第13話 悪役令嬢、ありがとうに挑む
完結確定。
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シルビア・グランベルは、少しずつ変わっている。
これは、黒猫である私が胸を張って保証する。
以前のシルビアなら、何かをしてもらったとき、口から出る言葉は決まっていた。
「当然ですわ」
あるいは。
「その程度、できて当たり前でしょう」
または。
「礼を言われるほどのことではありません」
違う。
礼を言うのは、あなたの方である。
何度そう思ったか分からない。
けれど最近、シルビアは少しずつ「ありがとう」を覚え始めた。
最初は、私が足を噛んだ。
エマに新しいインクを用意してもらったとき、シルビアは「当然ですわ」と言いかけたので、そこで足首にかぷりと。
必要措置である。
その結果、シルビアは顔を真っ赤にしながらも、小さく言えた。
「……ありがとう、エマ」
あれは大きな一歩だった。
その後も、私は地道な教育を続けている。
言い方がよければ、すり寄る。
悪役っぽければ、背を向ける。
危険な発言が出そうになれば、鳴く。
どうしても止まらなければ、噛む。
猫にできる教育としては、かなり高度である。
そして、シルビアは賢い。
私の反応と自分の言葉を、少しずつ結びつけ始めている。
たとえば、侍女が髪飾りを直してくれたとき。
「……直してくれて、ありがとう」
と、小さく言えるようになった。
だがそのあと必ず。
「で、でも、次は最初からずれないようにしなさい」
と余計な一言がつく。
悪役令嬢ポイント、微加算。
しかし、ありがとうが出るだけ大きな進歩だ。
また、庭師が季節の花を整えたとき。
「……綺麗に整えましたのね」
まで来た。
ありがとうではない。
だが、褒め言葉にはなっている。
進歩である。
問題は、シルビアの「ありがとう」がまだ非常に小さいことだ。
……ほとんど聞こえない。
本人も照れてすぐ顔をそむけるし。
言われた相手は「今、何かおっしゃった?」という顔をする。
結果、シルビアがせっかく頑張っても、ほぼ周囲に伝わりきらない。
悪役令嬢ポイントを下げるには、本人の変化を周囲に認識してもらう必要がある。
つまり、次の課題はこう。
人前で、聞こえる声で、ありがとうを言う。
難易度が高い。
そんなある日の午後。
絶好の機会がやって来た。
屋敷の大広間で、ちょっとした準備が行われていた。
数日後、グランベル公爵家に親戚筋の客人が来るらしい。
そのため、使用人たちは花瓶や絨毯、カーテンの配置を整えている。
シルビアも、母である公爵夫人に連れられて大広間へ来ていた。
「シルビア。客人を迎える場所を見ることも、公爵家の娘として大切な勉強ですよ」
「はい、お母様」
シルビアは真剣にうなずいた。
私はその足元にいる。
大広間には使用人が多い。
エマの姿もある。
医務室に荷物を運んでいた少女もいた。
以前、シルビアに治癒魔法で指を治してもらった少年もいる。
そして、少し離れた廊下の柱の陰には、灰色のスカートの侍女。
私は耳を動かした。
やはりいる。
シルビアの周囲で人が集まる場所には、だいたい彼女がいる。
ならば、なおさら好都合だ。
シルビアが人前で「ありがとう」を言えれば、灰色の侍女がどう切り取ろうとしても、見ている人間が多い。
噂を悪い方向へ曲げにくくなる。
私は静かにしっぽを揺らした。
これは好機である。
大広間の中央では、数人の使用人が大きな花瓶を運んでいた。
白い陶器の花瓶で、子どもの背丈ほどもある。
そこに季節の花を生けるらしい。
使用人たちは慎重に動いている。
その中に、エマもいた。
