第11話 黒猫、ふたたび王太子の靴ひもを狙う
完結確定。
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王太子アレクシスの再教育は急務である。
私は、シルビアの部屋のクッションの上で、朝から深刻に考えていた。
昨夜、シルビアは言った。
殿下は、わたくしのことがお嫌いなのかしら。
そして、自分で結論を出してしまった。
婚約とは、そういうもの、殿下が自分を好きでなくても構わない、自分は立派な婚約者になる。
構わなくない。
まったく構わなくない。
あの声は、構わない人間の声ではない。
七歳の少女が、自分の気持ちにふたをする声だったから。
これは非常によくない。
断罪エンド回避という観点から見てもよくないが、シルビアの情緒保護という観点から見ても、かなりよくない。
そもそも、アレクシス王太子がもう少し観察力を持っていれば、こんなことにはなっていない。
シルビアは怖がらせたいわけではない。
見えていないから目を細めているだけだ。
緊張しているから表情が硬くなっているだけだ。
嬉しいのに、うまく言えないだけだ。
それを、王太子は見抜けない。
とは言え、同じ七歳の男の子にそれを望むのは少し酷だとは思うんだが。
しかし、観察力がないこのまま成長すれば、十年後には立派な断罪王子である。
しかも将来は国王だ。
困る。
非常に困る。
ならば、アレクシスにも少しずつシルビアの本質を見せるしかない。
そのためには、二人の接触回数を増やし、会話を増やし、誤解を減らす必要がある。
だが、ここで大きな問題がある。
二人とも会話が壊滅的に下手である。
シルビアは、緊張すると悪役令嬢化するし、アレクシスは、表面だけ見て誤解する。
結果、会話はすぐに凍る。
では、どうするか。
私が介入する。
猫として。
具体的には、靴ひもである。
なぜ靴ひもなのか。
前回のお茶会で、私がアレクシスの靴ひもにじゃれたとき、会話の炎上は中断された。
空気も少し和らいだし、アレクシスも笑った。
つまり、靴ひもには無限の可能性があると言うことだ。
少なくとも、シルビアの言葉が危険な方向へ向かったとき、会話を強制的に止めることができる。
私は自分の前足を見た。
爪、肉球、小さな前足。
これで国家の未来を救うのか。
荷が重すぎないか?
だが、やるしかない。
それから数日後、再び機会が訪れた。
アレクシス王太子が、先日シルビアが貸すと約束した魔法理論の本を受け取りに来ることになったのだ。
早い。
思ったより早い。
もしかすると、王太子も王太子なりに、シルビアとの関係をどうにかしようとしているのかもしれない。
そうなら、まだ希望はある。
ただし、彼の観察力は信用できない。
私は朝から警戒態勢に入った。
シルビアも、やはり落ち着かない様子だ。
前回ほどではないが、いつもより姿勢が硬い。
本棚から魔法理論の本を選ぶときも、三冊も並べて迷っている。
「ノワール」
「にゃ」
「どの本がよいと思います?」
猫に聞くな。
いや、元人間なので多少は判断できるが、この世界の魔法理論の難易度までは分からない。
そもそも魔法が使えないし。
私は机の上に並べられた本を見る。
一冊目、分厚すぎる。
タイトルからして専門書で、七歳の王太子に貸すものではないだろう。
二冊目、装丁が豪華すぎる。
おそらく公爵家の蔵書として価値があるものだろう、貸し出すには危険。
三冊目、ほどほどの厚さ。
図解もあるり表紙も落ち着いている。
私は三冊目に前足を置いた。
「にゃ」
これだ。
シルビアは真剣にうなずいた。
「これがよいのね」
えらい、ちゃんと意見を聞く姿勢がある。
猫にだけど。
問題は外から見ると「猫に本を選ばせている公爵令嬢」であるってことだ。
奇妙である。
エマが横で微笑みをこらえていた。
