第14話 王太子、違和感を覚える
完結確定。
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シルビア・グランベルの評判が、屋敷の中で少しずつ変わり始めている。
ほんの少しだけだ。
使用人たちが急にシルビアを慕うようになったとか、屋敷中が「お嬢様は天使です」と言い出したとか、そういう分かりやすい変化ではない。
相変わらず、シルビアは怖がられている。
こんなに天使なのに。
そして今日も相変わらずの悪役令嬢予備軍ぶりが発揮されている。
「そこをどきなさい」と言えば、廊下の使用人は即座に道を開ける。
「何をしているのです」と言えば、見習いの少年は背筋を伸ばす。
通常運転である。
悪役令嬢ポイントは、今日も順調に加算されている。
しかし、以前とは少し違う。
シルビアが強い言い方をすると、使用人たちはまず身構える。
けれど、そのあとに少し待つようになったのだ。
お嬢様は、本当は何を言いたいのだろう。
そう考える間が生まれ始めた。
これは大きい。
たとえば、朝の廊下でのこと。
下働きの少女が、洗濯物の籠を重そうに抱えて歩いていた。
シルビアはそれを見て足を止める。
お決まりの目を細める、眉間にしわ。
そして圧、のワンセット。
当然少女はびくりとしたが、すぐには逃げなかった。
シルビアは言った。
「その持ち方では、また落としますわ」
また。
言い方が強い。
悪役令嬢ポイント、三点加算。
少女の肩が跳ねる。
私はシルビアの足元で短く鳴いた。
「にゃ」
言い直せ。
シルビアは一瞬だけ私を見る。
そして、視線をそらしながら続けた。
「……半分、こちらへ寄こしなさい。医務室の前までなら、わたくしも通ります」
手伝うつもりだ。
相変わらず命令形ではあるが、意味は分かる。
少女は目を丸くしたあと、少しだけ笑った。
「ありがとうございます、お嬢様」
シルビアの頬が赤くなる。
「お礼など……」
私は足元から見上げた。
シルビアは言葉を止めた。
えらい。
そして、小さく言い直す。
「……どういたしまして」
少女は、今度こそ嬉しそうに笑った。
私は満足して、しっぽを揺らしながら二人の前を鼻歌交じりで歩いた。
鼻息が荒くなっただけだけど。
こういうことが、少しずつ増えている。
シルビアはまだ不器用だ。
すぐ強い言い方をするし、すぐ照れる。
すぐお決まりの「当然ですわ」に逃げようとする。
だが、逃げ切る前に止まれるようになってきた。
そして、周囲もそれを見ている。
エマはすでに、シルビアの言葉をかなり正しく受け取れるようになってきた。
医務室の少女も、シルビアを怖がるだけではなくなった。
指を治してもらった少年など、廊下でシルビアを見ると、ぎこちないながらも自分から頭を下げるようになった。
屋敷内の評価が、じわじわ変わっている。
悪役令嬢の完成を阻止するには、こういう地味な積み重ねが大事なのだ。
私は黒猫ノワール。
地味な改善活動もできる猫である。
ただし、安心はできない。
灰色の侍女。
彼女はまだ屋敷にいる。
名は、マリナというらしい。
エマたちの会話から拾った。
マリナ。
二年ほど前からグランベル公爵家で働いている侍女。
仕事はできるし表向きは穏やか。
しかし、噂話の近くにいつもいる。
そして、先日彼女は私に言った。
お嬢様が変わられたのは、あなたのせいかしら。
困る人も、いるでしょうね、と。
あれは聞き流していい言葉ではない。
困る人。
つまり、シルビアが悪役令嬢のままでいてほしい人間がいる。
屋敷の中か。
屋敷の外か。
あるいは、その両方か。
まだ分からない。
だが、ひとつ確かなことがある。
シルビアが変われば、それを面白く思わない者も必ず動く。
そんな中、王太子アレクシスが再び屋敷を訪れた。
理由は、借りた本の感想を伝えるため。
表向きにはそういうことになっている。
私はテラスの椅子の下で、じっと王太子を観察していた。
