第16話 運命のヒロイン、登場
完結確定。
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シルビア・グランベルが七歳だった頃から、八年が経った。
八年、猫にとっては長い時間である。
人間にとっても、まあまあ長い。
元二十六歳Webプログラマーの私にとっては、プロジェクトが何度も炎上し、何度も仕様変更され、何度も「今月こそ落ち着く」と言いながら、まったく落ち着かないくらいの年月である。
その間、私はずっとシルビアのそばにいた。
黒猫ノワールとして。
悪役令嬢断罪エンド回避担当として。
そして、シルビア・グランベル専属の言語出力監視猫として。
八年間で、シルビアはずいぶん変わった。
まず、ありがとうが言えるようになった。
最初は、蚊の鳴くような声だったから、相手に聞こえないことも多かった。
言ったあとに必ず顔を赤くし、「今のは礼儀として当然のことですわ」と余計な補足をつけた。
だが今では、かなり自然に言える。
「ありがとう」
この一言が出るだけで、屋敷内の空気はずいぶん変わった。
次に、ごめんなさいも言えるようになった。
ごめんなさいは、今でも少し苦手だ。
謝る前に一度、必ず言い訳の顔をする。
私がじっと見上げると、ようやく渋々口にする。
「……ごめんなさい」
進歩である。
さらに、命令形もだいぶ減った。
ゼロではない、ここは残念ながらゼロではない。
油断するとすぐに出る。
しかし最近では、そのあとに続くことがある。
「……お願いできるかしら」
この追加修正が入るようになった。
大進歩である。
黒猫式・悪役令嬢改造計画は、着実に成果を上げていた。
では、シルビアはもう悪役令嬢に見えなくなったのか。
答え。
そう簡単にはいかない。
シルビアは十五歳になった。
七歳の頃からすでに完成されかけていた美貌は、八年かけてさらに磨かれた。
淡い金の髪。
白い肌。
紫の瞳。
整いすぎた顔立ち。
まっすぐ伸びた背筋。
公爵令嬢として完璧に叩き込まれた所作。
美しい。
だが、美しすぎる。
国宝級美少女。
ただし、近寄りがたい方の国宝である。
しかも目つきは相変わらず鋭い。
視力問題は、完全には解決していないのが、とても痛い。
一応、遠くを見るための小さな補助鏡は手に入れた。
手持ちの片眼鏡に近い道具だ。
いわゆる眼鏡に近い道具なのだが。
シルビアは人前ではあまり使いたがらない。
「淑女が人前で顔をしかめて物を見るなど、はしたないでしょう」
と言う。
いや、顔をしかめているのは、見えないまま頑張っている今である。
私は何度もそう思った。
しかし猫なので、説得には限界がある。
結果、シルビアは少し離れた相手を見ると、今でも目を細める。
そして周囲は今でも思う。
睨まれた、と。
さらに、緊張すると表情が固くなる癖も残っている。
普段から美形の圧があるのに、緊張が加わると完全に氷の女王である。
会話もだいぶ良くなった。
だが、心が揺れると古い言語バグが再発する。
善意が命令になる。
心配が叱責になる。
照れ隠しが高慢になる。
八年かけても、ポンコツは完全には直らなかった。
根が深い。
教育とは長期戦である。
そんなシルビアが、ついに学園へ入学する日が来た。
とても感慨深い。
……と、言いたいところだが、それどころではない。
星降る学院。
乙女ゲーム『星降る学院と運命の恋』の主な舞台。
王侯貴族の子女、特別な才を持つ平民、神殿から推薦された聖女候補などが通う、華やかで危険な場所。
危険。
そう、危険である。
ゲーム本編では、ここからシルビアの悪役令嬢ルートが本格的に始まる。
ヒロイン登場。
王太子との距離。
嫉妬。
取り巻き。
悪評。
嫌がらせイベント。
そして、断罪。
いよいよ物語の中心に入ってしまった。
私は、シルビアの馬車の座席で丸くなりながら、内心かなり焦っていた。
馬車の中には、シルビアと私だけがいる。
本来、猫を学院へ連れていくのはどうなのか。
当然、問題になった。
だが、シルビアは堂々と言い放った。
「ノワールは、わたくしの心の安定に必要です」