「ノワール様は、本当に賢くていらっしゃいますね」
……様。
もう訂正する気はない。
シルビアは得意げに胸を張った。
「当然ですわ。ノワールはわたくしの猫ですもの」
出た。
私はすぐに背を向けた。
シルビアが、はっとする。
「……お褒めいただき、ありがとうございます」
よし。
エマが嬉しそうに微笑む。
「はい、お嬢様」
シルビアは顔を赤くして、ぷいっと横を向いた。
「何度も言わせないでちょうだい」
悪役令嬢ポイント、少し加算。
だが「ありがとうございます」が出たので、総合評価は合格点である。
昼前、アレクシスが到着した。
今回は大掛かりな訪問ではなく、前回よりも小さな供を連れ、短い時間だけ滞在するらしい。
シルビアは玄関ホールで彼を迎えた。
私は当然のように足元にいる。
アレクシスはシルビアを見ると、少しだけ微笑んだ。
「ごきげんよう、シルビア嬢」
「ごきげんよう、アレクシス殿下」
シルビアは完璧に礼をした。
表情は硬い、目も少し細い。だが前回よりはましである。
アレクシスも前回ほど距離を取っていない。
よし。
今のところ悪くない。
アレクシスの視線が、私に移った。
「ノワールも、こんにちは」
「にゃ」
こんにちは、観察力不足王子。
アレクシスは少し笑った。
「やっぱり、不思議な猫だ」
その評価は正しい。
シルビアは少し誇らしげだった。
「ノワールは、ただの猫ではありませんもの」
そうだ。
元人間である。
ただし、その情報は出せない。
今回は応接室ではなく、小さな書斎で本を渡すことになった。
大人たちは近くの部屋に控えているが、基本的には二人で話す時間を作るらしい。
私はもちろん同行した。
シルビアは机の上に、選んだ魔法理論の本を置いた。
「こちらですわ」
アレクシスは本を手に取り、表紙を見る。
「ありがとう。思っていたより読みやすそうだ」
シルビアの目が少しだけ輝く。
自分の選んだ本を褒められて嬉しいのだろう。
だが彼女はすぐに顔を引き締めた。
「基礎から説明されていますから、殿下にも理解しやすいかと」
私は固まった。
危ない。
かなり危ない。
本人は「分かりやすい本です」と言いたいだけだ。
しかし聞こえ方は、「殿下でも理解できますわ」である。
アレクシスの眉が、ほんの少し動いた。
はい、刺さった。
小さな王子プライドに刺さった。
私は即座に机の下へ移動し、アレクシスの靴ひもを軽く引いた。
「わっ」
アレクシスが足元を見る。
会話停止。
成功。
シルビアもはっとしたように私を見る。
私はシルビアを見上げた。
言い直せ。
今のは危険だ。
シルビアは一瞬、口を引き結んだ。
それから、アレクシスへ視線を戻す。
「……わたくしも、最初に読んだとき分かりやすいと思いました」
よし。
主語を自分に変えた。
それなら嫌味に聞こえにくい。
アレクシスも表情を和らげる。
「そうなんだ。それなら安心した」
よかった。
靴ひも、やはり有能である。
しかし、ここで予想外のことが起きた。
アレクシスが足元の私を見て、首をかしげたのだ。
「ノワールは、今の会話を止めたかったの?」
私は動きを止めた。
お、少し気づいたか。
アレクシスは本を抱えたまま、私をじっと見る。
「前のお茶会でも、僕が困ったときに靴ひもを引っ張ったよね」
おお。
覚えていた。
観察力ゼロではないらしい。
いや、まだ油断はできないが、改善の余地はありそうだ。
シルビアが少し不思議そうに言う。
「ノワールは賢い猫ですから、殿下の靴ひもがほどけそうになっているのを教えたのでは?」
違う。
しかしアレクシスは自分の靴ひもを見た。
「ほどけてはいないけれど」
そこは見るのか。
私は彼をじっと見上げた。
そうだ、靴ひもはほどけていない。
ほどけそうだったのは会話であり、人間関係の方である。
アレクシスはしばらく考え込んだ。
それから、少しだけ笑う。
