長かった、八年。
これも靴ひもを狙い続けた成果である。
しかし、安心してはいけない。
リーナとの最初の接触は、完全な敵対こそ避けられたが、リーナの中には確実に「シルビア様は怖い」という印象が残ったはずだ。
そしてここは、星降る学院、ゲーム本編の舞台。
悪役令嬢ルートの温床。
ここでは、ひとつの誤解があっという間に広がる。
ましてや、リーナは聖女候補だ。
平民出身で、慣れない貴族社会に放り込まれた少女。
周囲は彼女を珍しがり、試し、時に同情し、時に利用しようとする。
人間、まして貴族など大抵そういうものだ。
そこへ、公爵令嬢で王太子の婚約者であるシルビアが強い言葉を向ければどうなるか。
答えは簡単。
ヒロインいじめ開始である。
私は、学院の廊下を歩きながら改めて気を引き締めていた。
シルビアは隣にいるアレクシスと、教師から渡された予定表について話している。
いや、話しているというより、シルビアが説明している。
「午後の魔法理論は、基礎確認のようですわね。殿下は、以前つまずいた箇所をもう一度見直しておくとよろしいかと」
言い方。
微妙に刺さる。
アレクシスは苦笑した。
「相変わらず手厳しいね」
シルビアは少しだけ顔を赤くする。
「事実を申し上げただけですわ」
私は足元から見上げた。
シルビアは一瞬止まり、ため息のように息を吐く。
「……お役に立てばと思っただけです」
よし。
修正成功。
アレクシスは柔らかく笑った。
「うん。ありがとう」
よしよし。
ここは問題ない。
今のところ、王太子との関係は安定している。
問題はリーナだ。
私は廊下の先を見る。
リーナは、少し離れた場所で教師に案内されていた。
周囲には数人の令嬢たちがいる。
その視線は、好意と興味と値踏みが混ざっている。
「聖女候補ですって」
「平民出身なのに、学院へ?」
「神殿の推薦なら仕方ありませんわ」
「でも、礼儀は大丈夫なのかしら」
ひそひそ声。
本人に聞こえないようにしているつもりかもしれないが、猫の耳にはよく聞こえる。
リーナも、完全に聞こえていないわけではなさそうだ。
肩に少し力が入っている。
それでも、彼女は顔を上げて歩いていた。
偉い。
かなり偉い。
ゲームのヒロインだけあって、芯が強い。
だが、強いからといって傷つかないわけではない。
私はリーナを見ながら、ゲーム内のイベントを思い出そうとした。
学園入学直後。
ヒロイン、リーナが最初にシルビアと対立するイベント。
覚えているのは、リーナのドレスの裾が裂けること。
その直前にシルビアが近くにいること。
そして誰かが、「シルビア様がわざと」と言い出すこと。
危険だ。
ドレス破り事件。
詳細は、少し曖昧。
なにせ、前世でやっていたゲームだ。
しかも私は推しイベントを中心に走っていたから、悪役令嬢の細かい悪行ログを全部記憶していたわけではない。
覚えていることと言えば……。
リーナのドレスの裾が裂ける。
その直前、シルビアが近くにいる。
取り巻きの令嬢たちがざわめく。
誰かが「シルビア様がわざと」と言い出す。
王太子がそれを聞く。
そして、シルビアの悪評が一段強まる。
まずい。
非常にまずい。
絶対に防がなければならない。
その日の午後。
新入生向けの歓迎会が開かれた。
大広間には、学院の生徒たちが集まっている。
高い天井に大きな窓。
壁に飾られた星の紋章。
中央には軽食と飲み物が並べられた長いテーブル。
星降る学院らしい、華やかな空間だった。
貴族の子女たちはすでに小さな輪を作り、会話を始めている。
上級生らしき生徒もちらほらいる。
リーナは、その中で少し浮いていた。
