五 冷たいものは冷たいうちに
朝、目が覚めたとき、最初に思ったのは、帰ろう、ではなかった。
不思議なことに、昨夜よりも少しだけ腹が立っていた。
あの人に、何をされたわけでもない。
責められたわけでも、見透かされたわけでも、何かを言い当てられたわけでもない。ただ、何もされなかった。ただ、聞かれなかった。ただ、こちらの言葉を静かに受け取られただけだった。
それなのに私は、自分の中にしまっていたものを、いつの間にか目の前に置かれてしまったような気がしていた。
違う。
私はベッドの上で体を起こし、窓の外を見た。
昨夜の闇が嘘のように、山の朝は明るかった。木々の隙間から淡い光が差し込み、遠くで鳥の声がしている。
昨夜は、空気に呑まれただけだ。
知らない宿。新月の夜。静かすぎる主人。焼きたてのパイ。あの厚い藍色のカーテン。
そういうものに、少し調子を崩されただけだ。
私は素人ではない。
三年とはいえ、私は人の話を聞いてきた。カードを読み、表情を見て、声の揺れを拾ってきた。相談者が言葉にしていないものを、何度も感じ取ってきた。
あの人が何も出さないのなら、出さない理由があるはずだった。
人は、何もないように見えるときほど、何かを隠している。
そう思うと、少しだけ呼吸が整った。
昨日は、受け身だった。
今日は、こちらが見る番だ。
朝食は、食堂に用意されていた。
長いテーブルの上に、パン、チーズ、ジャム、ゆで卵、果物、温かいスープが、驚くほど整然と並んでいた。銀色のトングは皿の右側にまっすぐ置かれ、ジャムの瓶には小さな手書きの札が添えられている。
いちじく。
杏。
林檎とシナモン。
昨夜のパイに使ったものだろうかと思いながら、私は林檎のジャムを少しだけ皿に取った。
宿泊客は、年配の夫婦と、昨日見かけた若い男性が先に席についていた。誰も大きな声では話さない。けれど、気まずい静けさではなかった。
主人は食堂の奥にいた。
厨房と食堂のあいだを、音も少なく行き来している。スープの鍋を見て、パンの籠を整え、空いた皿を下げる。客に話しかけすぎることはない。けれど、誰かが困る前に、必要なものがそこに置かれている。
私はパンをちぎりながら、主人の動きを見ていた。
無駄がない。
けれど、効率を誇っている感じもない。
年配の女性がナプキンを落としたとき、主人はすぐには動かなかった。女性が自分で拾おうとして少し身体を傾けた、その直前に、横から静かに拾い上げた。
遅すぎない。
早すぎもしない。
私はその動きに、小さく苛立った。
また、頃合いか。
そう思った自分に気づいて、少し嫌になった。
若い男性がコーヒーを注ごうとして、ポットの蓋を少しずらした。主人は遠くからそれに気づいたようだったが、すぐには近寄らなかった。男性が自分で直す。主人は、そのまま別の皿を拭いている。
助けないのではない。
助ける必要がないと見ている。
私はジャムを塗ったパンを口に運んだ。
甘さは控えめで、林檎の酸味が残っていた。
昨日の夜から、何もかもが私の思った通りに動かない。
それが気に入らなかった。
私は、主人を観察しているつもりだった。
でも、食事が終わるころには、少しだけわかっていた。
私は観察しているのではない。
隙を探している。
あの人の静けさの中に、どこか不自然なところはないか。
あの人の穏やかさの奥に、こちらが突ける弱さはないか。
あの人も、結局は普通の人間なのだと確認できる材料はないか。
そんなものを探していた。
朝食を終えると、私は食堂を出た。
主人はこちらを見たが、声はかけてこなかった。
「いってらっしゃいませ」
それだけだった。
宿の外に出ると、朝の空気はひんやりしていた。
昨夜は見えなかった周囲の景色が、少しずつ輪郭を持って現れていた。宿は、山の斜面に隠れるように建っている。石垣の下には細い道が続き、少し歩けば観光地の通りに出られるらしかった。
古い別荘を買い取って宿にした、という話は本当かもしれない。
木の手すり。少し広いテラス。窓の形。庭の隅に残った石灯籠。和風なのか洋風なのか、どちらとも言い切れない造りだった。
それが、かえってこの宿らしいと思った。
どこかに属していない。
私は坂道を下り、しばらく歩いた。
