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悩みを抱えた客だけがたどり着く宿で、僕はあなたを守る者の声を聴く ~答えを教えない、不思議な宿の六つの物語~  作者: 牧静
第一章 助けたいだけなのに

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七 奥にある声

藍色のカーテンの向こうに入った瞬間、私は少し拍子抜けした。


そこは、不思議な部屋ではなかった。


少なくとも、私が想像していたような場所ではなかった。


香の匂いもない。


仏像もない。


怪しげな道具もない。


何かの気配が満ちているわけでもない。


ただ、何もなかった。


何も感じない。


そのことが、かえって怖かった。


主人と同じだ、と思った。


人が作った部屋なのに、人が何かを込めた感じがしない。


祈りも、願いも、期待も、こちらを試すような気配もない。


何もないからこそ、私の中にあるものだけが、やけにはっきりしてくる。


胸の奥が、少し苦しくなった。


なぜだろう。


まだ何も始まっていないのに、涙が出そうだった。


部屋の中央に、深くもたれることのできる椅子がひとつあった。


主人はそれを手で示した。


「どうぞ、そこへ」


私はゆっくり椅子に座った。


体が沈む。


思っていたよりも深く、背中が支えられた。


立っているときより、逃げにくい。


そう思った。


主人は、少し離れたところに座った。


近すぎない。


遠すぎもしない。


また、その距離だった。


「あなたは、何もしなくていいんです」


主人は静かに言った。


私は、思わず顔を上げた。


「何もしない?」


「はい」


「でも、ここで何かを聞くんですよね」


「聞き取ろうとしなくて大丈夫です」


その言葉に、少し戸惑った。


聞くために来たのに、聞き取ろうとしなくていい。


意味がわからなかった。


主人は続けた。


「静かに、自分の内側に意識を向けてください。ただし、無理に探さなくていい。答えを出そうとしなくていい。正しい言葉にしようとしなくていい」


私は黙っていた。


「何か聞こえるはずだ、と期待しなくて大丈夫です。私が静かに語りかけますから、あなたはただ、それをぼんやり受け取っていてください」


主人の声は、昨夜と同じだった。


強くない。


優しすぎもしない。


こちらを包むというより、余計な力を抜いていく声だった。


「ではまず、深呼吸をしましょうか」


私は、言われるままに息を吸った。


胸が少し引っかかった。


もう一度、吸う。


今度は、肩に力が入っていることに気づいた。


主人は何も急がせなかった。


「ゆっくりで大丈夫です」


私は息を吐いた。


長く、長く吐いたつもりだった。


けれど、まだ体の奥に、何かが残っている。


怒りのようなもの。


悔しさのようなもの。


恥ずかしさのようなもの。


そして、その全部の上に、薄く貼りついている言葉。


助けたい。


私は目を閉じた。


暗くなる。


その暗さの中で、男性の曇った顔が浮かんだ。


ありがとうございます。


わかりました。


あの声が、耳の奥に残っていた。


私は助けたかった。


本当に、それだけだった。


そう思おうとした。


そのとき、主人の声がした。


「私は、助けたかった」


私は目を閉じたまま、少しだけ息を止めた。


「本当に、それだけだった」


その言葉に、胸の奥がかすかに揺れた。


それは、私が心の中で言おうとしていた言葉だった。


誰にも聞こえるはずのない場所で、何度も繰り返していた言葉だった。


「そして、必死にそう思おうとした」


主人は、静かに続けた。


なぜ、わかるのだろう。


そう思った。


けれど、その疑問は、すぐに遠くへ流れていった。


椅子の背に預けた身体の重さが、少しずつわからなくなっていた。


手がどこにあるのか。


足が床についているのか。


目を閉じているのか、ただ暗い場所にいるのか。


その境目が、薄くなっていく。


怖い、と思うより先に、身体の方が静かになっていった。


主人の声だけがあった。


近くから聞こえるようでもあり、ずっと遠くから届いているようでもあった。


「私は、間違っていない」


「私は、正しいことを言った」


「私は、あの人のために言った」


「私は、傷ついている人を放っておけなかった」


ひとつひとつの言葉が、私の中に沈んでいく。


