四 三枚のカード
しばらくして、母親と真央ちゃんが食堂に戻ってきた。
真央ちゃんは、問題集とノートを抱えている。母親は、透明のファイルと筆箱を持っていた。
二人は、窓際の席に腰を下ろした。
「午後は、ここで少しやろうか。部屋だと眠くなっちゃうものね」
母親の声は穏やかだった。
けれど真央ちゃんの肩は、やはり少し上がっていた。
私は息を吸った。
今なら、声をかけられるかもしれない。
立ち上がろうとして、やめた。もう一度、息を吸った。
何を話すかを考えなくていい。
胸の奥で、あの声がかすかに響いた。
けれど、何も考えずに声をかけることなど、私にはまだできなかった。
私は席を立ち、二人のテーブルへ近づいた。
「あの。少しだけ、よろしいですか」
母親が顔を上げた。
「はい」
丁寧な返事だった。けれど、やはりどこかに壁があった。
私は少しぎこちなく笑った。
「私、タロットの占い師をしているんです」
言った瞬間、自分でも不自然だと思った。
「もしよければ、少し見てみませんか。無料で大丈夫ですので」
母親は困ったように視線を落とした。
「でも……娘が勉強しているのに、私がそんな、遊びみたいなことをしているわけには」
遊び。
その言葉に、私は少しだけ背筋を伸ばした。
「遊びではないんです」
思っていたより、はっきりした声が出た。
私は慌てて、声をやわらげた。
「未来を当てるというより、今の状態を見るものに近いと思っています。先のことを考えるほど、今の心が散ってしまうことがあります。何をどうすればいいかの前に、まず今、どこに力が入っているのかを見るだけでも、少し変わることがあるんです」
母親は、まだ迷っているようだった。
私は言葉を探した。
「娘さんのために、今いちばん大事なものが何なのか。少し一緒に見てみるだけでも、意味があるかもしれません」
言った瞬間、自分の胸の奥に小さな濁りが走った。
娘さんのため。
そう言えば、この人は耳を傾ける。私はそれを、どこかでわかっていて言ったのかもしれない。
母親の表情が、わずかに変わった。
「娘のために、ですか」
「はい」
その返事は、嘘ではなかった。けれど、すべてでもなかった。
母親は真央ちゃんを見た。
「……少しだけなら」
母親が言った。
「真央、ここ、続けていられる?」
「うん」
真央ちゃんは、すぐにうなずいた。その早さが、また少しだけ胸に残った。
そのとき、カウンターの奥から主人の声がした。
「こちらをお使いください」
振り向くと、主人がカウンターの一角に白い布を敷いていた。
まるで、最初からそうなることがわかっていたようだった。
私はバッグからタロットカードを取り出した。
母親は、カウンターの椅子に腰を下ろした。
真央ちゃんの席からは、母親の横顔が見える。母親からも、少し振り向けば真央ちゃんの姿が見える。
近すぎず、遠すぎない。
主人の言った通りの距離だった。
そのとき、ふわりと甘い香りがした。
「ちょうど焼き上がりましたので」
主人が、薄く焼かれたクッキーを持ってきた。
「コーヒーも、お淹れします」
真央ちゃんが、テーブルのほうからクッキーをちらりと見た。
その視線はほんの一瞬だった。けれど私は、見逃さなかった。
「真央さんにも、あとでお持ちします」
主人がそう言うと、真央ちゃんは少し驚いたように顔を上げた。
「……ありがとうございます」
母親は何か言いかけて、やめた。
勉強中だから。甘いものはあとで。
そんな言葉が、口元まで来ていたのかもしれない。
その何も言わなかったことが、今は小さな変化のように感じられた。
私はカードを切り、三枚を伏せたまま布の上に並べた。
「未来を決めるためではなく、今の状態を見るためです」
一枚目。
「今、表に出ている不安」
二枚目。
「その奥にあるもの」
三枚目。
「今、戻る場所」
私は、一枚目をめくった。
ソードの九。
ベッドに座り、顔を覆う人物。暗い背景に並ぶ剣。
「これは、頭の中で不安が繰り返されているときに出ることが多いカードです」
母親の表情が、わずかにこわばった。
「まだ起きていないことを、何度も考えてしまう。考えれば考えるほど、心も身体も休まらなくなる」
母親は、コーヒーカップの縁に手を触れた。けれど、飲まなかった。
「……心配しない親なんて、いないと思います」
その声には、少しだけ防御があった。
「はい。心配することが悪いわけではありません。ただ、このカードは、心配が今の力を奪っているときに出ることがあります」
私は二枚目をめくった。
カップの五。
黒い衣をまとった人物が、倒れた杯を見つめている。背後には、まだ立っている杯がある。
「これは、過去の後悔や、失ったものに心が向いているカードです」
そう言いながら、私の胸の奥が小さく揺れた。
それは、目の前の母親だけのことではなかった。
白石さんのメールを前に、まだ起きていない拒絶を見ていた私。過去に遠ざかっていった人たちを、今の白石さんに重ねていた私。
私は一瞬、言葉を失いかけた。
「娘さんの未来を心配しているようで、もしかすると、その奥に、お母さまご自身の過去の後悔があるのかもしれません」
母親の指が、カップの取っ手から離れた。
「私の、過去ですか」
母親は言いかけて、口を閉じた。
真央ちゃんの鉛筆の音が、少し止まった。
母親はそれに気づいたのか、ふっと横を見た。真央ちゃんは慌てたように、また問題集に目を落とした。
私は三枚目をめくった。
節制。
水を移し替える天使。片足は水に、もう片足は地に触れている。
「これは、整えるカードです」
私は言った。
「どちらかに振り切るのではなく、混ぜる。急がず、少しずつ流れを戻していく」
母親は、じっとカードを見ていた。
「受験をやめるとか、勉強しなくていいとか、そういう話ではありません。でも、未来を心配する力ばかりが強くなると、今の娘さんを見る力が弱くなってしまうことがあります」
言い終えたあと、胸の奥が小さくざわついた。母親に向けた言葉のはずなのに、そのまま私自身にも返ってきた気がした。
「今、戻る場所は、たぶん、とても小さいところです」
「小さいところ?」
「はい。たとえば、今食べること。今休むこと。今、一問を見ること。今、娘さんの顔を見ること」
母親の表情が、少しだけ揺れた。
「顔……」
「はい。結果の前に、今ここにいる娘さんを見ること。そこに戻る必要があるのかもしれません」
母親は何も言わなかった。
ただ、真央ちゃんのほうを見た。
その視線に気づいた真央ちゃんが、少しだけ顔を上げる。
二人の目が合った。
ほんの一瞬だった。
私は、その一瞬を見ていた。
そして、ようやく思った。
私はこの人のことを、まだ何も知らない。
この人が何を恐れているのか。なぜ、あれほど未来に急がされているのか。真央ちゃんの成績表の向こうに、何を見ているのか。
何も知らないまま、私はこの人を責めようとしていた。
母親は、しばらくしてから、ようやくコーヒーに口をつけた。
「……不思議ですね」
小さな声だった。
「娘のことを見てもらうつもりだったのに、私のことばかり言われている気がします」
私は、すぐには答えられなかった。
そのとき、主人が静かに言った。
「見えなくなることは、誰にでもあります」
母親が主人を見た。
「大切に思うものほど、失うことが怖くなります。怖くなると、人は今あるものではなく、失われるかもしれないものを見始めます」
食堂が静かになった。
蝉の声だけが、遠くから重なって聞こえている。




