二 予約のない客
夕食の支度が始まる少し前だった。
宿の中には、外の冷えた空気とは違う、やわらかな温もりが満ちていた。私はカウンターの端の席に腰を下ろし、出してもらったお茶を両手で包んでいた。
鞄の上には、伏せるように置いたスマートフォンがある。
白石さんからのメールは、もう何度も読み返していた。
企画が通ったという短い連絡。
水瀬さんにお願いしたいです、という言葉。
何度読んでも、うれしい。
けれど、その奥にはまだ、薄い不安があった。
期待に応えたい。
失敗したくない。
今度こそ、価値のある人間だと思われたい。
私は画面を閉じたまま、湯呑みの中を見ていた。
そのとき、玄関の戸が少し強めに開いた。
外の冷たい空気が、一筋流れ込んでくる。
「すみません」
低い男性の声だった。
顔を上げると、入口に一人の男性が立っていた。
五十歳前後だろうか。濃い色のコートを着て、片手に革の鞄を持っている。もう一方の手には、細長い黒いケースを抱えていた。
背筋は伸び、身なりも整っていた。
ただ、その顔には、隠しきれない疲れと苛立ちがあった。
言葉遣いは丁寧だった。
けれど、その丁寧さの奥に、細い棘のようなものがあった。
「突然で申し訳ありません。こちらに泊まれると聞いて来たのですが」
主人が奥から静かに出てきた。
「お入りください」
それだけだった。
男性は、一瞬だけ言葉を探すように主人を見た。事情を聞かれると思っていたのかもしれない。あるいは、自分がどれほど困っているのかを、誰かにわかってほしかったのかもしれない。
けれど主人は、それ以上何も言わなかった。
「予約していたはずのビジネスホテルに、部屋が用意されていなかったんです」
男性は、革の鞄を持ち直しながら言った。
「確認したところ、予約が入っていないと言われまして。こちらには記録もあります。ですが、先方では確認できないと。満室でどうにもならないという話でした」
主人は、少しだけ頷いた。
「そうでしたか」
誰が悪かったのか。
どちらに落ち度があったのか。
なぜそうなったのか。
主人は、そういうことを確かめようとはしなかった。
「こちらは仕事で来ていますので、予定が狂うと困るんです」
困る、という言葉に、抑えた怒りが混じっていた。
主人は、その怒りをなだめるでもなく、掘り下げるでもなく、ただ静かにそこにいた。
「こちらの宿は、どなたから」
主人が短く尋ねた。
「そのホテルに泊まっていた方です。ロビーで少し話したら、この先に小さな宿があるから、行ってみたらどうかと」
男性は、そこで少しだけ眉を寄せた。
「運が良くなる宿だとか、知る人ぞ知る宿だとか言っていました。仕事で来ているなら、なおさら行った方がいい、と」
少し間を置いて、男性は付け加えた。
「正直、何を言っているのかと思いましたが、他にあてもありませんでしたので」
主人は、ただ頷いた。
「そうですか」
「ただ、車が入れない道だと言われましてね。途中までしか送ってもらえず、そこから歩いてきました」
男性は、靴についた土を気にするように足元を見た。
それは、土がついたことへの不満というより、自分の予定から外れた場所に立たされていることへの苛立ちのようだった。
主人は少し間を置いてから言った。
「今夜は、一部屋空いております」
男性の肩から、わずかに力が抜けた。
「助かります」
言葉は素直だった。
けれど、すぐに続いた。
「本来なら、こういう形で宿を探す予定ではなかったのですが」
私は、その一言に少しだけ胸が引っかかった。
本来なら。
予定では。
こちらに落ち度はない。
その人の言葉の端々には、自分の立っている場所を守ろうとする力が入っていた。
主人は何も言わず、男性を中へ招いた。
男性は靴を脱ぎ、コートを腕にかけた。その動きには無駄がなく、普段から人に見られることに慣れている人のようだった。
近くで見ると、顔立ちは端正だった。眉は濃く、目は鋭い。けれど、その鋭さは人を威圧するためというより、物事の粗さを見逃せない性質から来ているようにも見えた。
「倉橋慎吾と申します」
男性は名刺入れを取り出した。
主人は名刺を受け取り、静かに頭を下げた。
「倉橋様ですね」
主人は、それ以上は名刺の内容に触れなかった。
少しの沈黙が落ちる。
その沈黙を埋めるように、倉橋さんの方が口を開いた。
「ガラス工芸を扱う会社を経営しております」
主人は、ただ頷いた。
「はい」
「うちは、手吹きのグラスや酒器を作っています。職人は多くありませんが、腕のいい者たちがいます。私は主に、経営と販売の方を見ています」
倉橋さんは、そこで自分の手にある黒いケースに目を落とした。
黒い布張りのケースには、角ごとに革の補強があり、短い取っ手がついていた。商談用の道具というより、何か壊れやすいものを運ぶための入れ物のように見えた。
「明日、近くの大きなホテルで商談があります。改装に合わせて、新しく高級バーを作るそうで、そこにうちのグラスを入れる話が出ています」
主人は、静かに頷いた。
倉橋さんは続けた。
「決まれば、大きい案件です」
大きい、という言葉だけが、少し重く響いた。
それは喜びというより、何かを証明しようとする力を含んでいるように聞こえた。
倉橋さんは、そこで初めて、カウンターに座っている私に気づいたようだった。
「ああ、失礼しました」
