八 昨日より少しだけ
朝は、思っていたより早く来た。
眠れたのか、眠れなかったのか、よくわからなかった。
ただ、気づくと窓の外が薄く明るくなっていて、鳥の声が、まだ遠慮がちに山の奥から聞こえていた。
私はしばらく、布団の中で目を開けていた。
昨夜のことを思い出そうとすると、すぐに輪郭がぼやけた。
藍色のカーテン。
何も感じない部屋。
深く身体を預ける椅子。
主人の声。
自分の口から出てきた、私ではないような、けれど私のものとしか思えない言葉。
夢だった、と言ってしまえば、それで済むような気もした。
でも、頬の奥に、泣いたあとのわずかな重さが残っていた。
喉も少し乾いている。
夢ではなかった。
少なくとも、私の身体はそう言っていた。
私はゆっくり起き上がった。
部屋の隅に置いたバッグの中に、タロットカードの布袋がある。いつもなら、起きてすぐにでも触れたくなる。何かを確認したくなる。昨夜の意味を一枚で見たいと思う。
けれど、その朝は不思議と、手が伸びなかった。
怖かったのかもしれない。
カードに聞いて、また何かを急いで言葉にしてしまうことが。
私は顔を洗い、上着を羽織って部屋を出た。
朝食の時間には、まだ少し早かった。
廊下は静かだった。昨夜、藍色のカーテンがあった突き当たりの方は見ないようにした。見てしまえば、また何かが始まる気がした。
玄関を出ると、山の空気が冷たかった。
昨夜の闇とは違う。
朝の山は、すべてを明るく見せるわけではないけれど、少なくとも、そこにあるものの輪郭を静かに返してくれる。
石垣。
湿った木の幹。
坂道の脇に落ちた葉。
遠くに見える観光地の屋根。
私は何も考えないように歩いた。
でも、考えないようにすると、かえって昨夜の言葉が浮かんでくる。
助けようと急がなくていい。
人は、自分の奥に、声を持っています。
あなたの言葉で埋めてはいけません。
私は、何度も同じところを歩いてきた気がした。
困っている人を見る。
放っておけない。
言葉を探す。
正しいことを言う。
相手の顔が曇る。
それでも、自分は助けたかっただけだと、自分に言い聞かせる。
その繰り返し。
でも今朝は、その輪の外側に、ほんの少しだけ足を出せたような気がした。
坂道をしばらく下り、小さな橋のところで立ち止まった。
水の音がしていた。
冷たい音だった。
私はその音を聞きながら、しばらく何もせずに立っていた。
誰かに何かを言う必要もない。
何かを決める必要もない。
それだけのことが、少し不慣れだった。
宿に戻るころには、朝食の時間が近づいていた。
玄関の前まで来たとき、引き戸が内側から開いた。
昨日の男性だった。
小さな旅行鞄を持っている。もう朝食を済ませたらしい。髪も整えられ、服装も昨日と同じようにきちんとしていた。
けれど、私と目が合った瞬間、彼は少しだけ視線を逸らした。
「あ……」
彼は何か言いかけて、それを飲み込んだようだった。
そのまま軽く会釈して、私の横を通り過ぎようとする。
昨日の夜の顔が、胸に戻ってきた。
ありがとうございます。
わかりました。
あの、諦めたような声。
私は思わず、口を開いた。
「あの」
男性が足を止めた。
私は、何を言うか決めていなかった。
決めていなかったから、言葉はひどく不格好に出てきた。
「昨日は、すみませんでした」
男性は、少し驚いたようにこちらを見た。
「私、あなたに、決めつけみたいなことを言いました」
言いながら、自分の頬が熱くなるのがわかった。
「でも、その……あなたの助けになりたかったんです。何か、少しでも。けど、たぶん助けになってなくて。むしろ、勝手に言葉を押しつけてしまったというか」
言葉がまとまらない。
昨日の私なら、もっときれいに言えたと思う。
謝罪に見える言葉。
相手を傷つけない言葉。
