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悩みを抱えた客だけがたどり着く宿で、僕はあなたを守る者の声を聴く ~答えを教えない、不思議な宿の六つの物語~  作者: 牧静
第一章 助けたいだけなのに

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六 助けたいだけなのに

夕食は、昨日より少し静かだった。


年配の夫婦は昼過ぎに出発し、宿に残っている客は、私と、もう一人の男性だけになっていた。


その男性は、朝食のときにも見かけた人だった。三十代前半くらいだろうか。服装はきちんとしていて、所作にも乱れがない。旅慣れていないわけではなさそうなのに、どこか所在なげだった。


夕食のあいだ、彼は必要なこと以外ほとんど話さなかった。


主人も、無理に話しかけなかった。


食事が終わるころ、主人が器を下げながら言った。


「栗を煮ました。よろしければ、あとでほうじ茶と一緒にお出しします」


昨日の林檎のパイと同じように、その言い方はあまりにも普通だった。


誘っているのか、知らせているだけなのか、わからない。


けれど今夜は、私だけではなかった。


男性も少し顔を上げて、控えめに頷いた。


一時間ほどして食堂に降りると、カウンターにはすでに二つの皿が置かれていた。


深い茶色に艶を帯びた栗の渋皮煮。

小さな器に一粒ずつ、静かに置かれている。


隣には湯気の立つほうじ茶。


昨日のパイの甘い匂いとは違う。

今夜は、火で深く煎られた茶葉の香りと、栗の奥に残る土のような甘さが、食堂の空気に沈んでいた。


男性は、私より先にカウンターの端に座っていた。


私は一瞬迷ってから、ひとつ席を空けて腰を下ろした。


主人はカウンターの奥で、急須に湯を注いでいた。


「どうぞ」


差し出されたほうじ茶を受け取ると、手のひらがじんわり温かくなった。


栗をひと口食べる。


甘い。


けれど、甘すぎない。


外側の渋皮が、口の中で少しだけほろりとほどける。中の栗はやわらかいのに、崩れすぎていない。


昨日のパイもそうだった。


昼の岩魚もそうだった。


この人の出すものは、どれも主張しすぎない。

けれど、こちらが黙るくらいには届いてくる。


「おいしいですね」


そう言ったのは、隣の男性だった。


主人は小さく頷いた。


「近くの方が届けてくださった栗です」


「ご近所の方と、仲がいいんですね」


男性がそう言うと、主人は少しだけ考えるようにした。


「仲がいい、というほどではないかもしれません。ただ、季節になると分けてくださいます」


「いいですね、そういうの」


男性は栗を見つめたまま、少し笑った。


「東京にいると、季節がよくわからなくなるので」


主人は答えなかった。


けれど、聞いていないわけではない。


男性は、しばらく黙った。


その沈黙は、昨日の私の沈黙とは少し違っていた。


話すことがない沈黙ではなく、言葉になる前のものを、喉の奥で探しているような沈黙だった。


私は、ほうじ茶を口に運びながら、横目で彼を見た。


整った人だと思った。


服も、姿勢も、言葉遣いも。

きっと、きちんとした会社に勤めている。親にも、上司にも、たぶん悪く思われていない。


もし恋人がいるなら、きっと「いい人」だと言われるのだろう。


約束を破らず、乱暴な言葉を使わず、記念日も忘れない。


相手を困らせるようなことは、できるだけしない。


そういう人に見えた。


そして、そういう人ほど、ときどき何かが空っぽになる。


「変なことを言ってもいいですか」


男性がぽつりと言った。


主人は、急須を置いた。


「どうぞ」


男性は少し笑った。


「いえ、宿の人に言う話じゃないんですけど」


「宿の人に言う話ではないことを、旅先で言いたくなることもあります」


その言葉で、男性の肩が少しだけ下がった。


私は思わず主人を見た。


まただ、と思った。


この人は、何も言っていないようで、相手が言葉を置ける場所だけをつくる。


男性は、器の中の栗を見つめたまま言った。


「僕、自分で言うのも変なんですけど、たぶん、悪くない人生を生きているんです」


主人は黙っていた。


「大学も、ちゃんと出ました。会社も、世間的にはいいところです。親も安心してくれているし、もうすぐ結婚もします。相手も、本当にいい人です」


そこで彼は、一度言葉を切った。


「でも」


その「でも」は、とても小さかった。


けれど、食堂の空気を少しだけ変えるには十分だった。


「ここに来て、なぜか、自分の人生じゃない気がするんです」


私は指先に力が入るのを感じた。


男性は続けた。


「何かが嫌なわけじゃないんです。会社も、辞めたいほど嫌いなわけじゃない。結婚も、したくないわけじゃない。親に無理やり決められたわけでもない。全部、自分で選んできたはずなんです」


