↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
悩みを抱えた客だけがたどり着く宿で、僕はあなたを守る者の声を聴く ~答えを教えない、不思議な宿の六つの物語~  作者: 牧静
第一章 助けたいだけなのに

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
8/45

八 昨日より少しだけ

朝は、思っていたより早く来た。


眠れたのか、眠れなかったのか、よくわからなかった。

ただ、気づくと窓の外が薄く明るくなっていて、鳥の声が、まだ遠慮がちに山の奥から聞こえていた。


私はしばらく、布団の中で目を開けていた。


昨夜のことを思い出そうとすると、すぐに輪郭がぼやけた。


藍色のカーテン。

何も感じない部屋。

深く身体を預ける椅子。

主人の声。

自分の口から出てきた、私ではないような、けれど私のものとしか思えない言葉。


夢だった、と言ってしまえば、それで済むような気もした。


でも、頬の奥に、泣いたあとのわずかな重さが残っていた。

喉も少し乾いている。


夢ではなかった。


少なくとも、私の身体はそう言っていた。


私はゆっくり起き上がった。


部屋の隅に置いたバッグの中に、タロットカードの布袋がある。いつもなら、起きてすぐにでも触れたくなる。何かを確認したくなる。昨夜の意味を一枚で見たいと思う。


けれど、その朝は不思議と、手が伸びなかった。


怖かったのかもしれない。


カードに聞いて、また何かを急いで言葉にしてしまうことが。


私は顔を洗い、上着を羽織って部屋を出た。


朝食の時間には、まだ少し早かった。


廊下は静かだった。昨夜、藍色のカーテンがあった突き当たりの方は見ないようにした。見てしまえば、また何かが始まる気がした。


玄関を出ると、山の空気が冷たかった。


昨夜の闇とは違う。

朝の山は、すべてを明るく見せるわけではないけれど、少なくとも、そこにあるものの輪郭を静かに返してくれる。


石垣。

湿った木の幹。

坂道の脇に落ちた葉。

遠くに見える観光地の屋根。


私は何も考えないように歩いた。


でも、考えないようにすると、かえって昨夜の言葉が浮かんでくる。


助けようと急がなくていい。


人は、自分の奥に、声を持っています。


あなたの言葉で埋めてはいけません。


私は、何度も同じところを歩いてきた気がした。


困っている人を見る。

放っておけない。

言葉を探す。

正しいことを言う。

相手の顔が曇る。

それでも、自分は助けたかっただけだと、自分に言い聞かせる。


その繰り返し。


でも今朝は、その輪の外側に、ほんの少しだけ足を出せたような気がした。


坂道をしばらく下り、小さな橋のところで立ち止まった。


水の音がしていた。


冷たい音だった。


私はその音を聞きながら、しばらく何もせずに立っていた。

誰かに何かを言う必要もない。

何かを決める必要もない。


それだけのことが、少し不慣れだった。


宿に戻るころには、朝食の時間が近づいていた。


