三 透明な器
夕食のあと、私は部屋へ戻らず、しばらくカウンターでお茶をいただいていた。
部屋に戻っても、すぐには眠れない気がした。
白石さんからのメールのことも、占いコーナーのことも、まだ胸の奥で静かに動いていた。
カウンターの端には、黒いケースがまだ置かれていた。
布張りの細長いケース。
角には革の補強があり、短い取っ手がついている。
倉橋さんが部屋へ向かう時、スマートフォンが震えた。
画面を見た瞬間、彼の表情はまた仕事の顔に戻った。
そのわずかな間に、このケースのことだけが、そこに置き去りにされた。
あんなに大切そうに触れていたものなのに。
あんなに丁寧に置いたものなのに。
人は、心が乱れた時ほど、本当に大切なものから先に、手を離してしまうのかもしれない。
主人は、ケースのことに気づいているはずだった。
けれど、相変わらず何も言わなかった。
気づいていないふりをしているというより、そこに置かれている時間ごと、静かに見ているようだった。
しばらくして、廊下の奥から足音がした。
倉橋さんだった。
夕食を終え、一度部屋へ戻ったのだろう。コートは脱いでいた。けれど、顔の硬さはそれほど変わっていなかった。手にはスマートフォンがあり、画面を伏せるように握っている。
「少し、強い酒はありますか」
倉橋さんは主人にそう言った。
主人は短く頷いた。
「ございます」
そう言って、奥の棚へ向かった。
倉橋さんは、カウンターの席に腰を下ろした。
その時、ようやく端に置かれた黒いケースに気づいた。
ほんの一瞬、動きが止まった。
「あ……」
その声は、昼間の苛立った声とは違っていた。
自分の隙を見つけてしまった人の、小さな声だった。
私は思わず言った。
「あの、それ……大切なものなんじゃないですか」
倉橋さんは、こちらを見た。
責められたと思ったのかもしれない。
一瞬だけ、目元に硬さが戻った。
でも、私がただケースを見ているだけだとわかると、その硬さは少しだけゆるんだ。
「ええ。大切なものです」
倉橋さんは静かに答えた。
「置き忘れるなんて、らしくないですね」
その言い方には、自分を笑うような響きがあった。
けれど、本当に笑っているわけではなかった。
「ずっと気になっていました」
私は言った。
「とても大切そうに持っていらしたので」
倉橋さんは、黒いケースに手を置いた。
指先だけが、さっきとは違うほど丁寧だった。
「明日の商談で見せるものです」
「グラス、ですよね」
「ええ」
その時、主人が戻ってきた。
手には、白い陶器の瓶があった。
古いものなのか、瓶の肩のあたりに、わずかなくすみがある。
倉橋さんは、その瓶を見た瞬間、目を細めた。
「……これは、珍しいですね」
その声には、驚きがあった。
私には、その酒が何なのかわからなかった。
けれど、倉橋さんの目が変わったことはわかった。
知っている人の目だった。
主人は何も言わず、小さなグラスにほんの少しだけ注いだ。
琥珀色の酒が、静かに器の底に満ちる。
香りが、かすかに立った。
甘いようで、深い。
果実のようでもあり、古い木の箱を開けた時のようでもあった。
倉橋さんは、その香りを確かめるように、一度だけグラスを近づけた。
けれど次の瞬間、何かを振り切るように、一息で飲み干した。
グラスが、カウンターに置かれる。
小さな音だった。
けれど、その音だけが妙にはっきり聞こえた。
主人は空になったグラスを見た。
何も言わなかった。
ただ、もう一杯注ぐこともしなかった。
倉橋さんも、それを求めなかった。
少しだけ気まずそうに、手元を見た。
私は、酒の価値などわからない。
けれど、今の飲み方が、何かを受け取った人の飲み方ではなかったことだけ、なぜかわかった。
味わったのではない。
押し流したのだと思った。
苛立ちも、焦りも、明日の商談への不安も。
自分の中で騒いでいるものを、その酒で一度沈めようとした。
その時、カウンターの端に置かれた黒いケースが、また目に入った。
大切なものを守ろうとしている人が、差し出された大切なものを、味わわずに飲み干している。