彼女は花瓶そのものではなく、花を入れた籠を運んでいる。
籠には白い花と淡い青の花がたっぷり入っていた。
おそらく、シルビアの今日のドレスに合わせた色だろう。
シルビアはそれを見て、少し目を細めた。
……見ようとしているだけである。
だが、使用人たちが一瞬身構えた。
まだまだ表情問題は根深い。
公爵夫人が穏やかに言う。
「シルビア、どう思いますか?」
シルビアは広間を見渡した。
目を細める、眉間にしわ、美形の圧。
使用人たちの背筋が一瞬で伸びる。
「……花の色は、悪くありませんわ」
悪くありませんわ。
褒め言葉である。
シルビア基準ではかなり褒めている。
だが、相変わらず伝わりにくい。
公爵夫人は慣れているのか、微笑んだ。
「そう。では、この配置でよさそうね」
そのときだった。
エマが花の籠を持って移動しようとした瞬間、床に仮置きされていた布の端に足を引っかけた。
「あっ」
籠が大きく傾く。
花が落ちる。
その先には、先ほど運ばれてきた大きな花瓶。
花が散るだけならまだいい。
だが、エマが体勢を崩したまま花瓶にぶつかれば、花瓶も倒れる。
大惨事である。
使用人たちが息をのむ。
シルビアが動いた。
反応は早かった。
彼女はすぐに駆け寄り、エマの腕をつかんだ。
「危ないですわ!」
シルビアの小さな手が、エマを支える。
同時に、私は床を蹴った。
落ちかけた花の籠へ飛びつく。
さすがに籠を支えることはできない、猫なので。
だが、私は籠の端に体をぶつけ、落ちる向きをずらした。
籠は花瓶ではなく、床の空いた場所へ倒れる。
白と青の花が床に散らばる。
花瓶は無事。
エマも転ばなかった。
シルビアはエマの腕をつかんだまま、ほっと息を吐いた。
そして。
「何をしているのですか!」
出た。
心配が怒声になる現象。
大広間の空気が凍る。
エマは青ざめた。
「も、申し訳ございません、お嬢様!」
シルビアは眉を寄せている。
怖い。
本人はたぶん心配しているだけなんだが、完全に叱っている。
悪役令嬢ポイント、急上昇。
灰色の侍女が、柱の陰でかすかに目を細めた。
まずい。
このままでは、「エマが転びかけたところを、シルビアが叱りつけた」という噂になる。
違う、シルビアは助けたのだ。
私はすぐにシルビアの足元へ行き、短く鳴いた。
「にゃ」
違うだろう。
ここだ。
ここで言い直せ。
シルビアは私を見る。
まだエマの腕をつかんでいる。
エマは震えている。
大広間の使用人たちは、固唾をのんで見守っている。
公爵夫人も、少しだけ真剣な目でシルビアを見ていた。
ここで変われるか。
私はもう一度鳴いた。
「にゃ」
シルビアは唇を引き結んだ。
そして、エマの腕をそっと離す。
「……怪我は?」
小さな声だった。
だが、大広間は静かだったので、その声はよく通った。
エマが目を丸くする。
「え……」
「怪我はありませんの?」
今度は、もう少しはっきり。
エマは慌てて自分の腕や足を確認した。
「は、はい。ございません」
シルビアの肩から、ほんの少し力が抜けた。
「そう。なら、よろしいですわ」
いい。
かなりいい。
私は内心でうなずいた。
だが、ここで終わってはいけない。
エマを助けたし無事。
そして花瓶も守られた。
しかし、花は床に散らばっている。
使用人たちが動こうとした。
するとシルビアは、さっと視線を落とした。
「花が……」
シルビアは床に散らばった白い花を見た。
少しだけ残念そうな顔をする。
それから、膝を折った。
大広間がざわめく。
公爵令嬢が、自分で床の花を拾おうとしているのだ。
エマが慌てた。
「お嬢様! そのようなことは私どもが」