いや、違う。


沈んでいくのではない。


もともと沈んでいたものが、主人の声に触れて、浮かび上がってくる。


「なのに、相手の顔が曇る」


「感謝されているはずなのに、どこかが遠ざかっていく」


「私の言葉は、当たっているはずなのに、届かない」


私は何か言おうとした。


でも、言葉にする前に、喉の奥で小さな息が動いた。


「……どうして」


声が出た。


それが自分の声だと気づくまで、少し時間がかかった。


「どうして、わかってくれないの」


私は喋っていた。


自分で喋ろうと思ったわけではなかった。


けれど、言葉は勝手に出てきた。


「私は、あなたのために言っているのに」


声は、私の声だった。


でも、いつもの私の声よりも少し低く、少し幼く、少し震えていた。


「間違っていることを、間違っているって言っているだけなのに」


言葉が止まらなかった。


「傷つくってわかっているから、止めているだけなのに」


そこで、胸の奥が急に痛くなった。


その痛みだけが、身体の中でまだ残っていた。


「私は……」


声が震えた。


「私は、誰にも止めてもらえなかった」


その言葉が出た瞬間、空気が変わった気がした。


男性宿泊客の顔が消えた。


鑑定室で出会った相談者たちの顔も消えた。


代わりに、もっと古い私がいた。


何かを訴えようとしているのに、誰にも聞いてもらえない私。


嫌だと言えなかった私。


怒ってはいけないと思っていた私。


正しいことを言っても、うるさいと言われた私。


助けてほしいと言えずに、平気な顔をしていた私。


「私は、止めてほしかった」


言葉が出た。


「それはおかしいよって。あなたは悪くないよって。逃げていいよって。誰かに、言ってほしかった」


涙が流れた。


でも、泣いている身体の感覚は遠かった。


ただ、頬のあたりを何かが通っていく気配だけがあった。


主人は、すぐには何も言わなかった。


その沈黙は、空白ではなかった。


私の中から次の言葉が出てくるのを、ただ待っているようだった。


「だから、私……」


自分の声が、少し幼く聞こえた。


「同じような人を見ると、黙っていられない」


「言わなきゃって思う」


「助けなきゃって思う」


「でも、本当は……」


言葉が止まった。


暗いところで、何かがほどけていく。


「本当は、あのときの私を助けたい」


そう言った瞬間、胸の奥に置いていた硬いものが、静かに割れた。


私は、声を出して泣いた。


けれど、その泣き声も、少し離れたところから聞こえているようだった。


主人の声が、静かに入ってきた。


「今日は、あなたに、たくさんの愛と感謝と敬意を持って質問させていただきます」


その言葉は、私に向けられているようで、私のもっと奥にいる誰かに向けられているようでもあった。


「この人に、伝えたいことがあるならば」


主人は、ゆっくりと言った。


「どうぞ、ご自由にお話しください」


深い静けさが降りた。


私は何も考えていなかった。


考えようとしても、考える場所が見つからなかった。


ただ、胸の奥のさらに奥で、何かが目を覚ますような感覚があった。


そして、私の口が、ゆっくりと開いた。


「あなたは」


それは、私の声だった。


けれど、私がいつも使っている声ではなかった。


「ずっと、誰かを助けようとしてきました」


自分で話しているのに、自分で聞いているようだった。


「でも本当は、誰かを助けることで、自分が助けられたかったのです」


涙が、また流れた。


「それは、悪いことではありません」


その声は静かだった。


責めていなかった。


「痛みを知っている人は、痛みに気づきます。傷を知っている人は、傷ついた人のそばに行こうとします。それは、あなたの優しさでもあります」


私は、少しだけ息を吸った。


「けれど、痛みのまま触れると、相手の痛みと自分の痛みが混ざります」


言葉は、自然に続いた。


「そのとき、あなたは相手を見ているつもりで、過去の自分を見ています。相手を救おうとしているつもりで、過去の自分に言葉を投げています」


私は、何もできなかった。


ただ聞いていた。


自分の口から出てくる声を。


「だから、まず自分の痛みに、愛を向けなさい。その痛みを責めず、恥じず、追い出そうとせず、そこにあったものとして見なさい」


主人は黙っていた。


部屋も黙っていた。


声だけが、私の中から出ていた。