アレクシスは、前よりも少し自然にシルビアと向き合うようになっていた。
まだぎこちなさはあるし、シルビアの強い言葉に少し身構えることもある。
目を細められると、やはり少し緊張する。
だが、以前ほどすぐに「怖い」と決めつけなくなった。
これは進歩である。
王太子再教育計画、じわじわ成果あり。
今日のシルビアは、淡い藤色のドレスを着ていた。
髪飾りは小さな白い花。
エマが選んだらしい。
シルビアは最初、「少し子どもっぽくありませんこと」と言っていたが、エマが「お嬢様によくお似合いです」と言うと、最終的に採用した。
なお、そのときのシルビアの返答は。
「そ、そう。あなたがそこまで言うなら、つけてあげてもよろしいですわ」
だった。
悪役令嬢ポイント、三点加算。
しかし耳が赤かったので、実質減点である。
アレクシスはシルビアを見ると、一瞬だけ目を丸くした。
「今日の髪飾り、よく似合っているね」
お、王太子、褒めた。
シルビアは固まった。完全に固まった。
褒め言葉への耐性が低すぎる。
私は椅子の下から、じっと見上げる。
ありがとう。
言え。
ここはありがとうだ。
シルビアは口を開いた。
「当然――」
私は低く鳴いた。
「にゃ」
シルビアはぴたりと止まる。
アレクシスはその様子を見て、少しだけ笑った。
最近、彼は私の鳴き声を「会話の修正音」として認識し始めている。
かなり良い傾向だ。
シルビアは顔を赤くしながら、言い直した。
「……お褒めいただき、ありがとうございます」
アレクシスは嬉しそうに微笑んだ。
「うん」
よし。
良い入りである。
テラスのお茶会は、以前よりずっと穏やかに始まった。
アレクシスは本を読んできたらしい。
分からなかったところにしおりを挟み、いくつか質問を用意していた。
真面目である。
シルビアも、それを見て少し目を輝かせた。
自分が貸した本をちゃんと読んでくれたことが嬉しいのだろう。
だが、言葉は相変わらず危ない。
「この部分でつまずかれましたの? 基礎の基礎ですわ」
私は即座にアレクシスの靴ひもを押さえた。
今日は引っ張るまではしない。
警告である。
アレクシスは足元を見て、少し笑った。
「今のは、言い方が少し怖かったかな」
おお、王太子、成長している。
シルビアはむっとした顔をする。
「怖くなどありませんわ。ただ事実を申し上げただけです」
「でも、ノワールが止めたよ」
アレクシスは私を見た。
私は短く鳴いた。
「にゃ」
止めました。
シルビアは唇を尖らせた。
だが、すぐに小さく息を吐く。
「……ここは、最初に覚えるところなので、もう一度読み返せば分かると思いますわ」
よし。
良い。
アレクシスも素直にうなずく。
「ありがとう。そうする」
会話が成立している。
私は感動した。
以前なら、ここで王太子が少し傷つき、シルビアがさらに強がり、空気が冷え、私が靴ひもを全力でほどく流れだった。
今日は違う。
アレクシスが気づき、シルビアが言い直す。
そして会話が続く。
小さいことだが、大きな変化である。
お茶会の途中、エマが焼き菓子を運んできた。
白い皿に、小さな蜂蜜菓子が並んでいる。
シルビアはそれを見て、少しだけ表情を緩めた。
好きなお菓子なのだろう。
エマがそっと皿を置く。
「お嬢様のお好きなものを、ご用意いたしました」
シルビアは一瞬、アレクシスを見た。
それから、少し緊張した声で言う。
「……ありがとう、エマ」
聞こえる声だった。
小さいけれど、ちゃんと。
エマは嬉しそうに微笑む。
「はい、お嬢様」
アレクシスが、その場面を見ていた。
目を少し丸くしている。
シルビアは気づいていない。
いや、気づいたらまた真っ赤になって「当然のことですわ」と言い出す可能性があるので、むしろ気づいてくれるな。
アレクシスはエマが下がったあと、少しだけ考え込むような顔をした。
そして、ぽつりと言う。
「前より、使用人たちが怖がっていない気がする」
シルビアの手が止まった。
私はアレクシスを見た。
