三 責めたいのですか
昼食の時間になっても、私はすぐには部屋を出られなかった。
パソコンの画面には、白紙に近い鑑定文が残っている。書かなければいけない。そう思うほど、言葉は遠ざかっていった。
食堂に入ると、母娘の姿はなかった。
主人だけが、カウンターの奥で湯のみを静かに並べていた。
私は少し迷ってから、声をかけた。
「お昼、ご一緒してもいいですか」
言ってから、少し変な頼み方だと思った。
宿の主人に、昼食を一緒にしてほしいと頼む。普通なら、距離が近すぎるかもしれない。
けれど主人は、驚いた様子もなく、小さくうなずいた。
「どうぞ」
私は、カウンターに近い席に座った。
しばらくして、主人が昼食を運んできた。冷たいそうめんと、小さな野菜の天ぷら。青じそとみょうがの香りが、ふっと立ち上がる。
主人は、向かいではなく、少し斜めの席に座った。
真正面ではない。けれど、遠くもない。
その距離が、この人らしいと思った。
主人は、何も聞かなかった。
私は、その沈黙に背中を押されるように口を開いた。
「今朝のことなんですけど」
主人は、静かにこちらを見た。
「あの子が……真央ちゃんが、言ったんです」
そこまで言って、一度言葉を切った。
「お母さんが席を外したときに、私、声をかけたんです。朝から一生懸命勉強していて偉いねって」
主人は、うなずいた。
「そしたら、偉くないですって」
私は箸を置いた。
「お母さんが、悲しそうになるからって」
言い終えると、食堂の音が少し遠くなった。
蝉の声。扇風機の低い音。器の中で、そうめんの氷が小さく鳴る音。
主人は、すぐには何も言わなかった。
その沈黙が、私には少しもどかしかった。
「私、何か言ったほうがいいんじゃないかと思って」
声が少し早くなる。
「あんなふうに朝から勉強して、パンも一口しか食べていなくて。でもお母さんは、優しく励ましているつもりなんです。怒鳴っているわけではありません。でも、真央ちゃんは全然安心していないんです」
主人は、ただ聞いていた。
「朝食くらい勉強から離したほうがいいとか、真央ちゃんはもう十分頑張っているとか、お母さんの不安が伝わっているんじゃないかとか……でも、何を言っても、責めているみたいになる気がするんです」
主人は、ゆっくり湯のみを持ち上げた。
「責めたいのですか」
その声は、少しも鋭くなかった。それなのに、胸の奥をまっすぐ押されたような気がした。
「責めたいわけではありません」
私はすぐに答えた。
けれど、その答えは自分でも少し早すぎると思った。
主人は何も言わなかった。
「責めたいわけでは、ないと思います」
「では、何をしたいのでしょう」
私は黙った。
真央ちゃんを助けたい。守りたい。母親に気づいてほしい。
どれも本当だった。
でも、その奥に、もっと硬いものがあった。
私は、母親に「間違っている」と言いたいのかもしれない。
「わからないです」
私は言った。
「真央ちゃんを守りたいと思っています。でも、それが本当に真央ちゃんのためなのか、自分があのお母さんに腹を立てているだけなのか、わからなくなってきました」
主人は、静かにうなずいた。
「少なくとも、ご自分の中に混じっているものを見ようとしておられます」
「混じっているもの……」
「怒り。焦り。正しさ。過去の記憶。相手を変えたいという思い。そういうものが濁ったまま言葉になると、相手に届く前に、相手を押してしまいます」
私は、朝から考えていた言葉を思い出した。
お母さん、真央ちゃんは十分頑張っています。朝食くらい、勉強から離してあげてください。お母さんの不安が、あの子に伝わっています。
たしかに、それらは真央ちゃんを守る言葉のようでいて、母親を押す言葉だった。
「では、私は何も言わないほうがいいんでしょうか」
主人は、うなずきも首振りもしなかった。
「水瀬さんは、タロットをなさるのでしょう」
急にそう言われて、私は少し驚いた。
「はい」
「一度、カードを置いてみてはいかがですか」
「お母さんに、ですか」
「はい」
「でも、それは……あの人を変えるためになってしまいませんか」
主人は、静かにこちらを見た。
「変えるためではありません」
「では、何のために」
「水瀬さんが、あの方に何を見ているのか。それが少し見えるかもしれません」
私は、言葉を失った。
私は母親を見ているつもりだった。
真央ちゃんを苦しめている母親を。優しい言葉で圧をかけてしまう母親を。娘の朝食を見ず、計算ドリルを見ている母親を。
けれど主人は、そこではないものを見ているようだった。
「カードを置くなら、カウンターをお使いください」
昼食の終わりに、主人がそう言った。
「真央さんも、お母さまの姿が見えるほうがよいでしょう。お母さまも、真央さんの姿が見えるほうがよいと思います」
その言葉に、私は少し驚いた。
「離したほうがいいのかと思っていました」
主人は、湯のみを置いたまま言った。
「離れなければ見えないこともあります。近くにいるからこそ見えることもあります」
私は、朝の真央ちゃんの顔を思い出した。
お母さんが、悲しそうになるから。
真央ちゃんは、母親を見ていた。
母親は、真央ちゃんを見ているつもりで、何を見ているのだろう。
昼食のあと、私はしばらく食堂に残っていた。
主人の言葉が、まだ耳に残っている。
母親を変えるためではなく。真央ちゃんを救うためでもなく。私が、あの人に何を見ているのかを知るため。




