第10話 悪役令嬢、小さな恋心にふたをする
完結確定。
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王太子アレクシスとのお茶会は、大きな事故なく終わった。
紅茶はこぼれなかったし、カップも割れなかった。
何よりシルビアは高笑いをしなかった。
王太子の前で「当然ですわ」は少し出たが、「ありがとうございます」も言えた。
魔法理論の本を貸す約束までできた。
成果だけ見れば、悪くない。
いや、むしろ上出来だったはずだ。
だが、私は知っている。
大きな事故がなかったことと、何も傷つかなかったことは、同じではない。
アレクシスが帰ったあと、シルビアはいつも通りだった。
少なくとも、周囲にはそう見えていた。
玄関で王太子の馬車を見送った後、彼女は背筋を伸ばして屋敷へ戻った。
公爵夫人に「よく頑張ったわね」と言われると、少しだけ頬を赤らめながらも、つんと顔をそむけた。
「当然ですわ。婚約者として、失礼のないようにするのは当たり前ですもの」
いつものシルビアである。
レオンハルトが「疲れただろう」と声をかけると、シルビアは即座に首を振った。
「疲れてなどおりませんわ」
疲れている。
私は足元から見上げながら思った。
朝からずっと緊張していたのだ。
ドレスを選び、髪飾りを迷い、礼儀作法を確認し、王太子の前で失礼のないようにと背筋を伸ばし続けた。
七歳の子どもには、十分すぎるほど大仕事である。
だが、シルビアはそれを顔に出さない。
出せない。
公爵家の娘だから、王太子の婚約者だから、堂々としていなければならないから。
その考えが、彼女の小さな背中を支えている。
同時に、少しずつ重くしている。
夕食の席でも、シルビアは普段通りだった。
食器の扱いも、姿勢も、会話の受け答えも完璧。
父に「アレクシス殿下とは楽しく過ごせたか」と尋ねられると、彼女は一瞬だけ止まった。
ほんの一瞬。
だが、私は見逃さなかった。
「ええ。滞りなく」
滞りなく。
七歳のお茶会の感想として、その答えはどうなんだ。
公爵は満足そうにうなずいた。
「そうか。それはよかった」
いや、よくないでしょ。
滞りなく、という言葉の中に、楽しかったかどうかは含まれていない。
公爵夫人は少しだけシルビアを見つめた。
もしかすると、何かに気づいたのかもしれない。
だが、食事の席で深く聞くことはしなかった。
レオンハルトも同じだ。
シルビアの疲れには気づいているけれど、妹が「大丈夫」と言うなら、それ以上は踏み込まない。
優しい。
しかし、その優しさは時々、シルビアの殻をそのままにしてしまう。
私は食堂の隅で、専用の小皿に出された白身魚を食べながら、深刻な気持ちになっていた。
魚は美味しい。
しかし、気持ちは深刻である。
夜。
シルビアは自室に戻った。
侍女たちがドレスを脱がせ、髪飾りを外し、寝間着へ着替えさせる。
エマが最後に毛布を整えた。
「お嬢様、本日はお疲れさまでした」
「疲れてなどおりません」
即答だった。
エマは少し困ったように微笑む。
「では、ゆっくりお休みくださいませ」
「ええ」
侍女たちが下がり、部屋に静けさが戻る。
灯りは小さく落とされ、窓の外には夜の庭が広がっていた。
月明かりが白い床を淡く照らしている。
私はシルビアのベッドの足元に飛び乗った。
いつもなら、シルビアは私を見て少しだけ表情をゆるめる。
そして「勝手にベッドへ上がってはなりませんわ」と言いながら、結局どかさない。
だが、その夜のシルビアは何も言わなかった。
ベッドに座ったまま、窓の外を見ている。
背筋は伸びている。
けれど、昼間のような張りつめた感じではない。
どこか、糸が切れたようだった。
「ノワール」
小さな声だった。
「にゃ」
私は近づき、シルビアの膝のそばに座った。
彼女は私を抱き上げた。
いつもより少し強い。
だが、苦しいほどではない。
シルビアは私を膝に乗せ、ゆっくり背を撫でた。
何度も、何度も。
その手つきは落ち着いているようで、少しだけ迷子みたいだった。
「今日のわたくしは、きちんとできていましたかしら」