土産物屋の並ぶ通りまで出ると、観光客が少しずつ増えていた。家族連れ、年配の夫婦、外国人観光客。湯気の上がる饅頭屋の前で、子どもが母親の袖を引いている。
私は店先を眺めながら歩いた。
けれど、何を見ても頭の中には主人の姿が戻ってきた。
あの人は、なぜあの宿をしているのだろう。
人に興味がないようで、人を見ている。
踏み込まないようで、必要なところには手が届く。
優しいようで、冷たい。
冷たいようで、嫌な感じがしない。
私は、自分の中で言葉を組み立てていった。
人と深く関わることをやめた人。
たぶん、昔、何かあったのだ。
人に傷つけられたのか。
人を傷つけたのか。
都会の忙しさに疲れたのか。
仕事の中で何かを諦めたのか。
あの人は、逃げたのかもしれない。
人間関係から。
評価される場所から。
誰かに踏み込まれる生活から。
そして、この宿を作った。
自分のペースで、自分のやり方だけが通る場所。誰も深く問い詰めず、誰も土足で踏み込んでこない、小さな王国。
そう思ったとき、少しだけ気分がよくなった。
見えてきた、と思った。
昼近くになって、私は宿へ戻った。
観光地で昼食をとるつもりだったのに、なぜかどの店にも入る気になれなかった。賑やかな蕎麦屋も、洒落たカフェも、店先で湯気を立てる饅頭も、どれも少し遠く感じた。
宿の玄関を開けると、主人はカウンターの奥で何かを片づけていた。
「おかえりなさい」
その声は、朝と同じだった。
待っていた感じもない。
帰ってこないと思っていた感じもない。
ただ、帰ってきた人に、おかえりと言っただけだった。
「この辺りで、お昼を食べようと思ったんですけど」
私は言った。
「はい」
「なんとなく、どこにも入る気になれなくて」
主人は、少しだけ頷いた。
「そうでしたか」
そこで会話が終わりそうになったので、私は自分から続けた。
「こちらでは、ランチはやっていないんですよね」
「基本的には」
「基本的には?」
「簡単なものなら、ご用意できます」
その返事は、あまりにも自然だった。
「いいんですか」
「ええ。ちょうど、私も少し休むところでしたので」
主人はそう言うと、厨房へ入っていった。
三十分ほどして出てきたものは、私が想像していた“簡単なもの”とは少し違っていた。
小さな皿に、透き通るような岩魚の刺身。焼き目のついた岩魚。近くの畑で採れたという朝どれ野菜の浅漬け。湯気の立つ味噌汁。そして、白いご飯。
昨夜の林檎のパイと紅茶が似合う宿だと思っていたので、その和食の膳は、少し不釣り合いに見えた。
古い別荘を改装したような宿。小さなカウンター。木の壁に染みたバターの匂い。
そこに、岩魚の造りと焼き魚、ご飯と味噌汁。
合っていないようで、なぜか間違ってはいない。
「山の方から、今朝、届いたんです」
主人はそう言って、自分の分の膳もカウンターに置いた。
「一緒に食べても?」
「もちろんです」
もちろん、と言った自分の声が少し硬かった。
昨夜は正面に座られるよりカウンターの方がましだと思った。けれど昼の光の中で、同じカウンターに並んで食事をするのは、また別の落ち着かなさがあった。
主人は、私の隣から少し離れた席に座った。
近すぎない。
遠すぎもしない。
まただ、と思った。
一口、岩魚の刺身を食べた。
冷たかった。
川の水の冷たさが、そのまま身の中に残っているようだった。臭みはなく、淡く、静かで、噛むほどに甘みが出た。
焼き魚は、皮が香ばしく、身はふっくらしていた。野菜は、甘いというより、土の匂いがした。味噌汁は濃すぎず、薄すぎず、胃の中にゆっくり落ちていった。
おいしい。
そう思った。
でも、今日はそれをすぐには口にしなかった。
私は、昨日のようにはならないと決めていた。
私は岩魚の刺身を口に運びながら、ふと、今日帰るのだということを思い出した。
もともと一泊だけのつもりだった。
噂の宿を確かめて、翌朝には帰る。
それだけのはずだった。
けれど、すでに昼を過ぎているのに、私は帰る準備を何ひとつしていなかった。
もう一泊したら、何かがわかるのだろうか。
そう思った自分に、少し腹が立った。
私は何を期待しているのだろう。
この人に、何かを教えてもらおうとしているのだろうか。
だから私は、主人を見た。
見なければならない、と思った。
「あなたは」