主人は、男性を見ていた。


見つめる、というほど強くはない。


ただ、そこにいた。


「なのに、ふとしたときに思うんです。これは本当に、自分が選んだ人生なのかなって」


男性は、困ったように笑った。


「贅沢な悩みですよね。たぶん、ただの気の迷いなんです。結婚前で不安になってるだけかもしれないし、仕事が忙しくて疲れてるだけかもしれない」


私は黙っていられなかった。


その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かが動いた。


自分の人生じゃない気がする。


その感覚なら、私にもわかる。


会社員だったころの私。

親の期待に合わせて笑っていた私。

騙されたのに、平気なふりをしていた私。

本当は苦しいのに、これくらい普通だと自分に言い聞かせていた私。


気づいたら、私は口を開いていた。


「それは、気の迷いじゃないと思います」


男性がこちらを見た。

主人も、こちらを見た。


私はその視線に、少しだけ背筋を伸ばした。


「私、占い師なんです」


男性は驚いたように瞬きをした。


「占い師さん、ですか」


「はい。タロットを使っています」


そこまで言ってから、私は一瞬だけ迷った。


けれど、目の前で言葉にならないまま苦しんでいる人がいる。

主人は何も言わない。

ただ聞いているだけだ。


それなら、私が少しでも形にしてあげればいい。


そう思った。


「よかったら、一枚だけ見ましょうか」


言ってから、自分の声が少し明るすぎたことに気づいた。

けれど、もう引けなかった。


男性は戸惑ったように私を見た。


「ここで、ですか」


「はい。大げさな鑑定ではありません。今の状態を見るだけです」


男性は少し迷った。

それから、小さく頷いた。


「……お願いします」


私はバッグの中に手を入れた。


化粧ポーチの横に、いつもの布袋がある。

指先がその布に触れた瞬間、少しだけ呼吸が戻った。


鑑定のために持ち歩いている、というより、それがないと落ち着かないのだ。

財布や鍵を忘れたときとは違う。

もっと内側の、頼りない部分がむき出しになるような感じがする。


だから私は、外へ出るとき、化粧ポーチと一緒に必ずこのカードを入れる。


お守りのようなものだった。


私はカウンターの上を少し空け、小さな布を広げた。


カードを取り出し、束を整える。


いつもなら、この手順だけで少し落ち着いた。

けれど今夜は違った。


カードを前にした瞬間、私は、自分が何かにすがろうとしていることに気づいた。


この人の言葉にならないものを聞くためではなく、早く形にするために。

彼のためだと言いながら、自分が安心するために。


けれど、もう止まれなかった。


私はゆっくりとカードを切った。


主人は何も言わなかった。


止めもしなかった。


ただ、少し離れた場所で、湯呑みにほうじ茶を注いでいた。


その沈黙が、なぜか私を急がせた。


問いは単純でいい。


――この方が今、向き合うべきものは何か。


一枚引いた。


出たカードを見て、私はすぐに言葉を探した。


カードの意味。

男性の話。

彼の表情。

すべてをつなげて、ひとつの答えにする。


「あなたは今、周囲の期待と、自分の本音のあいだで揺れているんだと思います」


男性は黙っていた。


私は続けた。


「きっと、ずっと正しく生きてこられたんですよね。いい大学に行く。いい会社に入る。いい人と結婚する。周りから見たら、何も問題はない。でも、本当の自分の声が、どこかで置き去りになっている」


