↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
悩みを抱えた客だけがたどり着く宿で、僕はあなたを守る者の声を聴く ~答えを教えない、不思議な宿の六つの物語~  作者: 牧静
第二章 成績表を握りしめた母

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
13/45

五 見えなくなること

母親は、席を立ちながら、ふと口元だけでつぶやいた。


「そんなに、見えていないんでしょうか」


独り言のようにも、私に確かめているようにも聞こえた。


私はすぐには答えられなかった。


その問いが、私にも向けられている気がしたからだ。


母親は、真央ちゃんの席へ戻った。


真央ちゃんがノートを指差す。


「お母さん、ここ、これでいいの?」


母親は、いつものようにすぐ赤を入れようとして、手を止めた。


「……うん。合ってると思う」


真央ちゃんは、少し驚いたように母親を見た。


「ほんと?」


「うん。ちゃんとできてる」


その声は、まだ少し硬かった。けれど、さっきまでの張りつめた硬さとは違っていた。


真央ちゃんは、ほっとしたように目を伏せた。


席には、主人が置いたクッキーの小皿があった。


真央ちゃんは問題集を見ながら、ちらりとクッキーを見た。けれど、手を伸ばさなかった。


母親もそれに気づいたらしい。


一瞬、何かを言いかけた。


でも、母親は言わなかった。


かわりに、少しだけ間を置いて言った。


「食べてもいいよ」


真央ちゃんは、また驚いたように顔を上げた。


「いいの?」


「うん。せっかく出していただいたんだから」


真央ちゃんは、そっとクッキーを一枚取った。


小さくかじる。


そのとき、真央ちゃんの顔が、ほんの少しだけほどけた。


笑った、とまでは言えない。けれど、朝からずっと固まっていた頬が、少しだけやわらいだ。


私はその顔を見て、胸の奥が静かにゆるむのを感じた。


変わったのかもしれない。

少しだけでも。

そう思って、私はタロットカードを箱に戻し、部屋へ戻った。

けれど原稿は開けなかった。

三枚のカードの絵が、まだ胸の奥に残っていた。

少し横になったつもりが、いつの間にか眠っていた。

目が覚めると、部屋の光は夕方の色に変わっていた。

顔を洗い、食堂へ降りる。

母親の声には、また焦りが戻っていた。


「あと一ページだけやろうか。夕食までにここまで終わらせておけば、夜は少し楽になるから」


声は穏やかだった。


けれど、その優しさの底に、不安が張っていた。


真央ちゃんの肩は、また少し上がっている。


昼のあの一瞬は、たしかにあった。クッキーを食べる真央ちゃん。それを黙って見ていた母親。少しだけほどけた空気。


でも、今はまた戻っている。


人は、一度気づいたからといって、すぐに変われるわけではない。


母親もきっと、変わろうとしている。真央ちゃんを見ようとしている。優しくしようとしている。


けれど、心の奥にある不安は、そんなに簡単には静まらない。


私は、昼に自分が感じた安心を思い出した。


大丈夫かもしれない。

少し変わったのかもしれない。


そう思ったのは、私のほうの願いだったのかもしれない。


私はまた、見たいものを見ていたのだろうか。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。