玄関の前まで来たとき、引き戸が内側から開いた。


昨日の男性だった。


小さな旅行鞄を持っている。もう朝食を済ませたらしい。髪も整えられ、服装も昨日と同じようにきちんとしていた。


けれど、私と目が合った瞬間、彼は少しだけ視線を逸らした。


「あ……」


彼は何か言いかけて、それを飲み込んだようだった。


そのまま軽く会釈して、私の横を通り過ぎようとする。


昨日の夜の顔が、胸に戻ってきた。


ありがとうございます。

わかりました。


あの、諦めたような声。


私は思わず、口を開いた。


「あの」


男性が足を止めた。


私は、何を言うか決めていなかった。


決めていなかったから、言葉はひどく不格好に出てきた。


「昨日は、すみませんでした」


男性は、少し驚いたようにこちらを見た。


「私、あなたに、決めつけみたいなことを言いました」


言いながら、自分の頬が熱くなるのがわかった。


「でも、その……あなたの助けになりたかったんです。何か、少しでも。けど、たぶん助けになってなくて。むしろ、勝手に言葉を押しつけてしまったというか」


言葉がまとまらない。


昨日の私なら、もっときれいに言えたと思う。

謝罪に見える言葉。

相手を傷つけない言葉。

自分の立場も保てる言葉。


でも今朝は、そういう言葉がうまく出てこなかった。


「私、何を言ってるんでしょうね」


最後にそう言うと、自分でも情けなくなった。


男性はしばらく黙っていた。


それから、少しだけはにかむように笑った。


その笑顔は、昨日の夜よりも柔らかかった。


「いえ」


彼は静かに言った。


「昨日の言葉が、間違っていたとは思っていません」


私は顔を上げた。


「たぶん、当たっていたんだと思います。だからこそ、すぐには受け取れなかったのかもしれません」


彼は視線を少しだけ足元に落とした。


「その場で、はいそうですか、とは言えなかったというか。自分でも、そこまでまだ整理できていなかったので」


私は黙って聞いていた。


昨日なら、ここで何か言ったと思う。


整理できていないなら、整理しましょう。

本音がわからないなら、一度距離を置きましょう。

仕事も結婚も、本当に望んでいるか見つめましょう。


そんな言葉が、すぐに出てきたはずだった。


けれど今朝は、その言葉が喉まで来て、そこで止まった。


彼の言葉は、まだ途中だった。


途中のものを、私の言葉で完成させてはいけない。


「昨日のあと、少し考えました」


男性は言った。


「まだ答えは出ていないんですけど」


私は、小さく頷いた。


「そこまでわかっていれば、もう大丈夫だと思います」


男性が、少し驚いたように私を見た。


「大丈夫、ですか」


「はい」


私は、自分の声が昨日よりずっと静かなことに気づいた。


「言葉にならなくても、いいんだと思います。今は」


彼は黙っていた。


「自分の人生じゃない気がする、という感覚を、すぐに結論にしなくてもいい。会社を辞めるとか、結婚をやめるとか、何か大きな決断にしなくてもいい。ただ、その感覚があることを、なかったことにしない」