私は顔を上げた。
シルビアは窓の外を見たままだった。
月明かりの中で、横顔だけが見える。
いつもの鋭さは少し薄れていた。
きちんとできていた。
そう言いたい。
少なくとも、頑張っていた。
悪役台詞もぎりぎり回避したし、ありがとうも言えた。
魔法理論の本も貸す約束をだってできた。
七歳の子どもとしては十分だ。
だが、私は猫である。
言葉では伝えられない。
私はシルビアの手に額をすり寄せた。
「にゃ」
シルビアは小さく笑った。
「あなたに聞いても、鳴くだけですわね」
そうだ。
そこがもどかしい。
こんなにも声を掛けたいのに。
私は前足を彼女の手の上に置いた。
シルビアはしばらく黙っていた。
そして、ぽつりと言った。
「殿下は、わたくしといると、少し困ったようなお顔をなさるの」
私は動きを止めた。
「今日だけではありませんわ。以前お会いしたときも、少しだけ距離を置かれました」
そうだったのか。
今日が初めてではない。
シルビアは以前から、アレクシスとの距離を感じていたのだ。
七歳の子どもは、大人が思っているよりずっとよく見ている。
そして、自分に向けられた小さな違和感に敏感だ。
シルビアは顔を伏せた。
「わたくし、何か失礼なことをしているのかしら」
う……。
それは、まあ。
しているが。
だが、悪意はない。
言葉の選び方が壊滅しているだけだ。
今日の「王太子であられるのに?」は危なかった。
あれは完全にアレクシスの小さな王子プライドに、刺さったはずだ。
しかし、そんな分析を今ここでするわけにはいかない。
私はシルビアの膝の上で丸くなった。
シルビアは私の背を撫で続ける。
「わたくし、殿下にお会いするのが楽しみでしたのよ」
その声は、さらに小さくなった。
私は耳を立てた。
「だって、殿下はわたくしの婚約者でしょう。お兄様も、お父様も、殿下は聡明でお優しい方だとおっしゃっていたの」
シルビアの指が、私の毛並みの上で止まる。
「だから、今日こそは、ちゃんとお話しできると思っていましたの」
胸の奥が痛んだ。
この子は、ちゃんと楽しみにしていた。
ドレスを迷ったのも、髪飾りを三度変えたのも、礼儀作法を何度も確認したのも。
全部、アレクシスに会うためだった。
ただ、好きだとか、嬉しいだとか、そういう言葉をまだ知らないのかもしれない。
あるいは、知っていても、口にするのが怖いのかもしれない。
シルビアは公爵家の娘で、王太子の婚約者だ。
幼い頃から、立場と責任を教えられている。
だから自分の感情にも、きっと礼儀正しい名前をつけようとする。
「でも、殿下は……わたくしとお話しすると、少しだけ困ったお顔をなさるの」
シルビアは、ようやく私を見た。
紫の瞳が、揺れている。
「ノワール。殿下は、わたくしのことが、お嫌いなのかしら」
私は鳴けなかった。
違う、たぶん違う。
アレクシスは、シルビアを嫌っているわけではない。
ただ、怖がっている。
そして誤解している。
彼女の緊張を高慢だと思い、彼女の不器用さを冷たさだと思い、彼女の目つきを怒りだと思っている。
嫌いではない。
だが、シルビアからすれば、それはほとんど同じことだ。
好きな人に距離を置かれる、婚約者に困った顔をされる。
自分が何か間違っているのか分からない。
その痛みは、七歳の胸には重すぎる。
私はシルビアの手を舐めた。
猫の舌は少しざらざらしている。
前世の私なら、慰めの言葉くらい言えただろう。
けれど今の私は猫で、言葉は「にゃあ」にしかならない。
「……慰めてくれているのね」
シルビアは小さく笑った。
その笑みは、昼間見せたものよりずっと寂しかった。
私は膝の上から立ち上がり、彼女の胸元へ体を寄せた。
「にゃぁ」
慰めている。
それ以外に、今できることがない。
シルビアは私を抱きしめた。
「ありがとう、ノワール」
その言葉は、最近少しずつ出るようになった。
けれど、今はその成長を喜ぶより、彼女の声の弱さが気になった。
シルビアはしばらく黙っていた。
窓の外で、夜風が木の葉を揺らす。
やがて、彼女は静かに息を吐いた。
「でも、よいのです」
私は顔を上げた。
よい?
