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悩みを抱えた客だけがたどり着く宿で、僕はあなたを守る者の声を聴く ~答えを教えない、不思議な宿の六つの物語~  作者: 牧静
第二章 成績表を握りしめた母

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四 三枚のカード

しばらくして、母親と真央ちゃんが食堂に戻ってきた。


真央ちゃんは、問題集とノートを抱えている。母親は、透明のファイルと筆箱を持っていた。


二人は、窓際の席に腰を下ろした。


「午後は、ここで少しやろうか。部屋だと眠くなっちゃうものね」


母親の声は穏やかだった。


けれど真央ちゃんの肩は、やはり少し上がっていた。


私は息を吸った。


今なら、声をかけられるかもしれない。


立ち上がろうとして、やめた。もう一度、息を吸った。


何を話すかを考えなくていい。


胸の奥で、あの声がかすかに響いた。


けれど、何も考えずに声をかけることなど、私にはまだできなかった。


私は席を立ち、二人のテーブルへ近づいた。


「あの。少しだけ、よろしいですか」


母親が顔を上げた。


「はい」


丁寧な返事だった。けれど、やはりどこかに壁があった。


私は少しぎこちなく笑った。


「私、タロットの占い師をしているんです」


言った瞬間、自分でも不自然だと思った。


「もしよければ、少し見てみませんか。無料で大丈夫ですので」


母親は困ったように視線を落とした。


「でも……娘が勉強しているのに、私がそんな、遊びみたいなことをしているわけには」


遊び。


その言葉に、私は少しだけ背筋を伸ばした。


「遊びではないんです」


思っていたより、はっきりした声が出た。


私は慌てて、声をやわらげた。


「未来を当てるというより、今の状態を見るものに近いと思っています。先のことを考えるほど、今の心が散ってしまうことがあります。何をどうすればいいかの前に、まず今、どこに力が入っているのかを見るだけでも、少し変わることがあるんです」


