六 桃のコンポート
夕食後、主人が小さな器を三つ、カウンターに並べた。
「よろしければ、少しだけ」
器の中には、薄い琥珀色のシロップに浸かった桃が入っていた。白桃の果肉は、夜の灯りを吸ったように淡く透けている。
「桃のコンポートです」
私と母親と真央ちゃんは、いつの間にか三人並んでカウンターに座っていた。真央ちゃんが真ん中。その右に母親。左に私。
「きれい……」
真央ちゃんが、思わず小さく言った。
その声は、勉強の話をしているときとは少し違っていた。年相応の、柔らかい声だった。
母親が、ほんの一瞬だけ真央ちゃんを見た。
「食べていいよ」
そう言ってから、少しだけ苦笑した。
「デザートなんだから」
真央ちゃんは、ほっとしたように桃をすくった。口に入れると、ほんの少し目を細める。
「桃は」
主人が静かに言った。
「煮ているときより、冷めていくときに味が入ります」
母親が、器から顔を上げた。
「冷めるときに、ですか」
「はい。火にかけているあいだは、まだ中まで落ち着きません。火から下ろして、ゆっくり冷めていくあいだに、シロップが果肉に入っていきます」
主人の声は、料理の説明をしているだけのようだった。
「熱いときにも、もちろん変わります。けれど、強く火を入れすぎると崩れてしまいます。大切なのは、火を入れる時間と、冷ます時間の加減です」
母親の手が、器の横で止まった。
「人も、力を入れられている最中には、なかなか受け取れないことがあります」
食堂が静かになった。
外では、夜の虫の声がし始めていた。昼の蝉とは違う、細く遠い音だった。
「少し力が抜けたときに、ようやく届く言葉もあります」
母親は、黙っていた。
やがて、小さく息を吸った。
「昼間、言われたことを、少し考えていました」
主人は何も言わず、ただ母親を見た。
「大切に思うものほど、失うことが怖くなるって。怖くなると、今あるものではなく、失われるかもしれないものを見始めるって」
母親は、真央ちゃんが隣にいることを気にしているようだった。言葉を選びながら、それでも止められないように続けた。
「私は……この子の幸せを考えているんです」
その声は、少し震えていた。
「ただ勉強させたいわけじゃありません。いい学校に入れば全部うまくいくなんて、そんな単純なことを思っているわけでもありません。でも、選べる道が多いほうがいいじゃないですか。あとで、あのときもっとやっておけばよかったって、この子に思ってほしくないんです」
真央ちゃんのスプーンが止まった。
「私は、この子を追い詰めたいわけじゃないんです。この子の幸せを一生懸命考えているんです。それなのに……どうして私が悪いみたいになるんですか」
食堂の空気が、静かに張りつめた。
私は、何か言わなければと思った。
違うんです。
誰もお母さんを責めたいわけではありません。
そんな言葉が浮かんだ。
でも、どれも違った。
今、私が言えば、また母親を押してしまう気がした。
主人は、母親を責めることも、なだめることもしなかった。
ただ、しばらく沈黙したあとで、静かに言った。
「悪い、というお話ではありません」
母親は顔を上げた。
「では、何なんですか」
声にはまだ震えが残っていた。
「苦しい、というお話だと思います」
母親の表情が止まった。
「お母さまが、苦しいのだと思います」
その一言で、母親の目の奥が揺れた。
真央ちゃんが母親を見た。
「お母さん……?」
母親は、慌てて顔をそらした。
「大丈夫」
その声は、大丈夫ではない人の声だった。
しばらくして、母親は小さく言った。
「ここに来れば、少し流れが変わるかもしれないって……聞いたんです」
私は、思わず母親を見た。
「知り合いが、前にここに泊まって。帰ってから、ずっと悩んでいたことが少し動いたって言っていました。運が良くなる宿だなんて、そんな言い方をして」
母親は、少しだけ苦笑した。
「私は、そういう話を信じて来たわけじゃありません。ただ、夏の間にどこか静かな場所で勉強させるなら、ここがいいかもしれないと思って。少しでも、この子にいい流れが来るならって」
その言葉を聞いて、私は初めて気づいた。
この人もまた、何かにすがりたい気持ちを隠して、ここに来ていたのだ。
主人は、静かにうなずいた。
「流れを変えたいのですね」
母親は、何も答えなかった。
答えないことが、答えのようだった。
主人は、少し間を置いて言った。
「よろしければ、少し奥で休まれますか」
母親は顔を上げた。
「奥……ですか」
「あの……それが、その、聞いていたものなんでしょうか」
主人は、はっきりとは答えなかった。
「何かを変える場所ではありません。ただ、静かに、ご自分の声を聞くための部屋です」
母親は黙った。
真央ちゃんも、器を持ったまま、母親と主人を交互に見ていた。
「でも、真央は……」
「真央さんはこちらでお茶を飲んでいてください。すぐに戻れます」
真央ちゃんは、小さくうなずいた。
けれど母親は、まだ迷っていた。
そして、ふと私を見た。
昼間、タロットをしていたときと同じ目だった。
責められたくない。
でも、ひとりでは受け止められない。
そんな目だった。
「水瀬さんも……一緒に来ていただけますか」
私は、思わず息を止めた。
「私が、ですか」
「はい。すみません。でも……少し、怖くて」
私が立ち会っていいのだろうか。
私はまだ、この母親をちゃんと見られていない。真央ちゃんを守りたいと思いながら、母親を責めていた。
けれど、母親は私にいてほしいと言った。
助けてほしい、ではない。
正してほしい、でもない。
ただ、一緒に来てほしい。
主人が私を見た。
「水瀬さんがよろしければ」
胸の奥で、あの声を聞いた。
ただ見なさい。
私は、小さくうなずいた。
「私でよければ」
母親は、ほっとしたように息を吐いた。




