一 月が見えない夜
いつの頃からか、私は新月の夜を気にするようになっていた。
月が見えない夜。
空のどこにも白い輪郭がなく、ただ暗さだけが静かに降りてくる夜。
最初は、それが新月だからだとは思っていなかった。ただ、あの宿では、そういう夜に限って、空気の奥行きが少し変わる気がした。
廊下の明かりも、庭の石も、湯呑みに残ったお茶の色までも、昼間より深く沈んで見える。
休みが取れる新月の夜には、私はできるだけ、あの宿へ足を向けるようになった。
何かが起こると決まっているわけではない。
宿に泊まったからといって、あの藍色の布の向こうへ近づけるわけではなかった。
客室で一人、お茶を飲み、遠くの水音や風の音を聞いているうちに、そのまま夜が明けることもあった。
それでも何度か、夜の奥で、誰かがあの布の向こうへ通されたのだと感じることはあった。
けれど私は、いつも少し離れた場所にいた。
足を踏み入れるには遠く、忘れてしまうには近すぎる場所に。
だからこそ、もしまた、あの藍色の布の向こうで何かが始まるのだとしたら、きっとこういう夜なのだろうと、いつの間にか思うようになっていた。
それが習慣と呼べるほど確かなものになったのは、白石さんから連絡が来るようになってからだった。
白石さんは、雑誌の編集者だった。
最初に会った頃の私は、白石さんの言葉の一つひとつに、どこか身構えていた。何気ない確認のメールにも、裏を探した。短い返信には、拒絶の気配を見つけようとした。
けれど、あれから少しずつ、白石さんとのやり取りは変わっていった。
変わったのは、白石さんの言葉ではなかったのかもしれない。
私の受け取り方が、ほんの少し変わっただけだったのかもしれない。
白石さんが前に話していた占いコーナーの企画は、正式に通った。
その連絡を受けたのは、雨上がりの午後だった。
スマートフォンの画面に白石さんの名前が表示されたとき、私はいつものように少しだけ息を止めた。けれど、その緊張は以前ほど鋭くはなかった。
『企画、通りました。占いコーナーの件です。水瀬さんにお願いしたいです』
短い文章だった。
けれど、その短さが、今度は冷たくは見えなかった。
私はしばらく、その画面を見つめていた。
うれしい、と思った。
それは間違いなく、うれしかった。
自分の中にあるものを、誰かが必要としてくれたこと。
言葉にしてきたもの、感じてきたもの、これまで自分でも扱いきれずにいたものに、場所が与えられたような気がした。
けれど、そのうれしさの奥から、すぐに別のものが顔を出した。
ちゃんとしなければ。
期待を裏切ってはいけない。
今度こそ、価値のある人間だと思われたい。
私は、しばらく返信ができなかった。
何を書けばよいのか、わからなかったからではない。
むしろ、いくらでも丁寧な言葉は浮かんだ。
でも、その言葉を並べようとすると、どこかで自分がきれいに整えられすぎていくような気がした。
私は本当に、占いを届けたいのだろうか。
それとも、占いを通して、誰かに認められたいのだろうか。
その二つは、似ているようで、どこか違う気がした。
結局、私は何度も書き直したあと、短い文章を画面に残した。
『ありがとうございます。大切にお受けします。どうぞよろしくお願いいたします』
送信ボタンの上で、指が止まった。
まだ、押せなかった。
その言葉が丁寧であるほど、どこかで自分をよく見せようとしている気がした。
私はスマートフォンを伏せた。
受け取る、という言葉を使ったのは、偶然ではなかったと思う。
白石さんからの依頼を、ただ仕事として引き受けるのではなく、何かを渡されたのだと感じたかった。
けれど同時に、その「受け取る」という言葉の中に、自分を良く見せようとする気持ちが混じっていないかも、私は気になっていた。
その夜も、新月だった。
私はその日、仕事を少し早めに切り上げた。
白石さんからの連絡を受け取ってから、どうしても一度、あの宿に行きたくなっていた。
夕方の電車を乗り継ぎ、宿の最寄りの駅に着いた頃には、空はすっかり暗くなっていた。
ロータリーに停まっていたタクシーに乗り、宿の近くまで、と告げると、運転手さんは小さく頷いた。
車はゆっくりと駅前を離れていった。
窓の外には、まばらな街灯と、夜の中に沈んだ山の輪郭が流れていく。
月のない夜だった。
この道は、もう何度か通っている。
それなのに、月のない夜にこの道を進むときだけは、道をたどっているというより、見えない流れの中で、どこか深い場所へ運ばれていくように感じた。
明かりの少ない道を進むほど、車内の静けさが深くなっていくようだった。
私は膝の上で鞄を押さえながら、白石さんからのメールを思い出していた。
企画、通りました。
水瀬さんにお願いしたいです。
その言葉を思い出すたびに、胸の奥が少し温かくなり、すぐその下から、薄い不安が浮かんでくる。
失敗したら、どうしよう。
期待外れだと思われたら、どうしよう。
やっぱり頼まなければよかったと思われたら。
そう考えた瞬間、私は窓に映る自分の顔を見た。
まただ、と思った。
まだ起きてもいない拒絶を、私は先回りして探している。
でも、以前と少し違っていたのは、そのことに気づけたことだった。
拒絶されるかもしれない。
認められたい。
失望されたくない。
それらの気持ちを、私は否定できなかった。
ただ、それがあることを、前よりは少し静かに見ていられた。
やがてタクシーは、宿へ続く細い坂道の手前で止まった。
ここから先は車が入りにくい。
礼を言って降りると、冷えた空気が頬に触れた。私は鞄を持ち直し、宿へ続く細い道をゆっくり登った。
坂道の先に、小さな灯りが見えてきた。風が吹くと、木の葉が擦れ合い、その音だけが夜の中で細く響いた。 門の前まで来て、私は一度だけ空を見上げた。月は、やはりなかった。
けれど、何もないその空を見ていると、不思議と、何かが欠けているようには思えなかった。
見えないだけで、そこにあるもの。
まだ形にならないだけで、動き始めているもの。
そんなものが、夜の奥に沈んでいる気がした。
私は戸に手をかけた。
そのとき、自分が白石さんの依頼を受けた喜びだけでここへ来たのではないことに気づいた。
私は、確かめたかったのだと思う。
占いコーナーを任された私は、本当に何かを人に渡せるのか。
それとも、ただ誰かに認められたいだけなのか。
戸を開けると、宿の中から、外の冷えた空気とは違うやわらかな温もりが流れてきた。
奥に、主人の姿があった。
主人は、私を見ると、いつものように静かに頭を下げた。
「お越しでしたか」
「はい」
私は靴を脱ぎながら答えた。
「今日は、新月なので」
言ってから、自分で少しおかしくなった。
まるで、それがここに来る理由として、もう十分に通じると思っているようだった。
主人は、特に驚いた様子もなく、ただ少しだけ目を細めた。
「そうですか」
その一言だけだった。
けれど、その声を聞いたとき、私はまた胸の奥に小さな熱を感じた。
それは、白石さんからのメールを読んだときの熱とは少し違っていた。
認められたいという熱ではなく、何かに呼ばれているような、けれどまだその意味を知らされていないような、静かな熱だった。
私はその熱を抱えたまま、宿の中へ入った。




