一 まだ決まっていない話
宿に着いたのは、夜の九時を過ぎていた。
夕食は、電車の中で買ったサンドイッチで済ませた。味はほとんど覚えていない。仕事のメールに追われながら、私は何度も同じ文面を開いては閉じていた。
白石さんからのメールだった。
件名は、「占いコーナーの件」。
白石さんは、女性向け週刊誌の編集に関わっている人だった。以前、私の鑑定文を読んで、「言葉の置き方が面白い」と言ってくれた。その一言は、自分でも思っていた以上に、私の中に残っていた。
メールには、こう書かれていた。
現在、弊誌の小さな占いコーナーで、担当者の交代に伴い、新しい書き手を探しています。まだ正式に決まった話ではありませんが、私としては、水瀬さんをご紹介できないかと考えています。
ただ、週刊誌という媒体上、もう少し短い言葉で読者に届く形も見てみたいという話が出ています。もし可能でしたら、追加でいくつか短めの鑑定例を拝見できますでしょうか。
ありがたい話だった。
そう思うべきだった。
けれど私の目は、何度も同じところに戻った。
まだ正式に決まった話ではありませんが。
もう少し短い言葉で読者に届く形も。
白石さんは、ただ丁寧に状況を伝えてくれているだけなのだと思う。期待を持たせすぎないように、編集部の事情を正直に書いてくれたのだろう。
それなのに私は、その二つの言葉の中に、すでに断られる未来を探していた。
白石さんは、まだ何もしていない。ただ、丁寧なメールをくれただけだった。
それなのに私は、その言葉をそのまま受け取れなかった。
面白いと言ってくれた人ほど、あとで遠くなる。必要だと言ってくれた人ほど、いつの間にか言葉が薄くなる。
白石さんは、その人たちではない。それでも私は、彼のメールの中に、まだ起きてもいない拒絶を探していた。今ある言葉ではなく、いつか遠ざかるかもしれない背中を先に見ていた。
その日は鑑定と細かな連絡に追われ、返信も追加の鑑定文もほとんど進まなかった。迷っているうちに時間だけが過ぎ、気づけば私は、前に泊まったあの宿に電話をしていた。
「急なのですが、今夜から二泊、空いていますか」
主人は、少しも驚かない声で答えた。
「空いております」
それだけだった。
理由はいくつも後からつけられた。
静かな場所で、追加の鑑定文を書くため。大きな仕事になるかもしれないから、ちゃんと向き合うため。日常から少し離れて、言葉を整えるため。
どれも嘘ではなかった。
けれど本当は、前にこの宿で聞いた声が、まだ私の中で終わっていなかったのだと思う。
何を話すかを考えなくていい。相手を変えようとしなくていい。導こうとしなくていい。ただ見なさい。愛と感謝と敬意をもって、見なさい。
それは、誰かに言われた言葉というより、あの部屋で、私の奥から静かに浮かび上がってきた声だった。
そのときは、わかったような気がした。
けれど日常に戻ってみると、それがどれほど難しいことなのか、すぐに思い知らされた。
私は人を見ているつもりで、いつも次の言葉を探していた。
嫌われない言葉。重くならない言葉。浅く見えず、けれど深すぎもしない言葉。
それは、相手を見ているのではなく、相手の中に映る自分を見張っているだけだったのかもしれない。
宿の玄関を開けると、涼しい空気が流れてきた。古い木の匂いと、どこか湿った畳の匂い。遠くで風鈴が小さく鳴っていた。
奥のほうから、主人が出てきた。
「いらっしゃいませ」
前と同じ、低く静かな声だった。
「遅くにすみません」
「お疲れさまでした」
主人はそれ以上、何も聞かなかった。
どうして来たのか。何があったのか。前回のあと、何を考えていたのか。
この人は、こちらが言葉を探しているときほど、何も聞かない。
聞かれないことで、逃げ道が残される。けれど同時に、自分の中にあるものをごまかせなくなる。
私は部屋に荷物を置き、ノートパソコンを開いた。
画面には、白石さんへ送る予定の鑑定文があった。
短く。わかりやすく。週刊誌の読者に届くように。
白石さんのメールには、そこまで書かれていたわけではない。けれど、そう言われている気がした。
今日のあなたは、過去の不安に引っ張られすぎているかもしれません。
そこまで打って、手が止まった。
これは読者に向けた言葉なのか。それとも、私自身に向けた言葉なのか。
消した。
もう一度、打ち直す。
今週は、目の前の小さな選択を大切にしてください。
悪くない。けれど、どこか薄い。
白石さんは、これをどう読むだろう。編集長は、どう判断するだろう。週刊誌の読者は、立ち止まってくれるだろうか。
私は、まだ見ぬ読者に向けて書いているはずだった。けれど実際には、白石さんの顔色を思い浮かべていた。
その夜、原稿はほとんど進まなかった。
布団に入っても眠りは浅かった。目を閉じると、白石さんのメールの文面が浮かんだ。
まだ正式に決まった話ではありませんが。
胸の奥が、小さく固くなる。
私は、何を怖がっているのだろう。
選ばれないことだろうか。白石さんに失望されることだろうか。それとも、また誰かの言葉を信じてしまう自分だろうか。
答えは出なかった。
ただ、暗い部屋の中で、あの声がもう一度聞こえた気がした。
ただ見なさい。
私は心の中で小さく答えた。
見たいと思っている。けれど、何を見ているのかが、まだわからない。
そのまま私は、浅い眠りの中へ落ちていった。




