七 掲示板の前の子
母親が席を立つ。
私も、そのあとに続いた。
主人は廊下の奥へ進み、古い階段を上がった。
真央ちゃんのいる食堂の気配と、桃の甘い香りが、少しずつ遠ざかっていく。
二階の廊下の突き当たりには、藍色の布が垂れていた。
前に来たとき、カーテンだと思った古い布だった。
主人がその布を静かに横へ払うと、その奥には、ほとんど何もない部屋があった。
余計な家具も、飾りもない。暗い床と、弱い灯り。そして部屋の中央に、深く身体を預けられる椅子が一つだけ置かれていた。
「どうぞ」
母親はためらいながら部屋へ入り、その椅子に腰を下ろした。座った瞬間、身体が深く沈むように見えた。
主人は、椅子の少し横に立った。
私は、藍色の布のそばで足を止めた。
「水瀬さんは、そちらで」
主人がこちらを見ずに言った。
入り口近くに立ったまま、母親を見る。
部屋の奥へは入らない。けれど、離れているわけでもない。
その距離が、今の私にはちょうどよかった。
母親は、椅子の上で両手をゆるく置いていた。先ほどまで食堂で震えていた指先も、今は不思議なほど静かだった。
「何をすればいいんでしょうか」
母親が、小さく聞いた。
「何かをしていただく必要はありません」
主人は静かに言った。
「ただ、浮かんでくるものを、そのまま言葉にしてみてください」
「でも……何を話せばいいのか」
主人は、少しだけ目を伏せた。
「今、何がいちばん怖いですか」
母親の表情が止まった。
母親はしばらく黙っていた。
「真央が……失敗することです」
ようやく出てきた声は、かすれていた。
「受験で、思うようにいかなくて、自信をなくしてしまうこと。あの子が、自分はできない子なんだと思ってしまうこと」
「その怖さは、いつからありますか」
母親は答えようとして、口を閉じた。
沈黙が長くなる。
やがて、小さく息を吸った。
「私も……中学受験をしたんです」
その声は、さっきより低かった。
「第一志望に落ちました。母が、どうしても行かせたがっていた学校でした。私も、そこに行くものだと思っていました。塾でも、先生に大丈夫だと言われていて……」
そこで、母親は少し笑った。けれど、その笑いは乾いていた。
「大丈夫じゃなかったんです」
そう言ったあと、母親はふっと力を抜いた。
深い背もたれに、身体がゆっくり沈んでいく。部屋の弱い灯りの中で、母親のまぶたがゆっくり下りていった。
眠っているわけではなかった。けれど、目の前の部屋ではなく、もっと遠い場所を見始めたように見えた。
「合格発表の日のことを、今でも覚えています」
目を閉じたまま、母親は言った。
「掲示板の前に、人がたくさんいて。母が私の手を引いていて。私は、自分の番号を探していました。何度も見ました。上から下まで。もう一度、上から。見落としているだけかもしれないと思って」
指先も、膝も、肩も、力を失ったように静かだった。
ただ、閉じたまぶたの下で、目がかすかに動いていた。その奥で、何かを見ているのだとわかった。
「でも、ありませんでした」
母親はそう言ってから、黙った。
主人が静かに聞いた。
「そのとき、何がいちばんつらかったですか」
母親の唇が震えた。
「番号がなかったこと……だと思っていました。でも、違うかもしれません」
母親は、目を閉じたまま、ゆっくり首を振った。
「番号がなかったことより、母が何も言わなかったことのほうを覚えています」
その瞬間、朝の真央ちゃんの声が、私の中に戻ってきた。
お母さんが、悲しそうになるから。
「怒られたわけじゃないんです。責められたわけでもありません。母は、たぶん、私を責めないようにしていたんだと思います」
言葉の形はまだ大人のものだった。
けれど、その奥から、別の声がにじみ始めていた。
「でも、黙ったんです」
母親の声が、少し幼くなった。
「手をつないでいたのに、急に力が抜けて。私のほうを見ないで、掲示板を見たまま、黙っていました」
「それが、怖かったんです」
母親の喉が、小さく鳴った。
「怒ってくれたほうがよかった」
私は、はっとした。
今、話しているのは、大人の母親なのだろうか。それとも、あの日、掲示板の前に立っていた小さな女の子なのだろうか。
