八 今の一問
翌朝、私はいつもより遅く目を覚ました。
部屋の中には、すでに朝の光が入っていた。窓の外からは、夏の空気と一緒に、蝉の声が遠く聞こえてくる。
身体は少し重かった。けれど、胸の奥にあったざわめきは、昨夜よりも静かになっていた。
顔を洗い、階段を下りる。
食堂では、母親と真央ちゃんが、すでに窓際の席に座っていた。
昨日と同じ席。
同じ朝の光。
同じ食堂。
でも、テーブルの上は少し違っていた。
問題集は置かれていた。計算ドリルも、漢字練習帳もある。
けれど、開かれてはいなかった。
二人の皿には、パンと卵料理、小さなサラダがのっていた。真央ちゃんの皿のパンは、まだ手つかずだった。
真央ちゃんは、パンを見ていた。そして、母親の顔も見ていた。
食べていいのか。
先に勉強しなくていいのか。
あとで何か言われないか。
その小さな警戒が、離れた場所からでもわかった。
母親も、それに気づいているようだった。
けれど、何をどう言えばいいのかわからないらしく、少し不自然なほど明るい声で言った。
「今日は、まず朝ごはんを食べようか」
真央ちゃんは、すぐには返事をしなかった。
「……勉強は?」
「するよ」
母親は、少し慌てて言った。
「するけど、えっと……まず、食べてからでいいかなって」
その言い方が、あまりにぎこちなくて、私は思わず目を伏せた。
母親自身も、照れたように口元を押さえた。
「変かな」
真央ちゃんが、少しだけ目を丸くした。
「変……かも」
母親は、一瞬困った顔をした。けれど次の瞬間、小さく笑った。
「そうだよね。お母さんも、ちょっと変だなと思った」
真央ちゃんは、まだ警戒していた。けれど、その顔に、ほんの少しだけ驚きとは別のものが混じった。
私は朝食を取り、自分の席に座った。
スープを口に運びながら、二人を見ないようにした。見ないようにしながら、やはり見ていた。
真央ちゃんは、パンにバターを塗った。それから、皿の端に少しだけ取ってあった赤いジャムに、スプーンを伸ばした。
少しだけ乗せるつもりだったのだと思う。
けれど、思ったより多くパンの上に落ちてしまい、赤いジャムが端まで広がった。
真央ちゃんの肩が、ぴくりと上がった。
母親がそれを見た。
「そんなにつけたら――」
そこまで言って、止まった。
一瞬、昨日までの空気が戻った。
母親は、自分の言いかけた言葉を聞いているようだった。少しだけ目を伏せ、言い直した。
「……甘そうだね」
真央ちゃんは、母親を見た。
「つけすぎた」
「うん。たぶん、かなり」
母親の声に、少し笑いが混じった。
真央ちゃんは、パンを見た。それから、母親を見た。
「怒らないの?」
母親の表情が、一瞬止まった。
「怒らないよ」
そう言ってから、すぐに付け足した。
「でも、テーブルに落ちたら拭こうね」
真央ちゃんは、しばらく母親を見ていた。それから、ほんの少しだけ笑った。
「うん」
母親も、少し遅れて笑った。
そのあとも、母親は真央ちゃんの手元を見ていた。
急がせるためでもなく。間違いを見つけるためでもなく。
ただ、今そこにいる真央ちゃんを見ているようだった。
そのことに気づいたとき、私は胸の奥が少し熱くなった。
朝食が終わってから、母親は問題集を開いた。
「今日は、まず一問だけ一緒に見ようか」
真央ちゃんが、少し驚いたように顔を上げる。
「一問だけ?」
「うん。一問ちゃんと見てから、次を考えよう」
母親はそう言ってから、照れたように笑った。
「……こういう言い方、慣れないね」
真央ちゃんが、ほんの少し笑った。
「うん」
「うんって言うんだ」
母親が小さく笑う。
真央ちゃんも、少しだけ笑った。
それは本当に小さな笑いだった。けれど、昨日の朝にはなかったものだった。
真央ちゃんは、算数の問題に向かった。
途中で、手が止まった。
「ここ、違うかも」
母親は、すぐには答えなかった。
反射的に何か言いかけたようだったが、唇を閉じた。そして、真央ちゃんのノートをのぞき込んだ。
「じゃあ、ここだけ一緒に見ようか」
その声には、まだ少し力が入っていた。でも、昨日のように先へ先へと押す力ではなかった。
「ここ?」
「うん。ここ」
母親は、式の途中をそっと指で示した。
「くり上がり、ひとつ抜けてるかも」
「あ、ほんとだ」
真央ちゃんは、少し悔しそうに笑った。
「またやった」
母親の指が、ほんの一瞬だけ止まった。
けれど、すぐに力を抜いて、ノートの端を軽く押さえた。
「じゃあ、見つけられてよかったね」
真央ちゃんは、母親の顔を見た。
「怒ってない?」
母親は、少し困ったように笑った。
「怒ってない」
「ほんとに?」
「ほんとに」
真央ちゃんは、まだ少し疑うように母親を見ていた。
母親は、その視線を受けたまま、少しだけ目を伏せた。
「お母さんも、怖かったのかもしれない」
真央ちゃんは、鉛筆を持つ手を止めた。
「真央が間違えることが」
その声は、小さかった。言い訳のようでもあり、初めて自分に言い聞かせているようでもあった。