背筋を伸ばして立ってはいるものの、やはり立ち居振る舞いが少し違う。
貴族令嬢たちのように、自然に扇を開いたり、視線だけで会話に加わったり、笑顔の裏で相手を測ったりすることに慣れていない。
その素直さが、余計に目立つ。
シルビアは部屋の端に立っていた。
近くにはアレクシスがいる。
何人かの令息令嬢が二人に挨拶をしに来る。
シルビアは完璧に受け答えしていた。
ただし、表情は固いし、声も硬い。
「ごきげんよう」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
「ええ、学院生活では互いに研鑽を積みましょう」
完璧。
完璧なのだが、近寄りがたい。
周囲は「さすが公爵令嬢」と思う一方で、「怖い」とも思っている。
私はシルビアの足元から、大広間全体を見回した。
ドレス破り事件。
どこで起きる。
誰が仕掛ける。
リーナの周囲か。
シルビアの近くか。
それとも偶然を装うのか。
私は床を歩き始めた。
猫は便利である。
人間たちの足元を歩いても、それほど不審がられない。
まあ、学院にいること自体おかしいのだが。
むしろ「あら、黒猫」「可愛い」と言われる。
可愛い。
まあ、否定はしない。
私は艶のある黒猫である。
鏡で見る限り、今の私はなかなかの美猫だ。
いや、今はそれどころではない。
私はリーナの方へ近づいた。
リーナは、数人の令嬢に囲まれていた。
「リーナ様は、神殿で学ばれていましたの?」
「はい。礼儀作法は、こちらに来る前に少し教えていただきました」
「まあ、少し」
「大変ですわね。学院には、公爵家や侯爵家の方も多いですもの」
言葉は優しい。
だが、棘がある。
リーナはそれに気づいているのかいないのか、少し困ったように笑っている。
その後ろ。
淡い桃色のドレスの令嬢が、ゆっくりと移動していた。
手には飲み物のグラス。
視線はリーナの足元。
私は目を細めた。
怪しい。
非常に怪しい。
令嬢の足元には、リーナのドレスの裾が広がっている。
新入生用の制服ではなく、歓迎会用に用意された簡素なドレスだ。
おそらく神殿が準備したものだろう。
貴族令嬢たちの豪華なドレスに比べると控えめだが、清楚でリーナによく似合っている。
その裾が、床に少し長く垂れていた。
桃色の令嬢が、それを踏みそうな位置へ足を運ぶ。
偶然か。
わざとか。
判断は難しい。
だが、私は猫である。
怪しければ動く。
私は床を蹴った。
桃色の令嬢の前に飛び出し、その足元を横切る。
「きゃっ」
令嬢が驚いて足を止めた。
グラスの中身が少し揺れる。
リーナも振り返った。
「あ……黒猫さん?」
私は桃色の令嬢の足元に座り、じっと見上げた。
踏むな。
その裾を踏むな。
令嬢は少し顔を引きつらせた。
「まあ、シルビア様の猫ではありませんこと?」
声が大きい。
周囲の視線が集まる。
シルビアもこちらを見た。
まずい。
私がここにいることで、逆にシルビアが関わっているように見える可能性がある。
だが、裾を踏まれるよりはましだ。
リーナは私を見て、少しだけ表情を緩めた。
「ノワール、さん?」
……さん。
ヒロインにさん付けされた。
「さん」呼び、すごく新鮮だ。
この世界での私の社会的地位が本当に分からない。
私は短く鳴いた。
「にゃ」
リーナは小さく笑った。
「こんにちは」
いい子。
やはりいい子だ。
この子を敵にしてはいけない。
桃色の令嬢は、軽く咳払いした。
「リーナ様、その猫にお気をつけになって。シルビア様の大切な猫ですもの。粗相があったら大変ですわ」
言い方。
シルビアを盾にしている。
私はその令嬢を見た。
この子も危険人物候補か。