「わたくしが落としたわけではありませんけれど、ノワールが飛び込んだせいで散らばった花もありますわ」
私のせいにされた。
いや、半分合っている。
必要措置だったが、言い方というものがある。
シルビアは花を一輪拾い上げた。
「それに、花が踏まれたらかわいそうでしょう」
私は耳を立てた。
今の言葉。
とても良い。
花が踏まれたらかわいそう。
七歳の女の子らしい優しさが、そのまま出た。
大広間にいた使用人たちも、少し驚いたように見ている。
シルビアは自分が何を言ったか気づいたのか、すぐに顔を赤くした。
「……いえ。床が汚れるからですわ」
戻った。
照れ隠しで戻った。
しかし遅い。
今の「かわいそう」は聞こえていた。
エマが少しだけ笑った。
「はい。踏まれないように、すぐ拾いますね」
シルビアは顔をそむけた。
「そうなさい」
命令形。
だが、今のは許容範囲だ。
エマと数人の使用人が花を拾い始める。
シルビアも一輪だけ拾ったまま立ち上がった。
その花は、茎が少し折れていた。
白い小さな花だった。
シルビアはそれを見つめる。
「これは、もう飾れませんわね」
少し寂しそうな声だった。
エマが申し訳なさそうに頭を下げる。
「申し訳ございません」
「あなたのせいだけではありませんわ」
お、私はシルビアを見る。
今のはいい。
シルビアは続けた。
「わたくしも、もう少し早く気づけばよかったのです」
大広間が静かになった。
使用人たちが、一斉にシルビアを見た。
公爵夫人も、少し驚いたように目を細める。
シルビアは、自分が注目されていることに気づき、さらに顔を赤くした。
「な、何ですの。皆でこちらを見て」
照れている。
完全に照れている。
かわいい。
今のは大きい。
シルビアが、自分にもできることがあったと認めた。
誰かを一方的に責めなかった。
悪役令嬢ポイント、大幅減点である。
私はシルビアの足元にすり寄った。
「にゃ」
よく言えた。
シルビアは私を見下ろす。
その顔には、少しだけ不安があった。
たぶん、今の言葉が正しかったのか分からないのだろう。
私はもう一度すり寄った。
「にゃ」
正解だ。
そのまま進め。
エマが花を拾い終え、シルビアの前に立った。
「お嬢様、助けてくださってありがとうございました」
来た。
私は耳を立てた。
ここだ。
ここである。
人前で、ありがとうを受け取れるか。
そして、必要なら自分からも言えるか。
シルビアは固まった。
大広間中の視線が集まっている。
使用人たち、公爵夫人、灰色の侍女。
全員が見ている。
シルビアの顔がみるみる赤くなっていく。
逃げたいのだろう。
分かる。
この子は、お礼を言われることにも慣れていない。
ましてや、人前で感謝を受け取るなど、かなり難しい。
いつものシルビアなら、こう言う。
当然ですわ。
あるいは。
あなたが転びそうだったから仕方なくです。
だが、それではだめだ。
私はシルビアの足に前足を置いた。
「にゃ」
大丈夫。
言え。
シルビアは私を見る。
それから、エマを見る。
唇が震える。
「と……」
と?
当然、ではないだろうな。
私は少しだけシャキンと、シルビアに見えるように、爪を出した。
シルビアがビクッとする。
「……当然、ではなくて」
おお。
自分で止めた。
シルビアはぎゅっと手を握った。
それから、エマへ向き直る。
「無事で、よかったですわ」
大広間が、ふっと息をのんだ。
エマの目が丸くなる。
シルビアはさらに顔を赤くした。
だが、逃げなかった。
「それと……花を、拾ってくれて」
言葉が途切れる。
頑張れ!!
あと少しだ。
「……ありがとう」
言った。
言ったーーーーー!