自分の立場も保てる言葉。
でも今朝は、そういう言葉がうまく出てこなかった。
「私、何を言ってるんでしょうね」
最後にそう言うと、自分でも情けなくなった。
男性はしばらく黙っていた。
それから、少しだけはにかむように笑った。
その笑顔は、昨日の夜よりも柔らかかった。
「いえ」
彼は静かに言った。
「昨日の言葉が、間違っていたとは思っていません」
私は顔を上げた。
「たぶん、当たっていたんだと思います。だからこそ、すぐには受け取れなかったのかもしれません」
彼は視線を少しだけ足元に落とした。
「その場で、はいそうですか、とは言えなかったというか。自分でも、そこまでまだ整理できていなかったので」
私は黙って聞いていた。
昨日なら、ここで何か言ったと思う。
整理できていないなら、整理しましょう。
本音がわからないなら、一度距離を置きましょう。
仕事も結婚も、本当に望んでいるか見つめましょう。
そんな言葉が、すぐに出てきたはずだった。
けれど今朝は、その言葉が喉まで来て、そこで止まった。
彼の言葉は、まだ途中だった。
途中のものを、私の言葉で完成させてはいけない。
「昨日のあと、少し考えました」
男性は言った。
「まだ答えは出ていないんですけど」
私は、小さく頷いた。
「そこまでわかっていれば、もう大丈夫だと思います」
男性が、少し驚いたように私を見た。
「大丈夫、ですか」
「はい」
私は、自分の声が昨日よりずっと静かなことに気づいた。
「言葉にならなくても、いいんだと思います。今は」
彼は黙っていた。
「自分の人生じゃない気がする、という感覚を、すぐに結論にしなくてもいい。会社を辞めるとか、結婚をやめるとか、何か大きな決断にしなくてもいい。ただ、その感覚があることを、なかったことにしない」
私はそこで言葉を切った。
本当は、まだ言いたいことがあった。
でも、今朝の私は、そこで止まれた。
「それだけで、たぶん十分です」
男性は、しばらく私を見ていた。
そして、ふっと息を吐いた。
その息の中に、昨日の夜にはなかった軽さがあった。
「……なんだか、それを聞いて安心しました」
彼は少し照れたように笑った。
「答えを出さなきゃいけないと思っていたのかもしれません。悩んでいるなら、何かを変えなきゃいけないって」
「私も、昨日はそう思っていました」
そう言うと、彼は小さく笑った。
「でも、今の方が、ずっと占い師さんらしいですね」
その言葉に、私は少しだけ困った。
占っていないのに。
カードも引いていないのに。
けれど、なぜか昨日よりもずっと、彼のそばにいられた気がした。
男性は鞄を持ち直した。
「帰ったら、少しだけ考えてみます。考えるというより……その違和感を、すぐに消さずに持ってみます」
「はい」
「自分の人生じゃない気がする、っていう感覚を」
私は頷いた。
「それでいいと思います」
彼はもう一度、柔らかく笑った。
「ありがとうございました」
今度の「ありがとうございました」は、昨日の夜とは違っていた。
何かを諦めた声ではなかった。
答えを受け取った声でもない。
ただ、自分の中にまだ答えがないことを、少しだけ許した人の声だった。
男性は、坂道を下っていった。
私は玄関の前に立ったまま、その背中を見送った。
朝の光の中で、彼の姿はすぐに木々の向こうに隠れた。
しばらくして、後ろで引き戸が静かに動く音がした。
振り向くと、主人が立っていた。
いつからそこにいたのか、わからなかった。
「おはようございます」
主人は、いつものように言った。
「……おはようございます」
私は少し気まずくなった。
今の会話を聞かれていたのだろうか。
聞かれていたのだとしても、この人はそれを言わないだろうと思った。
「朝食の準備ができています」
「はい」
