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悩みを抱えた客だけがたどり着く宿で、僕はあなたを守る者の声を聴く ~答えを教えない、不思議な宿の六つの物語~  作者: 牧静
第二章 成績表を握りしめた母

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三 責めたいのですか

昼食の時間になっても、私はすぐには部屋を出られなかった。


パソコンの画面には、白紙に近い鑑定文が残っている。書かなければいけない。そう思うほど、言葉は遠ざかっていった。


食堂に入ると、母娘の姿はなかった。


主人だけが、カウンターの奥で湯のみを静かに並べていた。


私は少し迷ってから、声をかけた。


「お昼、ご一緒してもいいですか」


言ってから、少し変な頼み方だと思った。


宿の主人に、昼食を一緒にしてほしいと頼む。普通なら、距離が近すぎるかもしれない。


けれど主人は、驚いた様子もなく、小さくうなずいた。


「どうぞ」


私は、カウンターに近い席に座った。


しばらくして、主人が昼食を運んできた。冷たいそうめんと、小さな野菜の天ぷら。青じそとみょうがの香りが、ふっと立ち上がる。


主人は、向かいではなく、少し斜めの席に座った。


真正面ではない。けれど、遠くもない。


その距離が、この人らしいと思った。


主人は、何も聞かなかった。


私は、その沈黙に背中を押されるように口を開いた。


「今朝のことなんですけど」


主人は、静かにこちらを見た。


「あの子が……真央ちゃんが、言ったんです」


そこまで言って、一度言葉を切った。


「お母さんが席を外したときに、私、声をかけたんです。朝から一生懸命勉強していて偉いねって」


主人は、うなずいた。


「そしたら、偉くないですって」


私は箸を置いた。


「お母さんが、悲しそうになるからって」


言い終えると、食堂の音が少し遠くなった。


蝉の声。扇風機の低い音。器の中で、そうめんの氷が小さく鳴る音。


主人は、すぐには何も言わなかった。


その沈黙が、私には少しもどかしかった。


「私、何か言ったほうがいいんじゃないかと思って」


声が少し早くなる。


「あんなふうに朝から勉強して、パンも一口しか食べていなくて。でもお母さんは、優しく励ましているつもりなんです。怒鳴っているわけではありません。でも、真央ちゃんは全然安心していないんです」


主人は、ただ聞いていた。


「朝食くらい勉強から離したほうがいいとか、真央ちゃんはもう十分頑張っているとか、お母さんの不安が伝わっているんじゃないかとか……でも、何を言っても、責めているみたいになる気がするんです」


主人は、ゆっくり湯のみを持ち上げた。


「責めたいのですか」


その声は、少しも鋭くなかった。それなのに、胸の奥をまっすぐ押されたような気がした。


「責めたいわけではありません」


私はすぐに答えた。


けれど、その答えは自分でも少し早すぎると思った。


主人は何も言わなかった。


「責めたいわけでは、ないと思います」


「では、何をしたいのでしょう」


私は黙った。


真央ちゃんを助けたい。守りたい。母親に気づいてほしい。


どれも本当だった。


でも、その奥に、もっと硬いものがあった。


私は、母親に「間違っている」と言いたいのかもしれない。


「わからないです」


私は言った。


「真央ちゃんを守りたいと思っています。でも、それが本当に真央ちゃんのためなのか、自分があのお母さんに腹を立てているだけなのか、わからなくなってきました」


主人は、静かにうなずいた。


「少なくとも、ご自分の中に混じっているものを見ようとしておられます」


「混じっているもの……」


「怒り。焦り。正しさ。過去の記憶。相手を変えたいという思い。そういうものが濁ったまま言葉になると、相手に届く前に、相手を押してしまいます」


私は、朝から考えていた言葉を思い出した。


お母さん、真央ちゃんは十分頑張っています。朝食くらい、勉強から離してあげてください。お母さんの不安が、あの子に伝わっています。


たしかに、それらは真央ちゃんを守る言葉のようでいて、母親を押す言葉だった。


「では、私は何も言わないほうがいいんでしょうか」


主人は、うなずきも首振りもしなかった。


「水瀬さんは、タロットをなさるのでしょう」


急にそう言われて、私は少し驚いた。


「はい」


「一度、カードを置いてみてはいかがですか」


「お母さんに、ですか」


「はい」


「でも、それは……あの人を変えるためになってしまいませんか」


主人は、静かにこちらを見た。


「変えるためではありません」


「では、何のために」


「水瀬さんが、あの方に何を見ているのか。それが少し見えるかもしれません」


私は、言葉を失った。


私は母親を見ているつもりだった。


真央ちゃんを苦しめている母親を。優しい言葉で圧をかけてしまう母親を。娘の朝食を見ず、計算ドリルを見ている母親を。


けれど主人は、そこではないものを見ているようだった。


「カードを置くなら、カウンターをお使いください」


昼食の終わりに、主人がそう言った。


「真央さんも、お母さまの姿が見えるほうがよいでしょう。お母さまも、真央さんの姿が見えるほうがよいと思います」


その言葉に、私は少し驚いた。


「離したほうがいいのかと思っていました」


主人は、湯のみを置いたまま言った。


「離れなければ見えないこともあります。近くにいるからこそ見えることもあります」


私は、朝の真央ちゃんの顔を思い出した。


お母さんが、悲しそうになるから。


真央ちゃんは、母親を見ていた。


母親は、真央ちゃんを見ているつもりで、何を見ているのだろう。


昼食のあと、私はしばらく食堂に残っていた。


主人の言葉が、まだ耳に残っている。


母親を変えるためではなく。真央ちゃんを救うためでもなく。私が、あの人に何を見ているのかを知るため。

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