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悩みを抱えた客だけがたどり着く宿で、僕はあなたを守る者の声を聴く ~答えを教えない、不思議な宿の六つの物語~  作者: 牧静
第二章 成績表を握りしめた母

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七 掲示板の前の子

母親が席を立つ。


私も、そのあとに続いた。


主人は廊下の奥へ進み、古い階段を上がった。


真央ちゃんのいる食堂の気配と、桃の甘い香りが、少しずつ遠ざかっていく。


二階の廊下の突き当たりには、藍色の布が垂れていた。

前に来たとき、カーテンだと思った古い布だった。


主人がその布を静かに横へ払うと、その奥には、ほとんど何もない部屋があった。


余計な家具も、飾りもない。暗い床と、弱い灯り。そして部屋の中央に、深く身体を預けられる椅子が一つだけ置かれていた。


「どうぞ」


母親はためらいながら部屋へ入り、その椅子に腰を下ろした。座った瞬間、身体が深く沈むように見えた。


主人は、椅子の少し横に立った。


私は、藍色の布のそばで足を止めた。


「水瀬さんは、そちらで」


主人がこちらを見ずに言った。


入り口近くに立ったまま、母親を見る。


部屋の奥へは入らない。けれど、離れているわけでもない。


その距離が、今の私にはちょうどよかった。


母親は、椅子の上で両手をゆるく置いていた。先ほどまで食堂で震えていた指先も、今は不思議なほど静かだった。


「何をすればいいんでしょうか」


母親が、小さく聞いた。


「何かをしていただく必要はありません」


主人は静かに言った。


「ただ、浮かんでくるものを、そのまま言葉にしてみてください」


「でも……何を話せばいいのか」


主人は、少しだけ目を伏せた。


「今、何がいちばん怖いですか」


母親の表情が止まった。


母親はしばらく黙っていた。


「真央が……失敗することです」


ようやく出てきた声は、かすれていた。


「受験で、思うようにいかなくて、自信をなくしてしまうこと。あの子が、自分はできない子なんだと思ってしまうこと」


「その怖さは、いつからありますか」


母親は答えようとして、口を閉じた。


沈黙が長くなる。


やがて、小さく息を吸った。


「私も……中学受験をしたんです」


その声は、さっきより低かった。


「第一志望に落ちました。母が、どうしても行かせたがっていた学校でした。私も、そこに行くものだと思っていました。塾でも、先生に大丈夫だと言われていて……」


そこで、母親は少し笑った。けれど、その笑いは乾いていた。


「大丈夫じゃなかったんです」


そう言ったあと、母親はふっと力を抜いた。


深い背もたれに、身体がゆっくり沈んでいく。部屋の弱い灯りの中で、母親のまぶたがゆっくり下りていった。


眠っているわけではなかった。けれど、目の前の部屋ではなく、もっと遠い場所を見始めたように見えた。


「合格発表の日のことを、今でも覚えています」


目を閉じたまま、母親は言った。


「掲示板の前に、人がたくさんいて。母が私の手を引いていて。私は、自分の番号を探していました。何度も見ました。上から下まで。もう一度、上から。見落としているだけかもしれないと思って」