真央ちゃんは、すぐには何も言わなかった。
母親も、少し照れたように笑って、ノートに目を戻した。
「……もう一回だけ、ここからやってみようか」
「うん」
紙の上を消す音が、朝の食堂に小さく響いた。
母親は何も言わず、その手元を見ていた。
急がせるでもなく、正すでもなく。ただ、今度はその一問が終わるまで、そばにいるように。
私は、胸の奥であの声を思い出した。
ただ見なさい。
今なら、ほんの少しだけわかる気がした。
見るとは、何もしないことではない。
相手を変えるために見ることでもない。
今ここにいる人を、過去の誰かにしないこと。
未来の失敗にしないこと。
その人を、その人のまま、目の前に置くこと。
母親は、真央ちゃんを見ようとしていた。
真央ちゃんもまた、母親の変化を少しずつ見ようとしていた。
私は、ノートパソコンを開いた。
白石さんへの返事は、まだ送れていなかった。
昨夜までなら、何度も書いては消していたと思う。
軽すぎないか。重すぎないか。期待しすぎているように見えないか。選ばれたがっていると思われないか。
でも今朝は、少し違った。
白石さんは、まだ私を選んだわけではない。正式に決まった話でもない。
それでも、彼は私を紹介したいと書いてくれた。
今あるのは、それだけだった。
まだない未来でも、過去に遠ざかっていった誰かでもなく、今ここにある一通のメール。
私は鑑定文のファイルを開いた。
昨日は、その白さに何度も押し返された。けれど今は、不思議と怖くなかった。
私は、少し考えてから、最初の一文を打った。
まだ起きていない未来を怖がるより、今ここにある小さな手ざわりを受け取ってみてください。
指が、止まらなかった。
うまくいくかどうかを、今すぐ決めなくても大丈夫です。
不安は、あなたが大切にしているものを教えてくれることがあります。
けれど、不安だけを見つめていると、目の前にある光を見失ってしまうことがあります。
今日は、ひとつだけでかまいません。
目の前の人の顔を見てください。
目の前の言葉を受け取ってください。
目の前のひとつの問いに戻ってください。
未来は、まだ決まっていません。
だからこそ、人は何度でも、今に戻ることができます。
打ち終えてから、私は画面を見つめた。
週刊誌には少し静かすぎるかもしれない。短い鑑定文としては、まだ整えたほうがいいかもしれない。
でも、その言葉は、少なくとも今の私から出たものだった。
白石さんにどう見られるかだけを考えて置いた言葉ではなかった。
私はファイルを保存した。
そのまま、白石さんへの返事を書いた。
今度は、言葉にあまり迷わなかった。
――――――――――――――――
白石さま
ご連絡ありがとうございます。
まだ正式に決まっていない段階でも、候補として考えてくださっていること、とても嬉しく思いました。
短めの鑑定文を、いくつか整えました。
週刊誌の読者の方にも届く形を意識しながら、私なりの言葉で書いてみました。
ご確認いただけましたら幸いです。
どうぞよろしくお願いいたします。
水瀬
――――――――――――――――
読み返して、少しだけ息を吸った。
まだ怖さはあった。
選ばれるかどうかは、私には決められない。白石さんがどう受け取るかも、私には操作できない。
でも、それを理由に、今の言葉を消さなくてもいい。
私は、鑑定文のファイルを添えて、送信した。
画面が静かに切り替わる。
その瞬間、胸の奥にあった小さな固さが、少しだけほどけた。
窓の外では、夏の山が朝の光を受けていた。
母親と真央ちゃんは、まだ問題を見ていた。
真央ちゃんが何かを消し直し、母親が小さく笑う。
その笑いに、真央ちゃんも少しだけ笑った。
昨日までなら、見逃してしまいそうな小さな声だった。
けれど今朝の食堂では、その小ささのまま、ちゃんと明るかった。
私は、その声を聞きながら、保存した原稿のタイトルをつけた。
「今に戻る占い」
少し直接的すぎるかもしれない。
そう思って、別のタイトルに変えようとした。
けれど、やめた。
今は、このまま置いておこうと思った。
昨日までと同じ宿。
同じ食堂。
同じ夏。
何も劇的には変わっていない。
受験の日は、まだ来年の二月一日にある。
白石さんの仕事も、決まったわけではない。
真央ちゃんも、また問題を間違えるだろう。
母親も、また不安になるかもしれない。
私も、きっとまた誰かの言葉に揺れる。
それでも、今朝の食堂には、昨日とは違うものがあった。
一口だけかじられたパンではなく、ジャムをつけすぎたパン。
責める沈黙ではなく、一緒に考える沈黙。
未来に追われる時間ではなく、今の一問を見る時間。
私は、その風景を見ていた。
急いで意味づけなくていい。
正しさに変えなくていい。
誰かを導こうとしなくていい。
ただ見なさい。
胸の奥で、その声が静かに響いた。
私は、今度は逆らわなかった。
ただ、その朝の光の中にいる母娘を、しばらく見ていた。