それとも、ただの便乗令嬢か。
判断保留。
私はリーナの裾に近づき、あえて前足で軽く押さえた。
リーナが不思議そうにする。
「どうしたの?」
私は裾をくわえ、少しだけ引いた。
リーナは目を丸くした。
「裾……?」
気づいたらしい。
彼女は自分のドレスの裾を見下ろし、少し慌てて持ち上げた。
「あ、ありがとうございます。踏まれるところでした」
桃色の令嬢の表情が、ほんの一瞬だけ変わった。
やはり。
偶然ではなかった可能性が高い。
私は金色の目をスッと細めて彼女を見た。
桃色の令嬢はすぐに笑みを取り繕う。
「まあ、賢い猫ですこと」
その声には、少しだけ焦りが混ざっていた。
よし。
第一波、防いだ。
そう思った瞬間。
別方向から小さな悲鳴が上がった。
「きゃっ」
振り向く。
今度は、別の令嬢がリーナの背後にいた。
薄い水色のドレス。
手にしていた皿が傾き、クリームのついた菓子が落ちかけている。
その先は、リーナの肩。
もし当たれば、ドレスが汚れる。
汚れたドレス。
慌てるリーナ。
近くにいるシルビアの猫。
また悪評に使える。
連携か。
偶然にしては続きすぎる。
私は即座に動いた。
床から椅子へ。
椅子からテーブルの脚へ。
そこから跳ぶ。
猫の身体能力、優秀。
私は落ちかけた菓子に体当たりした。
菓子は空中で軌道を変え、リーナではなく床に落ちた。
べちゃり。
床にクリームが広がる。
周囲がざわめいた。
私は着地に失敗しかけたが、何とか四本足で降りた。
猫なので。
リーナは驚いて私を見る。
「ノワールさん!」
水色の令嬢は青ざめたふりをした。
「ご、ごめんなさい。手が滑ってしまって」
嘘か本当か分からない。
ただ、私は疑っている。
大広間の端で、シルビアが動いた。
まずい。
シルビアがこちらへ来る。
この状況でシルビアが来ると、非常に危険だ。
リーナの周囲で騒ぎ。
シルビアの猫が大暴れ。
令嬢たちは怯えた顔。
シルビアが厳しい顔で近づく。
絵面が完全にアウトである。
私は内心で叫んだ。
来るな。
いや、来てもいいが顔を柔らかくしろ。
シルビアは早足で近づいてきた。
顔は硬い。
目つきは鋭い。
完全に怒っているように見える。
周囲の令嬢たちが道を開けた。
リーナも少し身構える。
シルビアは床のクリームを見て、さらに眉を寄せた。
「何をしているのです」
出た。
強い。
最悪の第一声、その二。
場が凍る。
水色の令嬢が、震える声で言う。
「も、申し訳ございません、シルビア様。私、リーナ様にぶつかりそうになってしまって」
シルビアはリーナを見る。
目を細める。
睨んでいるように見える。
「あなた、怪我はありませんの?」
リーナは驚いたように瞬いた。
「え?」
「聞こえませんでしたの? 怪我はありませんか、と聞いたのです」
言い方。
なぜそうなる。
だが、内容は心配である。
リーナは少し戸惑いながらも答えた。
「は、はい。大丈夫です。ノワールさんが助けてくれたので」
シルビアは私を見る。
そして、床のクリームを見る。
さらに、リーナのドレスの裾を見る。
破れていないし、汚れてもいない。
よし。
ドレス破り事件、未遂である。
しかし、まだ油断はできない。
シルビアは水色の令嬢へ視線を向けた。
「手が滑ったのですか」
声が冷たい。
水色の令嬢が身を縮める。
「は、はい」
シルビアは少しだけ目を細めた。
怖い。
かなり怖い。
だが、私は知っている。
これは本当に怒っている表情だ。
リーナが怪我をしそうだったことに。
ドレスが汚れそうだったことに。
誰かがわざとやった可能性に。
シルビアは、そういうことを許せない。