指先も、膝も、肩も、力を失ったように静かだった。


ただ、閉じたまぶたの下で、目がかすかに動いていた。その奥で、何かを見ているのだとわかった。


「でも、ありませんでした」


母親はそう言ってから、黙った。


主人が静かに聞いた。


「そのとき、何がいちばんつらかったですか」


母親の唇が震えた。


「番号がなかったこと……だと思っていました。でも、違うかもしれません」


母親は、目を閉じたまま、ゆっくり首を振った。


「番号がなかったことより、母が何も言わなかったことのほうを覚えています」


その瞬間、朝の真央ちゃんの声が、私の中に戻ってきた。


お母さんが、悲しそうになるから。


「怒られたわけじゃないんです。責められたわけでもありません。母は、たぶん、私を責めないようにしていたんだと思います」


言葉の形はまだ大人のものだった。


けれど、その奥から、別の声がにじみ始めていた。


「でも、黙ったんです」


母親の声が、少し幼くなった。


「手をつないでいたのに、急に力が抜けて。私のほうを見ないで、掲示板を見たまま、黙っていました」


「それが、怖かったんです」


母親の喉が、小さく鳴った。


「怒ってくれたほうがよかった」


私は、はっとした。


今、話しているのは、大人の母親なのだろうか。それとも、あの日、掲示板の前に立っていた小さな女の子なのだろうか。


母親は、目を閉じたまま、深い椅子に身体を預けていた。腕は、力を失ったまま、肘掛けの上に置かれている。指先も、膝も、肩も、眠っているように静かだった。


その身体の静けさとは反対に、声だけが、奥のほうから浮かび上がってきた。


「怒られたら、ごめんなさいって言えたのに。泣かれたら、私も泣けたのに。でも、お母さん、何も言わなかったの」


母親の閉じた目から、涙がひとつ落ちた。


頬を伝っても、彼女はそれを拭おうとしなかった。


「私、どうしたらいいかわからなかった」


その言葉は、真央ちゃんの姿と重なった。


一口だけかじられたパン。オレンジジュースだけが減ったグラス。鉛筆を握る細い指。


母親は、あの日の自分だったのかもしれない。


そして真央ちゃんは今、その母親の沈黙と表情を見ている。


「お母さん、悲しそうだった」


その声に、私は胸の奥が痛くなった。


「私のせいで、悲しそうだった」


それは、真央ちゃんが言った言葉とほとんど同じだった。


「私、ちゃんとやったのに。塾も行ったし、宿題もやったし、眠くてもやったのに。お母さんが喜ぶと思ったから。でも、番号なかったの」


主人は、静かに聞いた。


「そのとき、何と言ってほしかったですか」


母親は、すぐには答えなかった。身体は深く椅子に預けられたまま、ほとんど動かなかった。ただ、唇だけが小さく震えた。


「……がんばったねって」


とても小さな声だった。


「番号がなくても、がんばったねって」


その言葉を聞いた瞬間、私の喉の奥が熱くなった。


「だめだった私でも、見てほしかった」


それは、たぶん、何十年も言葉にならなかった声だった。


主人は、少しだけ声を低くした。


「その子は、まだそこにいるのですね」


母親は、目を閉じたまま、ほんのわずかにうなずいた。


「いる」


幼い声が答えた。


「ずっといる」


「何を待っていますか」


「お母さんが、こっちを見てくれるのを」


部屋の中が、さらに深く沈んだ。


私は、その言葉を聞きながら、母親が真央ちゃんを見られなくなっていた理由を、ようやく少しだけ理解した気がした。


母親は、真央ちゃんの未来を見ていたのではない。


あの日、掲示板の前で立ち尽くしていた自分を見ていた。


何も言われず、見てもらえなかった自分を、娘の成績表の中に見ていた。


主人は、静かに言った。


「真央さんは、その子ではありません」


母親のまぶたが、かすかに震えた。


「真央さんの受験は、その子のやり直しではありません」


母親の唇が小さく開いた。


声はまだ幼かった。


「でも、失敗したら、悲しい」


「はい。悲しいかもしれません」


主人はうなずいた。


「けれど、悲しむことと、その子を見失うことは違います」


母親は黙った。


「真央さんが失敗しないように守りたい。そう思うのは、愛かもしれません。でも、失敗した真央さんを見たくないと思うなら、それは、あの日のご自分の痛みかもしれません」


母親は、何かを言おうとした。けれど言葉にならず、唇だけが震えた。


「私は……真央に、あんな顔をさせたくなかった」


主人は、静かにうなずいた。


「はい」


「でも、私がしているのは、同じ顔かもしれない。私の母がした顔を、今、私が真央にしているのかもしれない」


母親の閉じた目から、また涙が流れた。


「嫌だ……そんなつもりじゃなかったのに」


主人は、何も言わなかった。


ただ、母親がその言葉を聞き終えるまで、待っていた。


少し間を置いてから、主人が言った。


「では、あの日のあなたに、今のあなたなら何と言ってあげますか」