心の安定。
非常に正しい。
表情があまりにも真剣だったため、父グランベル公爵は少し黙ったあと許可した。
公爵夫人は微笑んだ。
「ノワールが一緒なら、少し安心ね」
レオンハルトは、すでに学院を卒業しているが、彼は私を見て、少しだけ笑った。
「シルビアを頼むぞ、ノワール」
私は鳴いた。
「にゃ」
任せろ。
公爵家では、猫への信頼がぶ厚い。
ここからの相手は学園イベントである。
難易度は跳ね上がる、気を引き締めねばならない。
馬車の窓から、星降る学院の門が見えてきた。
白い石造りの門。
両脇に立つ高い塔。
広い庭園。
奥には大きな校舎。
私はその景色を知っている。
画面越しに何度も見た。
ログイン画面。
イベント背景。
ヒロインが初めて学院に足を踏み入れる場面。
攻略対象たちとの出会い。
そして、シルビアの断罪イベントが起きる大広間。
背中の毛が、ぞわりと逆立った。
来てしまった。
本当に、ここまで来てしまった。
シルビアは窓の外を見つめている。
表情は落ち着いている。
いや、落ち着いているように見える。
だが、指先が少しだけドレスの布を握っていた。
緊張している。
私は彼女の膝に前足を置いた。
「にゃ」
大丈夫だ。
たぶん。
シルビアは私を見る。
十五歳になった彼女は、七歳の頃よりずっと大人びていた。
けれど、近い距離で見ると、昔と同じ顔をすることがある。
不安を隠しきれない、少しだけ幼い目。
「ええ。大丈夫ですわ」
シルビアは自分に言い聞かせるように言った。
「わたくしは、グランベル公爵家の娘ですもの」
出た。
自分を支える呪文。
八年経っても、彼女は不安になるとこの言葉を使う。
私はしっぽを揺らした。
その呪文で立てるなら、今はそれでいい。
ただし、無理はしすぎるな。
馬車が止まった。
扉が開く。
シルビアは背筋を伸ばし、ゆっくり降りた。
その姿に、周囲の視線が一斉に集まる。
無理もない。
公爵家の長女であり、王太子の婚約者。
美しく、気高く、隙のない令嬢。
それが、外から見たシルビア・グランベルだ。
新入生たちが小さくざわめく。
「あの方がグランベル公爵令嬢……」
「王太子殿下の婚約者でしょう?」
「すごい迫力……」
「綺麗だけど、少し怖いわね」
怖い。
やはり言われている。
私はシルビアの足元で耳を伏せた。
シルビアは聞こえていないふりをしているが、たぶん聞こえている。
この子は、聞こえていないふりがうまくなっただけだ。
そこへ、よく知った声がした。
「シルビア嬢」
アレクシス王太子だった。
十五歳になったアレクシスは、攻略対象らしく成長していた。
金の髪。
青い瞳。
整った顔。
穏やかな笑み。
顔はいい。
非常にいい。
成長して、顔面偏差値はさらに上がった。
ついでに、八年の教育により、人の顔色もだいぶ見られるようになった。
だが完全ではない。
私からすれば、まだたまに足りない。
とはいえ、少なくとも七歳の頃よりは、シルビアを見ようとしている。
アレクシスはシルビアの前で足を止めた。
「入学おめでとう」
シルビアは完璧な礼を返す。
「殿下も、おめでとうございます」
声は落ち着いている。
だが、少し硬い。
アレクシスはそれに気づいたのか、柔らかく微笑んだ。
「ノワールも一緒なんだね」
「ええ。ノワールは、わたくしの……」
シルビアは言いかけて、一瞬止まる。
私は足元から見上げた。
わたくしの猫ですもの、ではないぞ。
シルビアは少しだけ頬を赤くして言い直した。
「大切な家族のようなものですから」
よし。
大変よし。
私は満足して彼女の足元にすり寄った。
アレクシスは少し嬉しそうに笑った。
「相変わらず仲がいいね」
「当然……」
私は見上げる。
「……ええ」
シルビアはぎりぎり修正した。
危ない。
学院初日から油断ならない。
アレクシスは私を見て、小さく笑った。
「ノワールも相変わらずだ」
「にゃ」
そちらもな。
王太子。
観察力はまだ監視対象である。
そのとき、周囲のざわめきが少し変わった。
私は耳を立てる。
学院の門の方から、一人の少女が歩いてきていた。