母親は、まだ迷っているようだった。


私は言葉を探した。


「娘さんのために、今いちばん大事なものが何なのか。少し一緒に見てみるだけでも、意味があるかもしれません」


言った瞬間、自分の胸の奥に小さな濁りが走った。


娘さんのため。


そう言えば、この人は耳を傾ける。私はそれを、どこかでわかっていて言ったのかもしれない。


母親の表情が、わずかに変わった。


「娘のために、ですか」


「はい」


その返事は、嘘ではなかった。けれど、すべてでもなかった。


母親は真央ちゃんを見た。


「……少しだけなら」


母親が言った。


「真央、ここ、続けていられる?」


「うん」


真央ちゃんは、すぐにうなずいた。その早さが、また少しだけ胸に残った。


そのとき、カウンターの奥から主人の声がした。


「こちらをお使いください」


振り向くと、主人がカウンターの一角に白い布を敷いていた。


まるで、最初からそうなることがわかっていたようだった。


私はバッグからタロットカードを取り出した。


母親は、カウンターの椅子に腰を下ろした。


真央ちゃんの席からは、母親の横顔が見える。母親からも、少し振り向けば真央ちゃんの姿が見える。


近すぎず、遠すぎない。


主人の言った通りの距離だった。


そのとき、ふわりと甘い香りがした。


「ちょうど焼き上がりましたので」


主人が、薄く焼かれたクッキーを持ってきた。


「コーヒーも、お淹れします」


真央ちゃんが、テーブルのほうからクッキーをちらりと見た。


その視線はほんの一瞬だった。けれど私は、見逃さなかった。


「真央さんにも、あとでお持ちします」


主人がそう言うと、真央ちゃんは少し驚いたように顔を上げた。


「……ありがとうございます」


母親は何か言いかけて、やめた。


勉強中だから。甘いものはあとで。


そんな言葉が、口元まで来ていたのかもしれない。


その何も言わなかったことが、今は小さな変化のように感じられた。


私はカードを切り、三枚を伏せたまま布の上に並べた。


「未来を決めるためではなく、今の状態を見るためです」


一枚目。


「今、表に出ている不安」


二枚目。


「その奥にあるもの」


三枚目。


「今、戻る場所」


私は、一枚目をめくった。


ソードの九。


ベッドに座り、顔を覆う人物。暗い背景に並ぶ剣。


「これは、頭の中で不安が繰り返されているときに出ることが多いカードです」


母親の表情が、わずかにこわばった。


「まだ起きていないことを、何度も考えてしまう。考えれば考えるほど、心も身体も休まらなくなる」


母親は、コーヒーカップの縁に手を触れた。けれど、飲まなかった。


「……心配しない親なんて、いないと思います」


その声には、少しだけ防御があった。


「はい。心配することが悪いわけではありません。ただ、このカードは、心配が今の力を奪っているときに出ることがあります」


私は二枚目をめくった。


カップの五。


黒い衣をまとった人物が、倒れた杯を見つめている。背後には、まだ立っている杯がある。


「これは、過去の後悔や、失ったものに心が向いているカードです」


そう言いながら、私の胸の奥が小さく揺れた。


それは、目の前の母親だけのことではなかった。


白石さんのメールを前に、まだ起きていない拒絶を見ていた私。過去に遠ざかっていった人たちを、今の白石さんに重ねていた私。


私は一瞬、言葉を失いかけた。


「娘さんの未来を心配しているようで、もしかすると、その奥に、お母さまご自身の過去の後悔があるのかもしれません」


母親の指が、カップの取っ手から離れた。


「私の、過去ですか」


母親は言いかけて、口を閉じた。


真央ちゃんの鉛筆の音が、少し止まった。


母親はそれに気づいたのか、ふっと横を見た。真央ちゃんは慌てたように、また問題集に目を落とした。


私は三枚目をめくった。


節制。


水を移し替える天使。片足は水に、もう片足は地に触れている。


「これは、整えるカードです」


私は言った。


「どちらかに振り切るのではなく、混ぜる。急がず、少しずつ流れを戻していく」


母親は、じっとカードを見ていた。


「受験をやめるとか、勉強しなくていいとか、そういう話ではありません。でも、未来を心配する力ばかりが強くなると、今の娘さんを見る力が弱くなってしまうことがあります」


言い終えたあと、胸の奥が小さくざわついた。母親に向けた言葉のはずなのに、そのまま私自身にも返ってきた気がした。


「今、戻る場所は、たぶん、とても小さいところです」


「小さいところ?」


「はい。たとえば、今食べること。今休むこと。今、一問を見ること。今、娘さんの顔を見ること」


母親の表情が、少しだけ揺れた。


「顔……」


「はい。結果の前に、今ここにいる娘さんを見ること。そこに戻る必要があるのかもしれません」


母親は何も言わなかった。


ただ、真央ちゃんのほうを見た。


その視線に気づいた真央ちゃんが、少しだけ顔を上げる。


二人の目が合った。


ほんの一瞬だった。


私は、その一瞬を見ていた。


そして、ようやく思った。


私はこの人のことを、まだ何も知らない。


この人が何を恐れているのか。なぜ、あれほど未来に急がされているのか。真央ちゃんの成績表の向こうに、何を見ているのか。


何も知らないまま、私はこの人を責めようとしていた。


母親は、しばらくしてから、ようやくコーヒーに口をつけた。


「……不思議ですね」


小さな声だった。


「娘のことを見てもらうつもりだったのに、私のことばかり言われている気がします」


私は、すぐには答えられなかった。


そのとき、主人が静かに言った。


「見えなくなることは、誰にでもあります」


母親が主人を見た。


「大切に思うものほど、失うことが怖くなります。怖くなると、人は今あるものではなく、失われるかもしれないものを見始めます」


食堂が静かになった。


蝉の声だけが、遠くから重なって聞こえている。

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