母親の呼吸が、ほんの少し止まった。


「あの日の……私に」


「はい。掲示板の前にいた、その子にです」


母親は、しばらく何も言わなかった。


やがて、唇が小さく動いた。


「……ごめんね」


それは、大人の母親の声だった。けれど、とても柔らかかった。


「ずっと、ひとりにしてごめんね。番号がなかった日から、あなたのことを、ずっと置いてきてしまった」


閉じたまぶたの下から、また涙がこぼれた。


「本当は、あの日、誰かに言ってほしかったんだよね。がんばったねって。番号がなくても、あなたがだめになったわけじゃないって」


私は、息をひそめた。


その言葉は、あの日の小さな女の子に向けられている。けれど同時に、階下で待っている真央ちゃんにも向けられているように聞こえた。


「あなたは、ちゃんとやったよ。塾も行った。宿題もやった。眠い日も、休みたい日も、がんばった」


声が震えていく。


「本当は、合格したから見てほしかったんじゃなくて、がんばっているあなたを見てほしかったんだよね」


部屋の空気が、少しだけ深くなった。


「だから、今、私が言うね」


声が、少しだけ強くなった。


「よくがんばったね」


その言葉は、静かだった。でも、部屋の奥まで届くように聞こえた。


「番号がなくても、あなたはだめじゃない。あなたは、失敗した子じゃない。ただ、あのとき、すごく悲しかった子」


その言葉が出た瞬間、母親の顔がくしゃりと歪んだ。


「怖かったね。悲しかったね」


私は、胸の奥で何かがほどける音を聞いた気がした。


母親は、しばらく黙っていた。


やがて、小さく言った。


「もう、ずっと掲示板の前にいなくていいよ」


母親の声は、また少し大人のものに戻っていた。


「お母さんが見てくれなかったぶんまで、私が見るから」


その言葉を聞いたとき、部屋の暗さがわずかにやわらいだ気がした。


何かが光ったわけではない。誰かの声が降りてきたわけでもない。


ただ、長いあいだ閉じたままになっていた場所に、ようやく少しだけ光が触れたように感じた。


主人が、そっと言った。


「その子は、今、何を見ていますか」


母親は、しばらく黙っていた。


「……真央を」


小さな声だった。


「真央を、見ています」


主人は何も言わなかった。


母親のまぶたが、かすかに震えた。


「違う」


その声は、ほとんど息のようだった。


「私を、真央に重ねていた」


涙が、また頬を伝った。


「真央は……真央なんですね」


私は、階下の真央ちゃんを思い出した。


桃の器を前にして、母親の背中を見送っていた真央ちゃん。朝、パンを一口だけかじったまま、鉛筆を握っていた真央ちゃん。


「お母さんが悲しそうになるから」と言った真央ちゃん。


母親は、深く息を吐いた。


「私は……あの子を守っているつもりで、あの子に私の続きを生きさせようとしていたのかもしれません」


その声は、ほとんど大人の母親に戻っていた。


「真央は、私じゃない。真央の受験は、私の受験じゃない」


主人が静かに言った。


「はい」


「真央がもし失敗しても……それでも、真央を見ていればいいんですね」


「はい」


「見失わなければ、いいんですね」


「はい」


その返事は、ほとんど祈りのように静かだった。


部屋の中に、深い沈黙が降りた。


それは、さっきまでの重たい沈黙とは少し違っていた。


何かが終わったというより、ようやく始まる場所に戻ってきたような沈黙だった。


私は、藍色の布のそばに立ったまま、足元が少し揺れるような感覚を覚えていた。


あの部屋で起きたことは、前に私が体験したものとは違っていた。


私のときは、胸の奥から、声が浮かび上がってきた。

けれど彼女の口から出てきたのは、もっと幼い声だった。


置き去りにされたまま、ずっと待っていた子どもの声。


あれは何だったのだろう。


記憶なのか。

心の奥の声なのか。

それとも、人がようやく自分を裁かずに見たとき、閉じ込めていた時間が言葉になるのだろうか。


私には、まだわからなかった。


ただ、その問いを胸の中で抱いたとき、あの声が、また奥から静かに浮かび上がってきた。


――見えたものを、急いで名づけなくていい。


私は息を止めた。


声は、それ以上何も言わなかった。けれど、その短い言葉だけで、何かを決めつけようとしていた心が、少しだけほどけた。


まだ、わからない。


でも、わからないまま見ていることも、ひとつの力なのかもしれない。


そう思った瞬間、母親の閉じたまぶたの奥に、幼い女の子がほんの少しだけ笑ったような気がした。


私は、それが本当に見えたのか、自分の想像なのか、判断できなかった。


判断しようとした瞬間、またあの声が胸の奥でかすかに響いた。


――ただ見なさい。


今度のその言葉は、前よりも少しだけ深い場所から聞こえた。

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