ただし、言い方を間違えると、シルビアがリーナを責めているように見える。
私はシルビアの足元へ駆け寄り、短く鳴いた。
「にゃ」
慎重に。
シルビアは私を見る。
それから、リーナを見る。
そして、ゆっくり息を吸った。
「リーナ嬢」
「はい」
「あなたの裾が少し長いですわ」
リーナがびくりとする。
周囲もざわめく。
まずい。
また高圧的に聞こえる。
私は爪を出しかけた。
だが、シルビアは続けた。
「このままでは、誰かに踏まれます。あなたも転ぶかもしれません」
お、ちゃんと説明している。
「近くの侍女に、仮留めを頼みなさい。今すぐです」
命令形。
でも内容は正しい。
リーナは少し驚いたあと、自分の裾を見た。
「あ……はい。ありがとうございます」
ピシッ。
シルビアは固まる。
感謝された、ヒロインに。
私は足元から見上げた。
受け取れ。
ここで受け取れ。
シルビアは少しだけ頬を赤くした。
「……どういたしまして」
言えた。
周囲がまたざわめく。
あのシルビア様が、リーナに礼を返した。
これは良い。
かなり良い。
しかし、桃色の令嬢がすぐに口を挟んだ。
「まあ、シルビア様はお優しいのですね。リーナ様の装いにまでお気づきになるなんて」
言葉だけなら褒めている。
だが、含みがある。
装いにまでお気づき。
つまり、リーナの服装を値踏みしていた、とも受け取れる。
私はその令嬢をじっと見た。
やはり危険。
シルビアも少し眉を動かした。
だが、そこでアレクシスが近づいてきた。
「確かに、裾は危なかったね。ノワールもずっと気にしていたみたいだ」
王太子、援護。
素晴らしい。
桃色の令嬢は、アレクシスの登場に少し顔を強張らせた。
「殿下」
アレクシスは柔らかく微笑んでいるが、その目は少しだけ真剣だった。
「誰かが踏む前に気づけてよかった。歓迎会で怪我人が出たら大変だからね」
場の意味が変わった。
シルビアがリーナの装いを責めたのではなく、危険を指摘した。
アレクシスがそう受け取ったことで、周囲もそれに従う空気になる。
リーナも少し安心したように息を吐いた。
私はアレクシスを見上げる。
王太子。
やるではないか。
観察力、さらに成長、伸び盛りだな。
靴ひも教育の成果が出ている。
シルビアはアレクシスをちらりと見た。
「殿下まで、大げさですわ」
「そうかな。大事なことだと思う」
アレクシスはそう言って、リーナへ向き直る。
「リーナ嬢、近くの侍女に頼もう。シルビア嬢の言う通り、そのままだと危ない」
「はい。ありがとうございます」
リーナは素直に頭を下げた。
シルビアは少しだけ視線をそらす。
その顔は、照れているようにも見えた。
ドレス破り事件。
ひとまず、防いだ。
ただし、完全勝利ではない。
私は周囲を見る。
桃色の令嬢、水色の令嬢、そして少し離れた場所で、それを見ていたクラリス。
クラリスは、いつの間にか大広間の端にいた。
彼女は穏やかに微笑んでいる。
だが、その目の奥は笑っていない。
私は背中の毛が逆立つのを感じた。
やはりいた。
クラリス・ローヴェル。
この場に。
シルビアの悪評につながるかもしれない事件の近くに。
クラリスは私と目が合うと、ほんの少しだけ微笑みを深めた。
その微笑みは、褒めているようにも、値踏みしているようにも見える。
私はしっぽを低く揺らした。
今回の事件が、クラリスの指示だったのかは分からない。
桃色の令嬢と水色の令嬢が、自分たちの意思でリーナを試そうとしただけかもしれない。
だが、少なくともクラリスは見ていた。
そして、シルビアがどう動くかを観察していた。
危険だ。
かなり危険だ。