「いえ」
私は湯呑みを両手で包んだまま、小さく頭を下げた。
主人が、私の方へ少しだけ目を向けた。
「水瀬さんです」
それだけだった。
「今夜、泊まらせていただいています」
私が言うと、倉橋さんは丁寧に頭を下げた。
「そうでしたか。お邪魔してしまいました」
その礼儀は、きちんとしていた。
けれど、不思議と近寄りやすさはなかった。
相手と自分の間に、薄いガラスの壁を置いているような人だった。
主人は、カウンターの空いている席に静かに手を向けた。
「こちらへ」
倉橋さんは一瞬だけ迷ったようだった。すぐ部屋へ案内されると思っていたのかもしれない。
けれど主人がそれ以上何も言わないので、倉橋さんは私から少し離れたカウンターの席へ移った。
腰を下ろす前に、倉橋さんは黒いケースをカウンターの端へそっと置いた。
置き方だけは、とても丁寧だった。
さっきまでの苛立ちとは違って、そのケースに触れる指先には、かすかな緊張のようなものがあった。
主人は、倉橋さんの前に温かいお茶を置いた。
倉橋さんはそれを受け取り、一口飲んだ。
そこでようやく、表情が少しだけほどけた。
「失礼。少し取り乱していたかもしれません」
主人は、何も言わなかった。
その沈黙を責められていると感じたのか、それとも許しと感じたのか、倉橋さんは自分で言葉を続けた。
「予定と違うことは、仕事ではよくあります。ただ、今回はこちらにも事情がありまして」
倉橋さんの視線が、カウンターの端に置いた黒いケースへ落ちた。
「それは」
主人が、短く言った。
尋ねたというより、そこにあるものを確認しただけのような言い方だった。
「サンプルです。明日の打ち合わせで見せる予定のものです」
その時、倉橋さんの声が、ほんの少し柔らかくなった。
「手吹きのグラスに、切子のような細かな彫りを入れたものです。光を受けた時の表情が、普通のグラスとはまったく違います」
その言葉には、先ほどまでの苛立ちとは別の力があった。
大切なものについて話す人の声だった。
けれど、その柔らかさは、長くは続かなかった。
「ただ、ホテル側は広告やパンフレットの撮影には、その最高級品を使いたいと言うんです。ホームページにも載せたい、と」
主人は、ただ聞いていた。
「でも、実際にバーで使う分は、それより安価なものでいいから、大量に納めてほしいと」
倉橋さんの声が、また硬くなった。
「高級バーを作ると言いながら、見せるためのものと、実際に客に出すものを分ける。私は、それがどうにも引っかかっているんです」
それは、怒って当然のことのようにも思えた。
職人が時間をかけて作った美しいものを、ただ広告の見栄えのためだけに使う。そう聞けば、私でも胸の奥が少しざわつく。
けれど、倉橋さんの言葉には、それだけではない響きがあった。
「価値が伝わっていないんです」
彼は低く言った。
「本物を使いたいのではなく、本物に見えるものを使いたいだけなんでしょう」
主人は、何も言わなかった。
倉橋さんは、その沈黙に気づいたように、少しだけ口調を整えた。
「もちろん、先方にも予算があります。それはわかります。ホテル側の事情も、理解しているつもりです」
そう言いながら、その声は、理解している人の声には聞こえなかった。
「ですが、職人の仕事を、飾りのように扱われるのは困るんです」
困る。
その言葉は、さっきも聞いた。
もちろん、本当に困っているのだと思う。
でも、その奥には、誰かへの小さな責めが隠れているように感じた。
ホテルが困らせる。
担当者がわかっていない。
予定が狂わされる。
価値が伝わらない。
私は、倉橋さんの横顔を見ながら、ふと自分の胸に手を置きたくなった。
人の言葉に隠れた責めは、思ったよりも聞こえる。
では、私の言葉にも、そういうものが混じっていたのだろうか。
白石さんの短いメールを読んで、勝手に拒絶を探していた時。
認められたいと思いながら、それを隠して「大切にお受けします」と書いた時。
私は、誰を責めていたのだろう。
白石さんだろうか。
それとも、認めてもらえないかもしれない自分自身だろうか。
倉橋さんは、そんな私の内側など知るはずもなく、もう一度お茶を飲んだ。
「明日の打ち合わせまでに、気持ちを整えなければなりません」
彼はそう言って、少しだけ息を吐いた。
「そのためにも、今夜は静かに休める場所があって助かりました」
助かった。
その言葉も、本当なのだと思う。
けれど、彼はまだ、自分が何に助けられたのかまでは見ていないように見えた。
主人は静かに立ち上がった。
「お部屋へ」
その一言で、倉橋さんも立ち上がった。
「お願いします」
その時、倉橋さんのスマートフォンが短く震えた。
彼は画面を見て、わずかに眉を寄せた。表情が、また仕事の顔に戻っていく。
「すみません。あとで折り返します」
電話には出なかった。
けれど、その一瞬で、彼の注意はもう黒いケースから離れていた。
倉橋さんは革の鞄を持ち直し、主人の後についていった。
カウンターの端には、黒いケースが残されていた。
私はそれを見つめた。
さっきまで、あんなに大切そうに置かれていたもの。
それが今、置き去りにされている。
主人も気づいているようだった。
けれど、何も言わなかった。
その沈黙が、ただの見落としではないように、私には思えた。