「もしかして、僕たちが変なことを言うと止めてくれるのかな」
かなり近い。
かなり近いぞ、王太子。
私は短く鳴いた。
「にゃ」
アレクシスの目が少し輝いた。
「やっぱり」
シルビアはきょとんとしている。
「殿下、本気でおっしゃっていますの?」
「半分くらいは」
アレクシスは私を見た。
「ノワールは、普通の猫よりずっと人の話を聞いている気がする」
正しい。
聞いている、なんせ中身が人間なので。
シルビアは誇らしげに胸を張った。
「当然ですわ。ノワールはわたくしの猫ですもの」
はい、当然ですわ、出ました。
私はちらりとシルビアを見る。
シルビアは、はっとして口を押さえた。
「……いえ。ノワールは、とても賢いのです」
言い直した。
えらい。
私は満足して、シルビアの足元にすり寄った。
アレクシスはその様子を見て、少しだけ目を丸くした。
「本当に、言い直すと褒めているみたいだ」
お、そこまで気づいたか。
アレクシス王太子、観察力に芽が出た可能性あり。
まだ双葉くらいだが。
その後、アレクシスは本についていくつか質問した。
シルビアは答える。
最初は硬かったが、少しずつ調子が出てきた。
魔法理論の話になると、シルビアはかなり分かりやすく説明できるらしい。
ただし、言い方は相変わらず危ない。
「ここは間違えやすいところですわ。殿下もきっと間違えます」
言い方。
靴ひも。
「この図を見れば分かるでしょう。分からないなら、図を逆さまにしても分かりませんわ」
キツすぎ。
靴ひも。
「この程度でつまずいていては、次の章で大変ですわね」
嫌味かっ。
靴ひも。
忙しい。
アレクシスの靴ひもは、もはや私の仕事場である。
アレクシスは最初こそ驚いていたが、三回目あたりから笑い始めた。
「また止められた」
シルビアはだんだん不満そうになっていく。
「ノワール、あなた最近、わたくしに厳しくありませんこと?」
「にゃ」
教育である。
シルビアはむっとした顔で、言い直す。
「……この章は、少し難しいです。わたくしも最初は何度か読み返しました」
アレクシスは素直にうなずいた。
「それなら、僕も何度か読むよ」
空気が少しずつ和らいでいく。
最初のぎこちなさが、少しだけ減っていた。
二人の会話はまだ下手だ。
シルビアはすぐ強い言い方をするし、アレクシスはすぐ少し身構える。
だが、前回よりはましだ。
アレクシスは、ノワールが介入する意味に気づき始めている。
シルビアも、私が反応すると言い直そうとする。
これは大きい。
靴ひも外交、成功である。
しかし、問題もあった。
私は疲れた。
靴ひもを引くのは意外と体力を使う。
しかも、タイミングが重要だ。
早すぎても遅すぎてもいけない。
王太子の靴ひもを使った炎上防止。
猫にしては高度な業務である。
そんな私の苦労を知らず、アレクシスは最後に少し楽しそうに言った。
「ノワールがいると、シルビア嬢とは話しやすいね」
私は耳を立てた。
おお。
良い発言だ。
シルビアも驚いたようにアレクシスを見る。
「そう、ですの?」
「うん。君はとても難しいことを知っているけれど、時々、言い方が少し怖い」
私は固まった。
王太子。
直球。
まさかの直球。
シルビアも固まった。
部屋の空気がぴしりと凍る。
アレクシスは、すぐに慌てた。
「あ、違う。悪い意味ではなくて」
悪い意味ではなくて、は大抵悪い意味に聞こえるものだ。
覚えておくといい。
シルビアの顔がみるみる強張っていく。
まずい。
この流れはまずい。
私は靴ひもへ飛びつこうとした。
しかしアレクシスが、私より先に言葉を続けた。
「でも、ノワールが止めると、君は言い直してくれる。そうすると、とても分かりやすい」
シルビアは目を見開いた。
私は動きを止めた。
アレクシスは少し照れたように、視線を本へ落とす。