気づいたか。
ようやく。
かなり遅いが、気づいた。
シルビアは表情を硬くする。
「それは、どういう意味ですの」
声が冷える。
まずい。
今のシルビアには、「以前は怖がられていた」という部分が刺さった。
アレクシスもそれに気づき、少し慌てる。
「悪い意味じゃないんだ。ただ、前に来たときより、みんなの表情が柔らかいと思って」
よし。
言い直した。
王太子も学習している。
私は靴ひもから前足を離した。
ただし、油断はしない。
この少年は、良いことを言った三秒後に地雷を踏む可能性がある。
アレクシスは続ける。
「シルビア嬢が、変わろうとしているからなのかな」
シルビアは何も言わなかった。
ただ、カップを持つ指先に力が入る。
「わたくしは……」
彼女は少し言葉を探した。
「別に、変わろうとしているわけではありませんわ」
嘘である。
めちゃくちゃ変わろうとしている。
ありがとうを言う練習もしている。
ごめんなさいも覚えている。
高笑いも、目下封印中。
命令形も少しずつ減らしている。
しかし、シルビアの中では、たぶんまだ「変わる」と言えるほどの自信がないのだ。
アレクシスはシルビアを見つめた。
そして、前より少しだけ柔らかい声で言う。
「でも、前より話しやすい」
シルビアの顔が赤くなった。
私はしっぽを揺らした。
いいぞ。
王太子、今日かなりいい。
「ノワールが止めてくれるから、というのもあるけれど」
余計な一言。
いや、事実ではある。
シルビアが私を見下ろした。
「ノワール、やはりあなた、殿下と結託していませんこと?」
「にゃ」
していません。
単独犯です。
アレクシスが小さく笑った。
シルビアも、ほんの少しだけ口元をゆるめた。
自然な笑みだった。
私は息を止めた。
出た。
破壊力のある笑顔。
普段の固い表情とは違う、年相応の柔らかい笑み。
アレクシスも、それを見た。
彼は一瞬、言葉を失ったように黙った。
シルビアはスンっと表情を戻したが、遅い。
見られた。
王太子に、見られた。
アレクシスは少しだけ頬を赤くし、視線をそらした。
おお。
これはこれは。
まだ七歳なので恋愛的な何かとまでは言わないが、シルビアへの印象に、小さくない揺らぎが生まれたのは確かだ。
怖いだけではない。
高慢なだけではない。
笑うと、こんな顔をする。
その情報が、アレクシスの中に入った。
私は心の中でうなずいた。
良い。
非常に良い。
これで少しは王太子の観察力が育つだろう。
お茶会は穏やかに終わった。
アレクシスは帰り際、シルビアに礼を言った。
「今日もありがとう。次は、僕が読んで分かったところを話すね」
シルビアは少しだけ迷ったあと、うなずいた。
「……楽しみにしています」
言えた。
今回は余計な言い訳がつかなかった。
私は感動した。
アレクシスも、嬉しそうに笑った。
「うん」
馬車が去っていく。
シルビアはその後ろ姿を、以前より少しだけ長く見送っていた。
その横顔に、前のような寂しさは少ない。
今日は戸惑い、期待。
そして、ほんの少しの嬉しさ。
ふたをしたはずの小さな恋心が、まだ中で息をしている。
私は足元から見上げた。
よし。
王太子再教育計画、順調。
シルビア情緒保護計画も、少し進んだ。
だが、その日の夕方。
穏やかな空気を切るように、来客の知らせが届いた。
「ローヴェル伯爵家のクラリス様がお見えです」
執事の声を聞いた瞬間、私は耳を立てた。
クラリス。
その名前には覚えがあった。
ゲーム本編では、直接大きく出てきた記憶は薄い。
だが、シルビアの周辺人物として名前はあった。
グランベル公爵家の親族で分家筋の伯爵令嬢。
社交界で評判の良い少女。
そして、たしか。
シルビアの悪評が広がる場面で、さりげなく名前が出ていたような気がする。
私はシルビアの足元で身構えた。
玄関ホールに現れたのは、シルビアと同じ歳の少女だった。
淡い栗色の髪。
柔らかな薄緑の瞳。
控えめな色のドレス。
表情は穏やかで、見るからに優しそう。