母親は、目を閉じたまま、深い椅子に身体を預けていた。腕は、力を失ったまま、肘掛けの上に置かれている。指先も、膝も、肩も、眠っているように静かだった。
その身体の静けさとは反対に、声だけが、奥のほうから浮かび上がってきた。
「怒られたら、ごめんなさいって言えたのに。泣かれたら、私も泣けたのに。でも、お母さん、何も言わなかったの」
母親の閉じた目から、涙がひとつ落ちた。
頬を伝っても、彼女はそれを拭おうとしなかった。
「私、どうしたらいいかわからなかった」
その言葉は、真央ちゃんの姿と重なった。
一口だけかじられたパン。オレンジジュースだけが減ったグラス。鉛筆を握る細い指。
母親は、あの日の自分だったのかもしれない。
そして真央ちゃんは今、その母親の沈黙と表情を見ている。
「お母さん、悲しそうだった」
その声に、私は胸の奥が痛くなった。
「私のせいで、悲しそうだった」
それは、真央ちゃんが言った言葉とほとんど同じだった。
「私、ちゃんとやったのに。塾も行ったし、宿題もやったし、眠くてもやったのに。お母さんが喜ぶと思ったから。でも、番号なかったの」
主人は、静かに聞いた。
「そのとき、何と言ってほしかったですか」
母親は、すぐには答えなかった。身体は深く椅子に預けられたまま、ほとんど動かなかった。ただ、唇だけが小さく震えた。
「……がんばったねって」
とても小さな声だった。
「番号がなくても、がんばったねって」
その言葉を聞いた瞬間、私の喉の奥が熱くなった。
「だめだった私でも、見てほしかった」
それは、たぶん、何十年も言葉にならなかった声だった。
主人は、少しだけ声を低くした。
「その子は、まだそこにいるのですね」
母親は、目を閉じたまま、ほんのわずかにうなずいた。
「いる」
幼い声が答えた。
「ずっといる」
「何を待っていますか」
「お母さんが、こっちを見てくれるのを」
部屋の中が、さらに深く沈んだ。
私は、その言葉を聞きながら、母親が真央ちゃんを見られなくなっていた理由を、ようやく少しだけ理解した気がした。
母親は、真央ちゃんの未来を見ていたのではない。
あの日、掲示板の前で立ち尽くしていた自分を見ていた。
何も言われず、見てもらえなかった自分を、娘の成績表の中に見ていた。
主人は、静かに言った。
「真央さんは、その子ではありません」
母親のまぶたが、かすかに震えた。
「真央さんの受験は、その子のやり直しではありません」
母親の唇が小さく開いた。
声はまだ幼かった。
「でも、失敗したら、悲しい」
「はい。悲しいかもしれません」
主人はうなずいた。
「けれど、悲しむことと、その子を見失うことは違います」
母親は黙った。
「真央さんが失敗しないように守りたい。そう思うのは、愛かもしれません。でも、失敗した真央さんを見たくないと思うなら、それは、あの日のご自分の痛みかもしれません」
母親は、何かを言おうとした。けれど言葉にならず、唇だけが震えた。
「私は……真央に、あんな顔をさせたくなかった」
主人は、静かにうなずいた。
「はい」
「でも、私がしているのは、同じ顔かもしれない。私の母がした顔を、今、私が真央にしているのかもしれない」
母親の閉じた目から、また涙が流れた。
「嫌だ……そんなつもりじゃなかったのに」
主人は、何も言わなかった。
ただ、母親がその言葉を聞き終えるまで、待っていた。
少し間を置いてから、主人が言った。
「では、あの日のあなたに、今のあなたなら何と言ってあげますか」
母親の呼吸が、ほんの少し止まった。
「あの日の……私に」
「はい。掲示板の前にいた、その子にです」
母親は、しばらく何も言わなかった。
やがて、唇が小さく動いた。
「……ごめんね」
それは、大人の母親の声だった。けれど、とても柔らかかった。
「ずっと、ひとりにしてごめんね。番号がなかった日から、あなたのことを、ずっと置いてきてしまった」
閉じたまぶたの下から、また涙がこぼれた。
「本当は、あの日、誰かに言ってほしかったんだよね。がんばったねって。番号がなくても、あなたがだめになったわけじゃないって」