「あなたは、正しい言葉を探す前に、透明であることを学ばなければなりません」


透明。


その言葉が、部屋の中で静かに響いた。


「透明であるとは、痛みがないことではありません。怒りがないことでも、悲しみがないことでもありません」


声は続いた。


「それらがあることを知りながら、それを相手の上に重ねないことです」


私は、男性宿泊客の顔を思い出した。


彼は、私の答えを求めていたのではない。


まだ言葉にならないものを、そこに置いておきたかったのだ。


「助けようと急がなくていい」


声は、少し柔らかくなった。


「人は、自分の奥に、声を持っています。その声が出てくるまで、待ちなさい。あなたの言葉で埋めてはいけません」


私は泣きながら、頷いた。


頷いたのかどうかも、よくわからなかった。


ただ、胸の奥で何かが静かに受け取った。


「あなたがすることは、答えを与えることではありません。その人の奥にある声が出てこられるように、静かに場を整えることです」


私は、昨夜のパイを思い出した。


主人が、オーブンの中をじっと見ていた姿。


焼き色。


膨らみ方。


香り。


縁の乾き方。


ここだ、という頃合い。


私は、ずっと急いでいたのだ。


まだ焼けていないものを切っていた。


まだ言葉になっていないものに名前をつけていた。


まだ立ち上がっていない声の代わりに、自分の声を置いていた。


「あなたは、助けたい人です」


声が言った。


「それは失わなくていい」


その言葉に、胸の奥が少しだけ温かくなった。


「ただ、その願いを、焦りで濁らせないことです」


私は、深く息を吐いた。


呼吸をしていたことを、そのとき思い出した。


「愛を持ちなさい」


声は、静かに続いた。


「感謝を持ちなさい」


私は、何に対して、と思った。


けれど、その疑問が言葉になる前に、声は続けた。


「敬意を持ちなさい」


敬意。


その言葉は、私の中でゆっくり広がった。


相談者への敬意。


相手の痛みへの敬意。


まだ言葉になっていないものへの敬意。


その人の奥にすでにある声への敬意。


私は、今まで敬意を持っていたのだろうか。


助けたいと思っていた。


心配していた。


正しい方向へ進んでほしいと思っていた。


でも、それは相手の奥にある声を信じることとは違っていた。


「相手の中にある声を信じなさい」


私の口が、そう言った。


「あなたが急いで答えを出さなくても、その人の奥には、その人を導く声があります」


涙が止まらなかった。


「あなたは、その声より前に出てはいけません」


その言葉は、静かだった。


でも、どの言葉よりも深く刺さった。


私は、前に出ていた。


助けたいという顔をして、前に出ていた。


正しさを持って、前に出ていた。


自分の痛みを握ったまま、前に出ていた。


「少しだけ、前に出るのをやめてみなさい」


声は言った。


「相手の声が立ち上がる場所を、空けなさい」


私は、何度も頷いた。


今度は、たぶん本当に頷いていた。


「そのとき、言葉は自然に紡がれます」


主人の声ではなかった。


けれど、主人の言葉でもあるように思えた。


「何を話すかを考えなくていい。相手を変えようとしなくていい。導こうとしなくていい。ただ見なさい。愛と感謝と敬意をもって、見なさい」


部屋の中が、さらに静かになった。


その静けさは、最初に感じた「何もない」静けさとは少し違っていた。


空っぽなのではなかった。


何かを入れないために、空いている。


そういう静けさだった。


声が、ゆっくりと遠ざかっていく。


「あなたは、まだ始まったばかりです」


最後に、そう聞こえた。


「上手にできなくてもいい。間違えたことに気づけるなら、そこから学べます」


私は、また息を吐いた。


体の重さが、少しずつ戻ってきた。


背中が椅子に触れている。


足が床にある。


頬が濡れている。


私は、ここにいる。


その当たり前のことが、少しだけ不思議だった。


しばらく、誰も話さなかった。


目を開けるのが怖かった。


開けてしまえば、今起きたことが終わってしまうような気がした。


けれど、いつまでも閉じていることもできなかった。


私は、ゆっくりと目を開けた。


部屋は、最初と変わらなかった。


何もない。


やはり、何も感じない。


でも、その何もなさが、さっきほど怖くなかった。


主人は、少し離れたところに座っていた。


いつもの静かな顔だった。