言いながら、これは悪くない読みだと思った。


わかりやすい。

たぶん、当たっている。


「一度、誰かの期待を全部外して考えた方がいいと思います。会社も、結婚も、親の安心も、世間的な正しさも。全部いったん横に置いて、本当に自分が何を望んでいるのか」


男性の顔が、少し曇った。


私は気づいた。


でも、止まれなかった。


「今のまま進むと、後からもっと苦しくなるかもしれません。だから、勇気を出して立ち止まった方がいいです。自分の人生を生きるために」


最後の言葉は、私自身に向けて言っているようでもあった。


食堂は静かだった。


男性はしばらくカードを見ていた。


それから、ゆっくりと頷いた。


「……そうですね」


その声を聞いた瞬間、私は失敗したと思った。


「ありがとうございます。わかりました」


彼は丁寧に言った。


けれど、それは納得した人の声ではなかった。


何かを受け取った声でもなかった。


むしろ、またひとつ、自分の中の言葉にならないものを諦めたような声だった。


彼は席を立った。


「ごちそうさまでした。少し、外の空気を吸ってきます」


主人は静かに言った。


「足元が暗いので、お気をつけて」


男性は軽く頭を下げ、食堂を出ていった。


扉が閉まる。


足音が遠ざかる。


私は、カウンターの上に残ったカードを見ていた。


当たっていなかったわけではないと思う。


たぶん、間違ったことは言っていない。


それなのに、届かなかった。


まただ。


また、同じことをした。


「……私」


声が勝手に出た。


主人は、男性の使っていた湯呑みを片づけていた。


「はい」


「助けたいだけなんです」


言ってから、胸の奥が熱くなった。


「本当に、それだけなんです。苦しそうな人を見ると、何か言わなきゃって思うんです。言葉にしてあげなきゃって。自分の人生じゃない気がするなんて、そんなの放っておけないじゃないですか」


主人は、湯呑みを洗い場に置いた。


水の音が少しだけして、すぐに止まった。


「なのに、うまくいかないんです」


私はカードを片づけることもできず、そのまま続けた。


「間違ったことを言ったつもりはないんです。さっきだって、たぶん、そんなに外れてはいないと思います。でも、あの人の顔が曇ったのがわかりました。がっかりされたのも」


主人は黙っていた。


その沈黙に、今度は苛立ちよりも、苦しさが出てきた。


「私、何がだめなんでしょう」


主人はすぐには答えなかった。


いつものように、急がなかった。


ほうじ茶の香りだけが、まだカウンターの上に残っていた。


しばらくして、主人は静かに言った。


「助けたい、という言葉を」


私は顔を上げた。


「はい」


「もう少し奥で、聞いてみますか」


意味がわからなかった。


けれど、その言葉を聞いた瞬間、昨夜見た廊下の突き当たりのカーテンが、頭に浮かんだ。


深い藍色の布。

その向こうから出てきた主人。

消えた燭台の細い煙。


私は喉の奥が乾くのを感じた。


「奥で、というのは」


主人はカウンターの外へ出た。


「言葉にする前の場所です」


「……占いですか」


「いいえ」


主人は首を横に振った。


「私があなたを占うわけではありません」


「じゃあ、何をするんですか」


主人は、少しだけ私を見た。


その目は、昨日と同じだった。


何かを暴こうとしている目ではない。

説得しようとしている目でもない。


ただ、こちらが次の一歩を出すかどうかを、静かに待っている目だった。


「あなたの中にある声を、聞きます」


私は、笑おうとした。


けれど、笑えなかった。


「私の中にある声なら、私が一番わかっているはずです」


言いながら、その言葉が嘘だとわかっていた。


主人は否定しなかった。


「そうかもしれません」


また、それだった。


でも今夜は、その返しに腹が立たなかった。


むしろ、逃げ道をふさがれたような気がした。


私はカウンターの上のカードを見た。


さっきまで、自分の道具だと思っていたもの。

人を助けるためのもの。

言葉にならないものに、形を与えるためのもの。


けれど今は、そのカードの上に、自分の焦りが乗っているように見えた。


助けたい。


本当に、そうなのだろうか。


私はゆっくりとカードを布袋に戻した。


「……行きます」


自分の声が、思ったより小さかった。


主人は頷いた。


「では、こちらへ」


食堂の灯りをひとつ落とし、主人は廊下へ出た。


私はその後について、階段を上がった。


夜の階段は、昼間よりも少し長く感じた。

足音を立てないようにしているのに、木の段は小さく鳴った。


二階の廊下に出ると、宿はもう静かだった。


並んだ客室の扉。

木の床。

窓の外の暗い山。

そして突き当たりに、藍色のカーテン。


昨夜、主人がそこから出てきた布だった。


昼間もそこにあったはずなのに、そのときはただの布にしか見えなかった。

今は、その布だけが、静かにこちらを待っているように見えた。


主人はカーテンの前で立ち止まった。


「入るかどうかは、あなたが決めてください」


私は、喉を鳴らした。


「入らなかったら?」


「それでも、夜は過ぎます」


昨日と同じような言葉だった。


でも、今は少し違って聞こえた。


夜は過ぎる。

けれど、過ぎたあとに何を持っているかは、自分で決めなければならない。


私は目を閉じた。


男性の曇った顔が浮かんだ。

昼に主人を責めた自分の声が浮かんだ。

これまで鑑定室で、私の言葉を受け取れずに帰っていった人たちの顔が、少しずつ浮かんでは消えた。


助けたいだけなのに。


その言葉が、胸の奥で小さく震えた。


私は目を開けた。


「入ります」


主人は何も言わなかった。


ただ、藍色のカーテンを、静かに開けた。


七 奥にある声

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