何がよいのだ。
シルビアはまっすぐ前を見ていた。
月明かりの中で、その横顔はまた、公爵令嬢のものに戻り始めていた。
「婚約とは、そういうものでしょう」
私は耳を伏せた。
違う。
嫌な予感がする。
「殿下がわたくしをお好きでなくても、わたくしは婚約者として、恥ずかしくない振る舞いをしなければなりません」
シルビアは自分に言い聞かせるように言う。
「お父様にも、お母様にも、お兄様にも、グランベル公爵家の名にも、恥じないように」
小さな恋心が、静かに箱にしまわれていく音がした。
私はそれを止めたかった。
まだ早い。
そんなふうに諦めるには、あなたはまだ小さすぎる。
そんな言葉で、自分の「楽しみだった」を閉じ込めないで。
けれど、シルビアはもう自分で結論を出そうとしていた。
「殿下に嫌われていたとしても、構いませんわ」
今の声は、まったく構わない声ではない。
「わたくしは、立派な婚約者になります」
シルビアは、少しだけ強く私を抱いた。
「ですから、泣いたりなどしません」
泣いていない。
確かに、シルビアは泣いていない。
だが、泣かないことと傷ついていないことは同じではない。
私はシルビアの胸元で、じっとしていた。
その小さな体の奥で、何かがそっと閉じられていく。
好き、というほどはっきりしたものではなかったかもしれないけれど、会えるのが楽しみだった気持ち。
話せたら嬉しいと思った気持ち。
婚約者としてだけではなく、自分を見てほしかった気持ち。
それらを、シルビアは自分で箱に入れ、鍵をかけた。
そして、その上に「公爵家の務め」と書いた。
私は心の中で、低くうなった。
王太子アレクシス。
顔はいい。身分もいい。礼儀もある。
だが、観察力がない。
まだ七歳。
仕方ないのかもしれない。
でも。
その観察力のなさで、今、ひとりの少女が自分の気持ちにふたをした。
これは重罪である。
猫裁判なら有罪。
量刑は、靴ひも三回ほどきの刑。
なお、情状酌量はしない。
シルビアは少しだけ落ち着いたのか、私の背をゆっくり撫で始めた。
「ノワールは、わたくしのそばにいてくれますわよね」
「にゃ」
いる。
もちろんいる。
あなたが悪役令嬢になる未来を、私は変えるのだから。
そして今、もう一つ決めた。
断罪エンドだけではない。
この子が自分の気持ちを、全部「務め」の中に押し込めてしまわないようにする。
それも、私の仕事だ。
シルビアは私を抱いたまま、ベッドに横になった。
私もその腕の中に収まる。
しばらくすると、シルビアの呼吸が少しずつゆっくりになっていった。
眠ったのだろう。
月明かりの中で、彼女の表情は幼く見えた。
昼間のような公爵令嬢の顔ではない。
王太子の婚約者の顔でもない。
ただの七歳の少女だった。
私はそっと彼女の腕から抜け出し、枕元に座った。
眠っているシルビアを見下ろす。
悪役令嬢。
ゲームでは、そう呼ばれていた。
高慢で、冷酷で、ヒロインを傷つける少女で、王太子に断罪される、物語の悪役。
だが、ここにいるのは違う。
王太子に嫌われたかもしれないと傷ついて、それでも泣かないように頑張っている子どもだ。
放っておけるわけがない。
私は小さく息を吐いた。
アレクシスの再教育は急務である。
だが、その前に、シルビアの心も守らなければならない。
黒猫式・悪役令嬢改造計画。
改め。
黒猫式・悪役令嬢断罪回避および情緒保護計画。
名前が長い。
だが内容は重要である。
私はしっぽを丸め、シルビアの枕元に伏せた。
この小さな恋心が、完全に消えてしまう前に。
いつか、彼女が「好きだった」と過去形でしか言えなくなる前に。
何とかしなければならない。
私は黒猫ノワール。
魔法は使えない。
人間の言葉も話せない。
けれど、そばにいることはできる。
今夜は、それでいい。
眠るシルビアのそばで、私は静かに目を閉じた。
「本当はこんなにも素直な子なのにな。今の自分がとても歯痒い。肉球ではなく、人の手で頭を撫でてあげたい。抱きしめてあげたい。あなたは大丈夫、私も側にいるよって言ってあげたい。by ノワール」
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黒猫一匹と作者が喜びます。
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