二 一口だけのパン
翌朝、いつもより早く目が覚めた。
よく眠れたわけではなかった。身体は重い。けれど、食堂へ降りなければならない気がした。
顔を洗い、ノートパソコンとファイルを持って階段を下りる。
食堂では、母親と娘らしい二人が、すでに窓際の席に座っていた。
一瞬、私は足を止めた。
女の子は、小学校高学年くらいに見えた。肩のあたりで切りそろえた髪。鉛筆を握った指が、少し力んでいる。
母親の前には、問題集が何冊も積まれていた。赤い付箋の貼られたテキスト。折り目のついたプリント。透明なファイルに入った成績表らしい紙。
テーブルには、朝食の皿も並んでいた。焼きたてのパン、卵料理、小さなサラダ、オレンジジュース。
けれど女の子のパンには、一口だけかじった跡があるだけだった。ジュースだけが、半分ほど減っている。
「おはようございます」
私は、なるべく自然に声をかけた。
母親が顔を上げた。
「おはようございます」
丁寧な返事だった。
女の子も少し遅れて、小さく頭を下げた。
「おはようございます」
その声は礼儀正しかった。けれど、そこには薄い膜のようなものがあった。
見ないでください。関わらないでください。今は、それどころではないんです。
そう言われたような気がした。
私は、少し離れた席に座った。
食堂には、朝食が静かに用意されていた。私はスープとパンを取り、自分の席に戻る。主人は少し離れたところでコーヒーを淹れていた。
「せっかく一週間ここに来たんだから、夏のあいだに少し戻そうね」
母親の声は穏やかだった。けれどその「戻そうね」という言葉に、旅行ではない重さがあった。
「焦らなくていいからね」
「朝は、計算と漢字だけでいいから。頭を慣らすだけ。ね」
言葉は優しかった。けれど、その優しさは、優しくあろうとしている声だった。
「昨日の分を少し戻せば大丈夫。真央ならできるから」
真央。
さっきまで知らなかった名前が、私の中に入ってきた。
真央ちゃんは何も言わず、計算ドリルに目を落とした。鉛筆の先が紙の上を動く。けれど、その動きは少しぎこちなかった。
問題を見ているようで、母親の声を聞いていた。母親の表情を気にしていた。鉛筆を動かしながら、次に間違えたらどうなるかを、先に見ているようだった。
あんなふうに言葉をかけられたら、緊張して問題なんて解けない。
お母さんがいないほうが、この子は朝の勉強もちゃんとできるのではないか。パンだって、もう少し食べられるのではないか。
そこまで考えて、私は手元のパンを見た。
まただ、と思った。
私はもう、母親を責める言葉を用意している。
ただ見たいと思ったのに。気づけば私は、もう誰が悪いのかを決めようとしていた。
「真央、ここのくり上がり、もう一度見て」
母親の声は、大きくはなかった。
「大丈夫。落ち着いてやればできるから」
落ち着いて。
その言葉が、真央ちゃんをさらに落ち着かなくさせているように見えた。
しばらくして、母親が鞄の中を探り始めた。
「あれ、昨日の漢字プリント、部屋に置いてきたかもしれない」
真央ちゃんは顔を上げた。
「取ってこようか」
「いいの。お母さんが行くから。計算、ここまで進めておいて」
母親はそう言って、席を立った。
足音が遠ざかると、食堂の中に、小さな空白ができた。
私は少し迷った。
声をかけるべきではない。
そう思った。
けれど、真央ちゃんの前に置かれたパンと、細く握られた鉛筆の指を見ていると、何も言わないまま座っていることが、どうしてもできなかった。
「あの」
真央ちゃんが、驚いたように顔を上げた。
私は、できるだけやわらかく笑った。
「朝から、一生懸命勉強していて偉いね」
真央ちゃんは、少し困ったように目を伏せた。
「偉くないです」
予想していなかった返事だった。
「そう?」
「はい」
真央ちゃんは、鉛筆の先を見つめたまま、小さく言った。
「お母さんが、悲しそうになるから」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で、何かが小さく鳴った。
私は占いをするとき、ときどき、相談者の言葉の奥に、その人のものではない重さが混じっているのを感じることがある。
本人の願いのようで、誰かの期待。本人の不安のようで、ずっと前から家の中にあった沈黙。
真央ちゃんの声には、それがあった。
この子は、自分の成績を怖がっているだけではない。母親の顔を怖がっている。母親が悲しむことを、自分の失敗のように感じている。
私は何かを言おうとした。
「真央ちゃん、それは――」
そのとき、廊下の向こうから足音が近づいてきた。
母親が戻ってきた。
手には、漢字プリントの束があった。
私は言葉を飲み込んだ。
母親は、私たちの間に流れた空気に気づいたのか、気づかなかったのか、少しだけ目を細めた。
「すみません、お待たせ」
その言葉は真央ちゃんに向けられていた。けれど、私にも向けられているように感じた。
私は何か言いかけた。
朝食くらい、ゆっくり食べさせてあげてもいいのではないか。お母さんの不安が、この子にそのまま伝わっているのではないか。
けれど、その言葉はどれも、母親を責める形をしていた。
私は、また飲み込んだ。
食事を終えると、私は主人に軽く頭を下げて食堂を出た。
部屋に戻るなり、机の前に座る。原稿を書こうとした。けれど画面を見る前に、頭の中では別の文章がいくつも浮かんでいた。
お母さん、あの子は十分頑張っています。
違う。それでは正論すぎる。
お母さんの不安が、真央ちゃんに伝わってしまっているのかもしれません。
これもだめだ。そんな言い方をされたら、責められたと感じるかもしれない。
そもそも私は、あの親子の何を知っているのだろう。
何か言わなければいけない気がしていた。真央ちゃんを守らなければいけない気がしていた。
でも、何を言えばいいのかわからない。
正しい言葉はいくつも浮かぶ。けれど正しい言葉ほど、相手を追い詰めることがある。
優しい言い方に変えようとしても、その奥にあるものは変わらない。
あなたのやり方は間違っています。
どんなに柔らかく包んでも、私が言おうとしていることは、結局そこへ戻ってしまう。
あの主人なら、何と言うだろう。
そう思った瞬間、胸の奥のざわめきが少しだけ形を変えた。
主人なら、すぐには言わない。たぶん、母親を責めない。真央ちゃんだけをかばうこともしない。
ただ、見る。
でも、見るだけで何が変わるのだろう。
私は、昼食の時間になったら、主人にこう言おうと決めた。
「お昼、ご一緒してもいいですか」
それが、今の私に言える、いちばん短い言葉だった。