私はそこで言葉を切った。


本当は、まだ言いたいことがあった。


でも、今朝の私は、そこで止まれた。


「それだけで、たぶん十分です」


男性は、しばらく私を見ていた。


そして、ふっと息を吐いた。


その息の中に、昨日の夜にはなかった軽さがあった。


「……なんだか、それを聞いて安心しました」


彼は少し照れたように笑った。


「答えを出さなきゃいけないと思っていたのかもしれません。悩んでいるなら、何かを変えなきゃいけないって」


「私も、昨日はそう思っていました」


そう言うと、彼は小さく笑った。


「でも、今の方が、ずっと占い師さんらしいですね」


その言葉に、私は少しだけ困った。


占っていないのに。


カードも引いていないのに。


けれど、なぜか昨日よりもずっと、彼のそばにいられた気がした。


男性は鞄を持ち直した。


「帰ったら、少しだけ考えてみます。考えるというより……その違和感を、すぐに消さずに持ってみます」


「はい」


「自分の人生じゃない気がする、っていう感覚を」


私は頷いた。


「それでいいと思います」


彼はもう一度、柔らかく笑った。


「ありがとうございました」


今度の「ありがとうございました」は、昨日の夜とは違っていた。


何かを諦めた声ではなかった。


答えを受け取った声でもない。


ただ、自分の中にまだ答えがないことを、少しだけ許した人の声だった。


男性は、坂道を下っていった。


私は玄関の前に立ったまま、その背中を見送った。


朝の光の中で、彼の姿はすぐに木々の向こうに隠れた。


しばらくして、後ろで引き戸が静かに動く音がした。


振り向くと、主人が立っていた。


いつからそこにいたのか、わからなかった。


「おはようございます」


主人は、いつものように言った。


「……おはようございます」


私は少し気まずくなった。


今の会話を聞かれていたのだろうか。


聞かれていたのだとしても、この人はそれを言わないだろうと思った。


「朝食の準備ができています」


「はい」


私は頷いた。


それから、ふと自分でも意外なことを言った。


「今、私、何も占いませんでした」


主人は少しだけ目を伏せた。


「そうでしたね」


「カードも使いませんでした」


「はい」


「でも……昨日より、少しだけ届いた気がしました」


言ってから、胸の奥が静かに揺れた。


自慢ではなかった。

成果を報告したかったわけでもない。


ただ、自分でも確かめたかったのだと思う。


主人は、ほんの少しだけ微笑んだ。


「届いたかどうかは、あの方が決めることです」


私は一瞬、言葉に詰まった。


それから、小さく笑った。


「そうですね」


そうだった。


また私は、届いたかどうかを自分で決めようとしていた。


けれど、昨日のようには苦しくなかった。


気づけた。


そのことだけで、少し息がしやすかった。


主人は食堂の方へ歩き出した。


私はその背中を追いながら、ふと尋ねた。


「昨日の部屋で、私が話したこと」


主人は足を止めなかった。


「はい」


「あれは、何だったんですか」


主人は、すぐには答えなかった。


食堂の入り口で立ち止まり、少しだけこちらを見た。


「あなたの奥にある声です」


「それだけですか」


「今は、それだけでいいと思います」


また、答えは閉じられた。


けれど、今朝の私は、それ以上を急がなかった。


食堂には、パンの香りがしていた。


テーブルの上には、昨日と同じように朝食が並んでいる。けれど、昨日とは少し違って見えた。


パン。

ジャム。

チーズ。

温かいスープ。


どれも、急いで意味にしなくていいものたちだった。


私は席につき、林檎のジャムを少しだけ皿に取った。


主人がコーヒーを注ぎに来る。


カップに黒い液体が満ちていくのを、私は黙って見ていた。


「今日、お帰りになりますか」


主人が尋ねた。


それは、初めて主人の方から聞かれた質問だった。


私は少し驚いた。


そして、自分の中を見た。


帰る理由は、あった。


予約は一泊だけだった。

仕事もある。

鑑定の予定も入れようと思えば入れられる。

日常は、私を待っている。


でも、昨夜から今朝にかけて、何かが開いてしまった。


開いたものを、すぐに閉じて帰る気にはなれなかった。


「もう一泊できますか」


そう言うと、主人は少しだけ頷いた。


「お部屋は空いています」


「そうですか」


私は、なぜかほっとした。


ほっとした自分に、また少し驚いた。


「ただ」


主人は続けた。


「ここにいれば何かが進む、というわけではありません」


私はコーヒーの湯気を見た。


「はい」


「ここを出ても、進むものは進みます」


「はい」


それは、引き止めない言葉だった。


いつも通りだった。


選ぶのは私。

受け取るのも私。

食べるのも、眠るのも、帰るのも、残るのも。


誰にも代わってもらえない。


私は小さく息を吐いた。


「それでも、今日はここにいたいです」


主人は、静かに頷いた。


「では、そうしましょう水瀬さん」


名前を呼ばれて、私は少しだけ驚いた。

予約票に書いた名前を、ただ読んだだけなのかもしれない。

それなのに、その朝、初めて自分の名前を聞いたような気がした。


朝食のスープは、温かかった。


私は、温かいうちに飲んだ。


何かが劇的に変わったわけではなかった。


私はまだ、助けたい人間だった。

きっとまた、誰かの話を聞けば、余計なことを言いたくなる。

正しい言葉を探し、相手より先に答えを出したくなる。


でも今は、そのことに気づける気がした。


気づけるなら、少しだけ止まれる。


止まれるなら、少しだけ待てる。


待てるなら、いつか、誰かの奥にある声が出てくる場所を、ほんの少し空けられるのかもしれない。


私は林檎のジャムを塗ったパンを口に運んだ。


甘さの奥に、かすかな酸味が残っていた。


昨日と同じ味のはずだった。


でも、昨日より少しだけ、ちゃんと味がした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。