私が泣いていたことにも、驚いていない。


何か特別なことが起きたとも言わない。


満足そうでもない。


ただ、そこにいた。


「今のは……」


私は声を出した。


喉が少し痛かった。


「私が喋っていたんですか」


主人は頷いた。


「はい」


「私が考えて、喋っていたんですか」


主人は、少しだけ間を置いた。


「考えていた、というより、聞いていたように見えました」


「誰の声を?」


そう聞いた瞬間、自分で怖くなった。


主人は、答えを急がなかった。


「あなたの奥にある声です」


私は、膝の上に置いた手を見た。


いつの間にか、指先が少し冷えていた。


「私、変なことを言いましたか」


「いいえ」


「本当に?」


「はい」


「でも……」


言葉が続かなかった。


変なことを言った気がする。


でも、これまで言ったどの言葉よりも、本当だった気もする。


自分の言葉なのに、自分だけの言葉ではなかった。


そんな感覚が残っていた。


主人は静かに言った。


「今夜は、これで十分です」


「十分?」


「はい。たくさん見ました」


私は、少しだけ笑いそうになった。

笑うには、まだ胸が痛かった。


「目は、ずっと閉じていたのに」


主人は、静かに頷いた。


「はい」


それだけだった。


けれど、その一言で、私はなぜか何も言えなくなった。


たしかに、見ていた。

男性の顔を。

幼いころの自分を。

自分の言葉の奥にあった、助けてほしいという声を。


「見た、というより……見せられた感じです」


「そう感じたのですね」


また、その言葉だった。


でも、もう嫌ではなかった。


主人は立ち上がった。


「少し水を飲みましょう」


部屋の隅から、透明な水の入ったグラスを持ってきた。


いつ用意されていたのか、私は気づかなかった。


両手で受け取ると、グラスは冷たかった。


水を飲む。


喉を通って、胸のあたりまで落ちていく。


その感覚が、やけにはっきりしていた。


身体が戻ってくる。


私はもう一口、水を飲んだ。


「今日は、あまり考えすぎない方がいいと思います」


主人が言った。


「考えないなんて、無理です」


「そうかもしれません」


私は少しだけ息を吐いた。


「明日の朝になったら、全部、夢みたいに思えるかもしれません」


「それでもかまいません」


「かまわないんですか」


「はい」


主人は、静かに言った。


「大切なのは、今夜のことを信じ込むことではありません。あなたが何を感じたかを、急いで結論にしないことです」


急いで結論にしない。


その言葉が、ゆっくり胸に残った。


私は頷いた。


「また、急ぎそうです」


「そのときは、気づけばいいのです」


主人は、藍色のカーテンの方へ歩いた。


私は椅子から立ち上がろうとして、少し足元が頼りないことに気づいた。


主人が手を差し出すことはなかった。


その代わり、私が立ち上がるまで、ただ待っていた。


私はゆっくり立った。


自分の足で立っている。


そのことが、なぜか少しだけ嬉しかった。


カーテンの前で、主人が振り返った。


「戻りましょう」


私は頷いた。


部屋を出ると、廊下の空気が少し冷たかった。


宿は静まり返っている。


階段を踏む音が、さっきよりもはっきり聞こえた。


食堂の灯りは、まだひとつだけ残っていた。


カウンターの上には、私が置いていった布袋があった。


タロットカードが、その中に収まっている。


私はそれを手に取った。


いつもなら、その重みで少し安心した。


でも今夜は、安心というより、少し違う感覚がした。


このカードにすがらなくても、私は自分の中の声を聞けるのかもしれない。


そう思いかけて、すぐに怖くなった。


主人はそれを見ていたのか、見ていなかったのか、何も言わなかった。


「おやすみなさい」


主人は静かに言った。


「……おやすみなさい」


私は布袋を胸の前で持ち、階段へ向かった。


途中で一度だけ振り返った。


主人はもう、カウンターの湯呑みを片づけていた。


何事もなかったように。


本当に、何事もなかったのかもしれない。


ただ私が、自分の奥にある声を聞いただけ。


それだけなのかもしれない。


でも、それだけのことが、こんなにも怖く、こんなにも静かに私を変えてしまうのだと、その夜、私は初めて知った。

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