彼女はシルビアを見つけると、ぱっと微笑んだ。
「ごきげんよう、シルビア様」
声も柔らかい。
礼も完璧。
シルビアよりずっと親しみやすく見える。
これがクラリス・ローヴェル。
シルビアの従姉妹。
シルビアは背筋を伸ばし、いつもの公爵令嬢の顔で応じた。
「ごきげんよう、クラリス」
クラリスは少しだけ目を細める。
その視線が、一瞬、私へ落ちた。
「まあ。噂の黒猫さんですのね」
噂。
私はその単語に反応した。
クラリスはにこりと笑う。
「お名前は、ノワールでしたかしら。シルビア様にとてもお似合いですわ」
声は優しい。
だが、私は警戒を解かなかった。
シルビアに似合う黒猫。
それ自体は褒め言葉に聞こえる。
だが、言い方によっては「黒猫を連れた悪役令嬢」という印象を補強する言葉でもある。
シルビアは気づいていない。
「ええ。ノワールはわたくしの猫ですわ」
いつもの誇らしげな声。
私はシルビアの足元に寄る。
クラリスは微笑んだまま、言った。
「最近、シルビア様はずいぶんお変わりになったと伺いました」
屋敷の空気が、わずかに揺れた。
私はクラリスを見上げる。
その笑みは柔らかい。
だが、目の奥が読めない。
「使用人の方々にも、よくお声をかけていらっしゃるとか。お優しいのですね」
褒めている。
表面上は。
しかし、シルビアの表情が少し硬くなった。
使用人に声をかけている、優しい。
それは、シルビアが慣れていない言葉だ。
クラリスはさらに続ける。
「前からシルビア様は、少し誤解されやすいところがありましたものね」
私は耳を伏せた。
来た。
これは危険だ。
優しい口調。
心配するような表情。
だが、言葉の中に毒がある。
少し誤解されやすい。
つまり、以前から周囲に怖がられていた、と暗に言っている。
シルビアをフォローしているようで、悪評の土台を補強している。
クラリスは柔らかく微笑む。
「でも、わたくしは知っていますわ。シルビア様は、本当はとてもお優しい方だと」
完璧なフォローに聞こえる。
だが、私はぞわりとした。
本当は優しい。
この言葉は、使い方によってはとても危ない。
本当は、という言葉は、裏を返せば「表面上はそう見えない」と言っているのと同じだ。
シルビアの肩が少しこわばった。
本人にも、うまく言えない違和感があるのかもしれない。
私はクラリスをじっと見た。
この少女、危険。
灰色の侍女マリナとは違う。
もっと表に出て、もっと柔らかく、もっと安全そうに見える。
だが、言葉の選び方が上手すぎる。
本当にシルビアと同じ歳なのか?
シルビアを直接悪く言わない。
むしろ褒める。
けれど、その褒め言葉の中に、「誤解されやすい」「本当は優しい」を混ぜてくる。
守っているようで、確実に悪評への違和感を残している。
クラリスは、私の視線に気づいたのか、ふっとこちらを見た。
薄緑の瞳が、ほんの一瞬だけ細くなる。
笑っている。
しかし、目の奥は冷たい。
私は静かにしっぽを揺らした。
黒猫警戒レベル、上昇。
クラリス・ローヴェル。
危険人物候補として登録。
シルビアは黙ったまま少し困ったような顔をしている。
私はシルビアの足に体をすり寄せた。
「にゃ」
大丈夫。
飲まれるな。
シルビアは私を見下ろす。
その表情が少しだけ緩む。
「ノワール」
クラリスはその様子を見て、微笑みを深めた。
「本当に、シルビア様に懐いているのですね」
そして、小さく付け加える。
「まるで、シルビア様のことを守っているみたい」
私はクラリスを見返した。
その通りである。
守っている。
あなたのような、柔らかい毒を持つ相手からも。
この日、私ははっきり理解した。
シルビアを悪役令嬢にするものは、本人の言葉や態度だけではない。
周囲の誤解、噂、悪意。
そして、善意の顔をした毒。
クラリス・ローヴェル。
この従姉妹は、ただの親戚ではない。
私は黒猫ノワール。
悪役令嬢断罪エンド回避担当。
新たな敵は、笑顔で現れた。