私は頷いた。
それから、ふと自分でも意外なことを言った。
「今、私、何も占いませんでした」
主人は少しだけ目を伏せた。
「そうでしたね」
「カードも使いませんでした」
「はい」
「でも……昨日より、少しだけ届いた気がしました」
言ってから、胸の奥が静かに揺れた。
自慢ではなかった。
成果を報告したかったわけでもない。
ただ、自分でも確かめたかったのだと思う。
主人は、ほんの少しだけ微笑んだ。
「届いたかどうかは、あの方が決めることです」
私は一瞬、言葉に詰まった。
それから、小さく笑った。
「そうですね」
そうだった。
また私は、届いたかどうかを自分で決めようとしていた。
けれど、昨日のようには苦しくなかった。
気づけた。
そのことだけで、少し息がしやすかった。
主人は食堂の方へ歩き出した。
私はその背中を追いながら、ふと尋ねた。
「昨日の部屋で、私が話したこと」
主人は足を止めなかった。
「はい」
「あれは、何だったんですか」
主人は、すぐには答えなかった。
食堂の入り口で立ち止まり、少しだけこちらを見た。
「あなたの奥にある声です」
「それだけですか」
「今は、それだけでいいと思います」
また、答えは閉じられた。
けれど、今朝の私は、それ以上を急がなかった。
食堂には、パンの香りがしていた。
テーブルの上には、昨日と同じように朝食が並んでいる。けれど、昨日とは少し違って見えた。
パン。
ジャム。
チーズ。
温かいスープ。
どれも、急いで意味にしなくていいものたちだった。
私は席につき、林檎のジャムを少しだけ皿に取った。
主人がコーヒーを注ぎに来る。
カップに黒い液体が満ちていくのを、私は黙って見ていた。
「今日、お帰りになりますか」
主人が尋ねた。
それは、初めて主人の方から聞かれた質問だった。
私は少し驚いた。
そして、自分の中を見た。
帰る理由は、あった。
予約は一泊だけだった。
仕事もある。
鑑定の予定も入れようと思えば入れられる。
日常は、私を待っている。
でも、昨夜から今朝にかけて、何かが開いてしまった。
開いたものを、すぐに閉じて帰る気にはなれなかった。
「もう一泊できますか」
そう言うと、主人は少しだけ頷いた。
「お部屋は空いています」
「そうですか」
私は、なぜかほっとした。
ほっとした自分に、また少し驚いた。
「ただ」
主人は続けた。
「ここにいれば何かが進む、というわけではありません」
私はコーヒーの湯気を見た。
「はい」
「ここを出ても、進むものは進みます」
「はい」
それは、引き止めない言葉だった。
いつも通りだった。
選ぶのは私。
受け取るのも私。
食べるのも、眠るのも、帰るのも、残るのも。
誰にも代わってもらえない。
私は小さく息を吐いた。
「それでも、今日はここにいたいです」
主人は、静かに頷いた。
「では、そうしましょう水瀬さん」
名前を呼ばれて、私は少しだけ驚いた。
予約票に書いた名前を、ただ読んだだけなのかもしれない。
それなのに、その朝、初めて自分の名前を聞いたような気がした。
朝食のスープは、温かかった。
私は、温かいうちに飲んだ。
何かが劇的に変わったわけではなかった。
私はまだ、助けたい人間だった。
きっとまた、誰かの話を聞けば、余計なことを言いたくなる。
正しい言葉を探し、相手より先に答えを出したくなる。
でも今は、そのことに気づける気がした。
気づけるなら、少しだけ止まれる。
止まれるなら、少しだけ待てる。
待てるなら、いつか、誰かの奥にある声が出てくる場所を、ほんの少し空けられるのかもしれない。
私は林檎のジャムを塗ったパンを口に運んだ。
甘さの奥に、かすかな酸味が残っていた。
昨日と同じ味のはずだった。
でも、昨日より少しだけ、ちゃんと味がした。