もちろん私は、内心で飛びあがりながらガッツポーズをした。
聞こえる声だった。
小さいけれど、ちゃんと大広間に届く声だった。
エマはしばらく固まっていたが、それからぱっと顔を輝かせた。
「はい、お嬢様!」
その声があまりにも嬉しそうだったので、シルビアは完全に真っ赤になった。
「そ、そんなに大きな声で返事をしなくてもよろしいですわ!」
悪役令嬢ポイント、微加算。
だが問題ない。
今の「ありがとう」で、すべて帳消しである。
使用人たちの間に、小さなどよめきが広がった。
「お嬢様が……」
「ありがとうって……」
「今、確かに……」
聞こえている。
見られている。
シルビアが人前で感謝を伝えたことが、ちゃんと共有されている。
これは大きい。
かなり大きい。
灰色の侍女は、柱の陰で表情を変えなかった。
だが、その指先がわずかに動いた。
面白くないのだろう。
今日の場面は悪評にしにくい。
エマを助け、怪我を確認し、自ら花を拾った。
そして人前で「ありがとう」と言った。
どこを切り取っても、完全な悪役にはしづらい状況だ。
私は心の中で勝利を確信した。
黒猫式・悪役令嬢改造計画。
大きく前進。
その後、公爵夫人がそっとシルビアに近づいた。
「シルビア」
「は、はい、お母様」
シルビアはまだ赤い顔のまま、背筋を伸ばす。
公爵夫人は優しく微笑んだ。
「とてもよくできましたね」
シルビアは固まった。
褒められた。
母に。
人前で。
顔がさらに赤くなる。
「こ、この程度、当然ですわ」
……戻った。
しかし、公爵夫人は気にしなかった。
むしろ、少し楽しそうに微笑む。
「そうね。でも、あなたの言葉で伝えられたことが、とても大切なのですよ」
シルビアは何も言えなくなった。
軽くドレスを両手で握り、少しだけうつむく。
その耳は真っ赤だった。
私は足元からその様子を見上げて、満足した。
いい。
今日はとてもいい。
そしてかわいい。
シルビアは、ちゃんと変われる。
本人も、周囲も、それを少しずつ分かり始めている。
大広間の片づけが再開された。
使用人たちの空気は、先ほどまでと少し違っていた。
まだ緊張はある。
まだシルビアを怖がっている者もいる。
けれど、そこに少しだけ、別の感情が混ざった。
驚きと戸惑い、そして、好意。
小さな変化だ。
だが、悪役令嬢への道を逸らすには、こういう小さな変化が必要なのだ。
シルビアは大広間を出ると、すぐに私を抱き上げた。
「ノワール」
「にゃ」
「あなた、さっき爪を出しましたわね」
目をそらす。
「にゃ」
気のせいです。
「気のせいではありませんわ。しっかり見えましたもの」
必要措置である。
シルビアはむっとした顔をしていたが、怒ってはいなかった。
むしろ、どこか落ち着かない様子だった。
「……わたくし、変ではありませんでしたかしら」
私はシルビアを見上げた。
変ではなかった。
とてもよかった。
あなたはちゃんと、自分の言葉で伝えられた。
私は彼女の胸元に頭をすり寄せた。
「にゃ」
シルビアの腕の力が、少しだけ抜ける。
「そう」
彼女は小さく息を吐いた。
「なら、よかったですわ」
その声は、とても小さかった。
けれど、少しだけ嬉しそうだった。
その日の夕方。
屋敷の中で噂が回っていた。
お嬢様が、エマを助けたらしい。
お嬢様が、花を拾ったらしい。
お嬢様が、ありがとうとおっしゃったらしい。
信じられない、と言う者もいた。
でも、見た者が多かった。
エマは嬉しそうに話した。
医務室の少女も「お嬢様は本当はお優しいのかも」と言った。
指を治してもらった少年は「治癒魔法もすごかった」と言った。
少しずつ。
本当に少しずつ。
シルビアの評判が、屋敷の中で揺れ始めている。
悪い方だけではなく。
良い方へも。
私は廊下の窓辺に座り、その噂を聞いていた。
すると、背後から静かな足音がした。
振り返る。
灰色の侍女がいた。
彼女は私を見下ろしている。
穏やかな顔、丁寧な所作。
けれど、やはり目は笑っていない。
「賢い猫ね」
彼女は小さく言った。
私はじっと彼女を見返した。
「お嬢様が変わられたのは、あなたのせいかしら」
声は柔らかい。
だが、その奥に冷たさがある。
私はしっぽをゆっくり揺らした。
灰色の侍女は、薄く笑う。
「困る人も、いるでしょうね」
そう言って、彼女は何事もなかったように歩き去った。
足音は静かで、廊下にほとんど残らなかった。
私はその後ろ姿を見つめた。
やはり。
シルビアが変わることを、面白く思わない人間がいる。
屋敷の中に。
あるいは、その外に。
私は静かに爪を出した。
シルビアは今日、初めて人前でありがとうを言えた。
この小さな一歩を、壊させるわけにはいかない。
悪役令嬢断罪エンド回避担当、黒猫ノワール。
次の任務は、もう決まっている。
灰色の侍女の正体を探ること。
そして、シルビアの変化を守ることだ。