「だから、その……君が本当は親切に教えてくれているのは、少し分かった」
部屋が静かになった。
シルビアは何も言わなかった。
ただ、顔が赤くなっていく。
耳まで赤い。
完全に照れている。
かわいい。
私は内心で拳を高く突き上げた。
王太子。
少しだけやればできるではないか。
観察力、微増。
国家運営への不安、ほんの少し軽減。
シルビアはしばらく黙ったあと、ぷいっと顔をそむけた。
「そ、そうですの。でしたら、今後は最初からそう受け取りなさい」
言い方。
最後の最後でそれか。
私はシルビアの足をパシパシ叩いた。
いわゆる猫パンチである。
「ちょ、ノワール!」
だが、アレクシスは今度は笑った。
「うん。努力する」
努力。
良い言葉である。
私は満足して、机の下で座り込んだ。
大きな進歩だった。
アレクシスが、シルビアの言葉の裏に少し気づいた。
シルビアも、アレクシスに自分の本意が少し伝わった。
まだ小さい、とても小さいけれど、十年後の断罪エンドへ続く道に、小さな石を置くことはできたかもしれない。
帰り際、アレクシスは本を抱え、シルビアに礼を言った。
「本を貸してくれてありがとう。読んだら、また感想を伝えるよ」
シルビアは少しだけ目を泳がせた。
そして、ぎこちなく言った。
「……楽しみにしています」
言えた。
かなり素直。
私は感動しかけた。
だが、その直後、シルビアは慌てたように続けた。
「いえ、別に殿下の感想を待っているわけではありません。ただ、貸した本をきちんと読まれたか確認する必要がありますから」
悪役令嬢ポイント、加算。
しかしアレクシスは、今度は少し笑った。
「うん。ちゃんと読むよ」
彼の目には、前回のような警戒だけではないものがあった。
まだ戸惑いはあるが、少しだけ興味もある。
シルビアという少女が、本当はどういう子なのか。
それを、ほんの少し見ようとし始めている。
私は足元から彼を見上げた。
よし。
王太子再教育計画、第一段階成功。
ただし、まだまだ観察力不足であるため、油断はできない。
要経過観察である。
アレクシスが帰った後、シルビアはしばらく本棚の前に立っていた。
そして、小さくつぶやいた。
「……楽しみにしています、なんて」
自分で言った言葉を思い返して、恥ずかしくなっているらしい。
私は足元から見上げる。
「にゃ」
よかったぞ。
かなりよかった。
シルビアは私を見下ろし、少しむっとした。
「あなた、今日は殿下の靴ひもばかり狙っていましたわね」
「にゃ」
必要措置である。
「ノワール」
シルビアは私を抱き上げた。
「あなた、もしかして……わたくしと殿下を仲良くさせようとしているの?」
私は固まった。
鋭い。
いや、時々こういうところだけ妙に鋭い。
シルビアは私をじっと見つめた。
紫の瞳がまっすぐ私を映している。
私は短く鳴いた。
「にゃ」
肯定でも否定でもない。
猫の便利なところである。
シルビアは少し考えたあと、ふいっと顔をそむけた。
「余計なお世話ですわ」
そう言いながら、私を抱く腕は少しだけ優しかった。
そして、その夜。
シルビアは寝る前に、アレクシスへ貸した本と同じ本をもう一冊、本棚から取り出していた。
自分も読み返すつもりらしい。
私はクッションの上からそれを見て、そっと喉を鳴らした。
小さな恋心にふたをしたはずの少女は、まだ完全には諦めていない。
なら、まだ間に合う。
王太子の靴ひもを狙う日々は、今後も続きそうだと思い、眠りについた。
「二人の関係が少しずつ良くなってきた。淡い恋心がこのまま終われませんように。by ノワール」
ここまでお読みいただき、ありがとうございます!
続きが何か気になる、面白いと思っていただけましたら、ブックマークや評価で応援していただけると、とても嬉しいです。
黒猫一匹と作者が喜びます。
ありがとうございました!