私は、息をひそめた。
その言葉は、あの日の小さな女の子に向けられている。けれど同時に、階下で待っている真央ちゃんにも向けられているように聞こえた。
「あなたは、ちゃんとやったよ。塾も行った。宿題もやった。眠い日も、休みたい日も、がんばった」
声が震えていく。
「本当は、合格したから見てほしかったんじゃなくて、がんばっているあなたを見てほしかったんだよね」
部屋の空気が、少しだけ深くなった。
「だから、今、私が言うね」
声が、少しだけ強くなった。
「よくがんばったね」
その言葉は、静かだった。でも、部屋の奥まで届くように聞こえた。
「番号がなくても、あなたはだめじゃない。あなたは、失敗した子じゃない。ただ、あのとき、すごく悲しかった子」
その言葉が出た瞬間、母親の顔がくしゃりと歪んだ。
「怖かったね。悲しかったね」
私は、胸の奥で何かがほどける音を聞いた気がした。
母親は、しばらく黙っていた。
やがて、小さく言った。
「もう、ずっと掲示板の前にいなくていいよ」
母親の声は、また少し大人のものに戻っていた。
「お母さんが見てくれなかったぶんまで、私が見るから」
その言葉を聞いたとき、部屋の暗さがわずかにやわらいだ気がした。
何かが光ったわけではない。誰かの声が降りてきたわけでもない。
ただ、長いあいだ閉じたままになっていた場所に、ようやく少しだけ光が触れたように感じた。
主人が、そっと言った。
「その子は、今、何を見ていますか」
母親は、しばらく黙っていた。
「……真央を」
小さな声だった。
「真央を、見ています」
主人は何も言わなかった。
母親のまぶたが、かすかに震えた。
「違う」
その声は、ほとんど息のようだった。
「私を、真央に重ねていた」
涙が、また頬を伝った。
「真央は……真央なんですね」
私は、階下の真央ちゃんを思い出した。
桃の器を前にして、母親の背中を見送っていた真央ちゃん。朝、パンを一口だけかじったまま、鉛筆を握っていた真央ちゃん。
「お母さんが悲しそうになるから」と言った真央ちゃん。
母親は、深く息を吐いた。
「私は……あの子を守っているつもりで、あの子に私の続きを生きさせようとしていたのかもしれません」
その声は、ほとんど大人の母親に戻っていた。
「真央は、私じゃない。真央の受験は、私の受験じゃない」
主人が静かに言った。
「はい」
「真央がもし失敗しても……それでも、真央を見ていればいいんですね」
「はい」
「見失わなければ、いいんですね」
「はい」
その返事は、ほとんど祈りのように静かだった。
部屋の中に、深い沈黙が降りた。
それは、さっきまでの重たい沈黙とは少し違っていた。
何かが終わったというより、ようやく始まる場所に戻ってきたような沈黙だった。
私は、藍色の布のそばに立ったまま、足元が少し揺れるような感覚を覚えていた。
あの部屋で起きたことは、前に私が体験したものとは違っていた。
私のときは、胸の奥から、声が浮かび上がってきた。
けれど彼女の口から出てきたのは、もっと幼い声だった。
置き去りにされたまま、ずっと待っていた子どもの声。
あれは何だったのだろう。
記憶なのか。
心の奥の声なのか。
それとも、人がようやく自分を裁かずに見たとき、閉じ込めていた時間が言葉になるのだろうか。
私には、まだわからなかった。
ただ、その問いを胸の中で抱いたとき、あの声が、また奥から静かに浮かび上がってきた。
――見えたものを、急いで名づけなくていい。
私は息を止めた。
声は、それ以上何も言わなかった。けれど、その短い言葉だけで、何かを決めつけようとしていた心が、少しだけほどけた。
まだ、わからない。
でも、わからないまま見ていることも、ひとつの力なのかもしれない。
そう思った瞬間、母親の閉じたまぶたの奥に、幼い女の子がほんの少しだけ笑ったような気がした。
私は、それが本当に見えたのか、自分の想像なのか、判断できなかった。
判断しようとした瞬間、またあの声が胸の奥でかすかに響いた。
――ただ見なさい。
今度のその言葉は、前よりも少しだけ深い場所から聞こえた。