箸を置かないまま、私は言った。
主人は、味噌汁の椀を手にしたまま、こちらを見た。
「はい」
「たぶん、昔、人との関係で傷ついたことがあるんだと思います」
言ってから、自分の声が少し硬いことに気づいた。
けれど、止めなかった。
昨夜からずっと、私は受け身のままだった。
この人の沈黙に揺らされ、言葉の少なさに乱され、何もされていないのに、自分の中を見せられているような気がしていた。
今日は、こちらが見る番だ。
「だから、人と深く関わることをやめた。踏み込まないし、踏み込ませない。でも、人に興味がないわけじゃない。むしろ、ずっと見ている。観察している」
主人は箸を置かなかった。
岩魚の身を静かにほぐしながら、ただ聞いていた。
「でも、その観察も、普通の人とは少し違います。相手を枠にはめないというか、結論を急がないというか……ただ受け止めようとしている」
そこまで言って、私は少しだけ手応えを感じた。
たぶん、近い。
そう思った瞬間、言葉に余計な力が入った。
「でも、それって、きれいな言い方をすればそうですけど、結局は逃げでもありますよね」
主人が、初めて少しだけこちらを見た。
私は続けた。
「都会の忙しさとか、仕事とか、人間関係とか、そういうものから離れて、自分のペースで生きられる場所を作った。誰にも踏み込まれず、自分のやり方だけが通る場所を」
自分で言いながら、どこかで言いすぎているとわかっていた。
でも、止まれなかった。
「この宿は、あなたにとって都合のいい場所なんじゃないですか。静かで、きれいで、誰もあなたに深く踏み込まない。あなたのわがままが通る場所」
最後の言葉は、思ったより鋭く出た。
食堂に、味噌汁の湯気だけがゆっくり立っていた。
主人は怒らなかった。
傷ついた顔もしなかった。
ただ、少しだけ考えるように目を伏せた。
「そう見えるところも、あるのかもしれませんね」
また、それだった。
私は箸を置いた。
「いつも、そうやって逃げるんですか」
主人は静かに顔を上げた。
「逃げているように見えますか」
「見えます」
言ってから、胸の奥が熱くなった。
私はこの人を見ているのだろうか。
それとも、私が嫌いだった誰かを、この人の上に重ねているのだろうか。
主人は、私の言葉を否定しなかった。
「あなたが見たものを、私が急いで否定する必要はないでしょう」
その一言で、私は急に、自分が恥ずかしくなった。
私はこの人を知ろうとしていたのではない。
この人を揺らそうとしていたのだ。
当たったと言わせたかった。
違うと怒らせたかった。
少しでも反応させて、この人も普通の人間なのだと確かめたかった。
でも、主人は揺れなかった。
揺れない人の前で、揺れているのは私だけだった。
私は、視線を膳に落とした。
岩魚の刺身が、まだ一切れ残っていた。透き通るような身は、さっきよりも冷たく見えた。
「すみません」
小さく言った。
主人は、しばらく黙っていた。
それから、味噌汁の椀を置き、岩魚の皿を少しだけ私の方へ寄せた。
「私は昔、サービスの仕事をしていたことがあります」
「サービス?」
「ええ。そのとき、教わりました。お客様は何もしなくていい。ただ一つだけ、していただきたいことがある」
「何ですか」
「冷たいものは冷たいうちに、温かいものは温かいうちに食べることです」
主人は、いつもの調子でそう言った。
「それだけは、こちらでは代われません」
私は、岩魚の刺身を見た。
透き通った身は、たしかに少しずつ温度を失っている。
それは料理の話だった。
たぶん。
けれど私は、その言葉のどこかに、自分のことを言われたような気がした。
受け取るべきものを、受け取るべきときに受け取る。
それだけは、誰にも代わってもらえない。
「……いただきます」
私は箸を取った。
食事のあと、主人が膳を下げながら言った。
「もし今夜もお泊まりでしたら、同じお部屋をそのままお使いいただけます」
私は少し驚いた。
「まだ、決めたわけでは」
「はい」
主人は、こちらを急かすことなく頷いた。
「夕方までにお知らせいただければ大丈夫です」
私は返事をしなかった。
帰る理由は、まだいくつもあった。
けれど、夕方までに帰る準備をする自分の姿は、なぜかうまく思い浮かばなかった。