質素だが清潔な制服。
明るい栗色の髪。
大きな琥珀色の瞳。
緊張した様子で、けれどまっすぐ前を見ている。
周囲の貴族令嬢たちとは少し違う雰囲気。
華やかさではなく、素朴さ。
気品ではなく、素直さ。
守られて育った貴族の子どもではなく、自分の足でここまで来た少女の強さ。
私は固まった。
知っている。
彼女を知っている。
乙女ゲーム『星降る学院と運命の恋』の主人公。
平民出身の聖女候補。
リーナ。
運命のヒロインが、そこにいた。
来た。
ついに来た。
ゲームでは、ここからシルビアのヒロインいじめが始まる。
最初は小さなすれ違い。
次に、周囲の噂。
ドレス破り事件。
階段での転落未遂。
悪評。
王太子たちの不信。
そして、断罪。
私は全身の毛が逆立つのを感じた。
まずい。
非常にまずい。
リーナ本人は、ゲームで見る限り悪い子ではない。
むしろ素直で優しい主人公だった。
だからこそ危険なのだ。
良い子であるがゆえに、周囲は彼女を守ろうとする。
シルビアのきつい言葉は、より悪く見える。
そのため誤解が一気に広がるだろう。
ここからは、屋敷の中とは違う。
使用人たちのように、シルビアの変化を長く見てきた人間ばかりではない。
学院には、シルビアの噂だけを知っている者もいる。
クラリスのように、柔らかい毒を混ぜる者もいるかもしれない。
私はシルビアを見る。
シルビアも、リーナに気づいたようだった。
いや、正確には、周囲のざわめきに気づいて視線を向けた。
少し離れている。
当然、目を細める。
睨んでいるように見える。
リーナはその視線に気づいた。
びくりと肩を揺らす。
まずい。
初手から誤解。
私はすぐにシルビアの足元で鳴いた。
「にゃ」
見るな。
いや、見るなら柔らかく見ろ。
目を細めるな。
シルビアは私を一瞬見下ろした。
だが、周囲の令嬢たちの声が聞こえた。
「あの方、聖女候補の……」
「平民出身だとか」
「本当に学院に入るのね」
「王太子殿下もご存じなのかしら」
王太子。
その言葉に、シルビアの表情が少し硬くなった。
リーナは緊張しながらも、案内役の教師に従ってこちらへ近づいてくる。
アレクシスもリーナに気づいた。
「ああ、彼女が神殿推薦の聖女候補だね」
何気ない言葉だった。
だが、シルビアの指先がかすかに動いた。
八年前、王太子が聖女候補の話をしたときの小さな痛み。
私はそれを覚えている。
シルビアも、きっと覚えている。
本人は忘れたふりをしているだけだ。
リーナが近くまで来た。
教師が簡単に紹介する。
「こちらが、神殿より推薦を受けて入学されたリーナ嬢です」
リーナは緊張しながら頭を下げた。
「リーナと申します。よろしくお願いいたします」
声は少し震えているが、きちんとしている。
良い子だ。
私はそう思った。
だからこそ、絶対に敵にしてはいけない。
シルビア。
ここだ。
最初が肝心だ。
優しく。
普通に。
できれば笑顔で。
無理ならせめて、怖くない声で。
お願い!
シルビアはリーナを見た。
目を細めて。
表情を固くして。
口元をきゅっと結んで。
……終わった。
私は内心で頭を抱えた。
シルビアは一歩前に出る。
周囲の視線が集まる。
王太子も見ている。
貴族令嬢たちも見ている。
教師も見ている。
リーナは緊張している。
シルビアは口を開いた。
「あなたが噂の聖女候補ですの?」
声が硬い。
高圧的に聞こえる。
リーナの肩が小さく跳ねた。
「は、はい」
シルビアは続ける。
「ずいぶん頼りなさそうですわね」
私は固まった。
出た。
最悪に近い第一声。
違う。
違うのだ。
たぶんシルビアは、リーナが緊張して顔色が悪いことを心配した。
慣れない場所で不安そうだから、大丈夫かと気にした。
だが、口から出たのは。
ずいぶん頼りなさそうですわね。
悪役令嬢ポイント、爆加算。
周囲がざわめいた。
リーナの顔色がさらに悪くなる。
アレクシスも、少し驚いたようにシルビアを見た。
まずい。
非常にまずい。
学院初日。
ヒロインとの初対面。
王太子の前。
貴族たちの前。
ここで悪役令嬢ムーブを決めるな!