リーナは別室で裾を仮留めしてもらった。
シルビアは、何事もなかったように大広間の端へ戻った。
だが、私は気づいていた。
シルビアの表情が少し硬い。
怒っている。
いや、悔しがっているのかもしれない。
リーナのドレスが危なかったこと。
周囲がそれを面白がるように見ていたこと。
そして、自分がまた怖がらせてしまったこと。
それらが、シルビアの中でうまく処理できていないのだろう。
私は足元から彼女を見上げた。
「にゃ」
大丈夫。
今日は悪くなかった。
シルビアは私を見た。
少しだけ目を細める。
近い距離だから、睨んでいるのではないと分かる。
「ノワール」
「にゃ」
「わたくし、また怖い言い方をしましたかしら」
小さな声だった。
私はしばらく考えた。
した。
かなりした。
だが、言い直した。
ちゃんと危険を伝えた。
リーナも、最後には感謝していた。
だから、全部だめだったわけではない。
私はシルビアの足に体をすり寄せた。
「にゃ」
シルビアは少しだけ息を吐いた。
「そう」
そして、遠くにいるリーナを見た。
リーナは裾を直してもらい、ほっとした様子で教師に礼を言っている。
シルビアはそれを見て、小さくつぶやいた。
「……転ばなくて、よかったですわ」
聞こえたのは、たぶん私だけだった。
私は喉を鳴らした。
そうだ。
それを本人に言えれば、もっといい。
だが、今日はまだここまででいい。
一方で、リーナもこちらを見ていた。
シルビアと目が合うと、リーナは少し驚いたように背筋を伸ばす。
そして、小さく会釈した。
シルビアは一瞬固まった。
それから、ぎこちなくうなずき返した。
ぎこちない。
かなりぎこちない。
だが、敵意ではない。
リーナは少しだけ笑った。
私はその表情を見て、希望を感じた。
まだいける。
まだリーナは、シルビアを完全に敵だとは思っていない。
怖い、でも、助けてくれた。
言い方はきつい、でも、気にしてくれた。
その違和感が、リーナの中に残ればいい。
悪役令嬢ではなく、不器用な人かもしれない。
そう思ってくれれば。
ドレス破り事件は、未遂で終わったが、これは始まりにすぎない。
ゲームのシナリオは、ひとつ潰せば終わりではない。
次の事件が来る。
そしてまた、別の誤解が来る。
誰かがまた、シルビアを悪役令嬢の形に押し込もうとする。
私は大広間の端にいるクラリスを見た。
彼女はリーナに優しく声をかけている。
「大丈夫でしたか、リーナ様。初日から大変でしたわね」
柔らかい声。
心配そうな表情。
完璧な優しい令嬢。
リーナは少し安心したように礼を言った。
クラリスは微笑む。
「シルビア様は、少し言い方が厳しいところがありますけれど、悪気はない方ですの」
私は耳を伏せた。
まただ。
悪気はない。
優しいようで、棘のある言葉。
その言い方では、シルビアの第一印象は「悪気はないけれど怖い人」として固定される。
クラリスは続ける。
「慣れれば、きっと大丈夫ですわ」
慣れれば。
つまり、慣れないうちは大変だと言っている。
巧妙だ。
非常に巧妙。
リーナは戸惑いながらもうなずいた。
「はい……」
私は小さくうなった。
クラリスは、柔らかくシルビアの印象を形作っている。
しかも、親切そうに。
シルビアはそれに気づいていない。
リーナもまだ気づかない。
なら、私が見張るしかない。
私は黒猫ノワール。
悪役令嬢断罪エンド回避担当。
学園編最初の事件は、何とか未遂で終わった。
けれど、敵は増えた。
ドレスの裾より厄介なのは、人の言葉だ。
布なら爪で押さえられる。
だが、噂は爪では止められない。
私はクラリスを見つめながら、静かに爪を出した。




