五 見えなくなること
母親は、席を立ちながら、ふと口元だけでつぶやいた。
「そんなに、見えていないんでしょうか」
独り言のようにも、私に確かめているようにも聞こえた。
私はすぐには答えられなかった。
その問いが、私にも向けられている気がしたからだ。
母親は、真央ちゃんの席へ戻った。
真央ちゃんがノートを指差す。
「お母さん、ここ、これでいいの?」
母親は、いつものようにすぐ赤を入れようとして、手を止めた。
「……うん。合ってると思う」
真央ちゃんは、少し驚いたように母親を見た。
「ほんと?」
「うん。ちゃんとできてる」
その声は、まだ少し硬かった。けれど、さっきまでの張りつめた硬さとは違っていた。
真央ちゃんは、ほっとしたように目を伏せた。
席には、主人が置いたクッキーの小皿があった。
真央ちゃんは問題集を見ながら、ちらりとクッキーを見た。けれど、手を伸ばさなかった。
母親もそれに気づいたらしい。
一瞬、何かを言いかけた。
でも、母親は言わなかった。
かわりに、少しだけ間を置いて言った。
「食べてもいいよ」
真央ちゃんは、また驚いたように顔を上げた。
「いいの?」
「うん。せっかく出していただいたんだから」
真央ちゃんは、そっとクッキーを一枚取った。
小さくかじる。
そのとき、真央ちゃんの顔が、ほんの少しだけほどけた。
笑った、とまでは言えない。けれど、朝からずっと固まっていた頬が、少しだけやわらいだ。
私はその顔を見て、胸の奥が静かにゆるむのを感じた。
変わったのかもしれない。
少しだけでも。
そう思って、私はタロットカードを箱に戻し、部屋へ戻った。
けれど原稿は開けなかった。
三枚のカードの絵が、まだ胸の奥に残っていた。
少し横になったつもりが、いつの間にか眠っていた。
目が覚めると、部屋の光は夕方の色に変わっていた。
顔を洗い、食堂へ降りる。
母親の声には、また焦りが戻っていた。
「あと一ページだけやろうか。夕食までにここまで終わらせておけば、夜は少し楽になるから」
声は穏やかだった。
けれど、その優しさの底に、不安が張っていた。
真央ちゃんの肩は、また少し上がっている。
昼のあの一瞬は、たしかにあった。クッキーを食べる真央ちゃん。それを黙って見ていた母親。少しだけほどけた空気。
でも、今はまた戻っている。
人は、一度気づいたからといって、すぐに変われるわけではない。
母親もきっと、変わろうとしている。真央ちゃんを見ようとしている。優しくしようとしている。
けれど、心の奥にある不安は、そんなに簡単には静まらない。
私は、昼に自分が感じた安心を思い出した。
大丈夫かもしれない。
少し変わったのかもしれない。
そう思ったのは、私のほうの願いだったのかもしれない。
私はまた、見たいものを見ていたのだろうか。