私は即座にシルビアの足に飛びついた。
噛むほどではない。
まだ噛むほどではない。
だが、前足で強く叩いた。少し爪を出して。
「にゃっ!」
「いたっ」
シルビアがはっと私を見る。
私はじっと見上げた。
言い直せ。
今すぐ。
今ならまだ間に合う。
シルビアは唇を引き結ぶ。
周囲の視線。
王太子の視線。
リーナの怯えた顔。
そのすべてを受けて、シルビアの表情がさらに硬くなる。
まずい。
緊張で固まっている。
私はもう一度鳴いた。
「にゃあ」
シルビア。
頑張れ。
八年間やってきただろう。
ありがとうも、ごめんなさいも、お願いも。
できる。
あなたは悪役令嬢じゃない。
シルビアは深く息を吸った。
そして、リーナを見た。
「……顔色が悪いですわ」
お、軌道修正した。
声はまだ硬い、表情も怖い。
が、意味は少し伝わる。
「慣れない場所で倒れられては困ります。無理をするくらいなら、早めに休むことです」
また困ります。
だが、内容は心配である。
リーナは戸惑ったように目を瞬いた。
「え……」
シルビアは顔をそむけた。
「それだけですわ」
惜しい。
非常に惜しい。
でも、最初の発言だけで終わるよりはましだ。
アレクシスも、少しだけ表情を和らげた。
彼は、最近ようやくシルビア語を少し理解し始めている。
頼む。
王太子。
ここで誤解するな。
アレクシスはリーナに向き直った。
「シルビア嬢は、君の体調を気にしているんだと思う」
私は耳を立てた。
おお、言った。
王太子が通訳した。
観察力、成長。
リーナは驚いたようにアレクシスを見たあと、もう一度シルビアを見た。
「そう、なのですか?」
シルビアは真っ赤になった。
「そ、そこまで心配しているわけではありませんわ!」
なぜ否定する。
心配しているだろう。
しかしリーナは、少しだけ緊張を解いたようだった。
「ありがとうございます。少し、緊張していて」
シルビアは言葉に詰まる。
ここだ。
返せ。
優しく。
シルビアは一瞬、私を見る。
私はうなずく気持ちで鳴いた。
「にゃ」
シルビアは視線を戻す。
「……初日から堂々とできる者ばかりではありませんもの。仕方ありませんわ」
言い方は少し上から。
だが、内容は悪くない。
リーナはぽかんとしたあと、小さく笑った。
「はい」
初対面としては、ギリギリ。
かなりギリギリ。
だが、完全な敵対にはならなかった。
私は心の底から息を吐いた。
危なかった……。
その後、教師が新入生たちを案内し、リーナもそちらへ向かった。
去り際、リーナは一度だけこちらを振り返った。
その視線は、シルビアではなく、私に向いていた。
黒猫がシルビアの足に飛びつき、鳴いた場面を覚えているのだろう。
リーナは不思議そうに、少しだけ首をかしげた。
まあ、普通はそうなるよな。
学院に猫がいるんだもん。
運命のヒロイン。
あなたは敵ではない。
少なくとも、私はそうしたくない。
シルビアのそばに立つべき人になってほしい。
敵ではなく、友達に。
リーナが去ったあと、シルビアは小さく息を吐いた。
アレクシスが苦笑する。
「少し、驚かせてしまったかもしれないね」
シルビアはむっとした顔をした。
「わたくしは、ただ事実を申し上げただけです」
私は見上げた。
シルビアは言葉を止める。
そして、少しだけ小さな声で言った。
「……言い方が、よくなかったことは分かっていますわ」
お、自己認識あり。
これは大きい。
アレクシスも少し驚いたあと、柔らかく笑った。
「うん。でも、言い直していた」
シルビアの頬が赤くなる。
「ノワールがうるさかったので」
「ノワールは今日も優秀だね」
「当然ですわ。ノワールは……」
シルビアは私を見る。
私は見返す。
彼女は少しだけ笑った。
「……とても賢い猫ですもの」
よし。
私は満足した。
尻尾が揺れる。
だが、安心はできない。
リーナが登場した。
これで本来のシナリオは本格的に動き出す。
そして、シルビアの最初の一言は、やはり危険レベルだった。
このままでは、少しのすれ違いで簡単に悪役令嬢ルートへ戻ってしまう。
私は学院の門を見上げた。
ここからが本番だ。
屋敷の中で積み重ねてきた改善が、どこまで通じるか。
王太子がどこまでシルビアを見てくれるか。
リーナがシルビアの本心に気づけるか。
そして、クラリスやマリナのような者たちが、どう動くか。
課題は山積みである。
私はしっぽを立て、前を見据えた。
黒猫式・悪役令嬢改造計画、学園編。
第一目標。
リーナとの対立イベントを、絶対に潰す。
必要なら、ドレスにも飛びつく。
靴ひもも狙う。
机の上の証拠品も落としてやる。
私は猫である。
猫にできることは少ない。
だが、ヒロインいじめイベントをひっかき回すことくらいなら、十分できる。
断罪エンドまで、あと二年。
ここから先は、一つの失敗が命取りになる。