そのことを、私は言葉にはできなかった。
けれど、胸の奥に、小さな違和感として残った。
倉橋さんは、黒いケースに視線を戻した。
「ご覧になりますか」
少し間を置いて、彼は言った。
私は少し驚いた。
「いいんですか」
「見るだけなら」
そう言ってから、倉橋さんは少しだけ表情を変えた。
「いえ、見ていただいた方がいいのかもしれません。言葉で説明するより、その方が早い」
主人は何も言わなかった。
倉橋さんは、ケースを自分の前に引き寄せ、留め具を外した。
小さな金具の音がした。
それだけで、カウンターの空気が少し変わった気がした。
ケースの内側には、深い灰色の布が敷かれていた。
その中央に、ひとつのグラスが収まっていた。
私は思わず息を止めた。
手吹きのグラスだった。
けれど、ただ透明なだけではなかった。
薄い器の表面には、細かな線が刻まれている。江戸切子のように、規則正しく、けれど機械的ではない模様。線と線が交わるところで、光が小さく砕けていた。
宿の明かりは決して強くない。
それなのに、そのグラスは、自分の内側に光を持っているように見えた。
透明なのに、深い。
軽やかなのに、どこか重みがある。
私は、それをどう言えばいいのかわからなかった。
「きれいですね」
結局、出てきたのは、そんな言葉だけだった。
けれど倉橋さんは、その言葉を雑には受け取らなかった。
少しだけ、目元が柔らかくなった。
「ありがとうございます」
その声には、さっきまでの棘がなかった。
「これは、手吹きの器に、あとから彫りを入れています。形を作る人間と、彫る人間が別にいます。どちらか一方が強すぎても駄目なんです」
「強すぎても、ですか」
「ええ。吹く方が自分の形を主張しすぎると、彫りが生きません。彫る方が線を入れすぎると、ガラスそのものの呼吸が消えます」
ガラスの呼吸。
その言葉が、耳に残った。
倉橋さんは、グラスには触れなかった。
ただ、ケースの横に手を置き、少し身を寄せるようにして話した。
「手吹きのグラスは、完全な均一ではありません。口の厚みも、底の重さも、ほんのわずかに違う。けれど、そのわずかな違いが、手に持った時の感覚になります」
倉橋さんの声は、静かだった。
低く、落ち着いていて、どこか誇らしさもあった。
「この彫りも、ただ模様を入れているわけではありません。酒を注いだ時、光がどこを通るか。手に持った時、指の影がどこに落ちるか。そこまで考えて線を入れています」
私は、もう一度グラスを見た。
たしかに、線はただ美しく並んでいるのではなかった。
光の通り道のように見えた。
そこにあるものを飾っているのではなく、そこに通るものを待っている。
そんな印象があった。
「職人さんが作られたんですか」
私がそう尋ねると、倉橋さんは頷いた。
「はい。もう三十年以上、ガラスに触れている人です。若い頃から、ずっと同じ工房にいます」
そこで、倉橋さんの声は少しだけやわらいだ。
「無口な人でね。こちらが十まで説明しても、返事は一つあるかどうかです。でも、次に会うと、こちらが言わなかった部分まで形にしてくる」
その言い方には、敬意があった。
私は少し意外だった。
倉橋さんは、ずっと怒っている人のように見えていた。
予定を狂わされ、ホテルに腹を立て、価値が伝わらないと苛立っている人。
でも、グラスについて話す時の彼は違った。
その人の中には、本当に美しいものを見てきた目がある。
職人の手を、ただ利用しているのではなく、どこかで深く尊敬している。
それがわかったからこそ、次の言葉は少し痛かった。
「だからこそ、軽く扱われるのが嫌なんです」
倉橋さんの声が、また硬くなった。
「このグラスを写真に使いたいという気持ちは、わかります。見れば、誰でも美しいと思うでしょう。バーの広告にも映える。ホームページに載せれば、印象も変わる」
そこで、倉橋さんは一度口を閉じた。
グラスを見ていた目が、どこか遠くを見る目に変わる。
「でも、実際にお客様に出すものは、もっと安いものでいい。大量にそろえられるものがいい。そう言われると、結局、これは飾りなのかと思うんです」
主人は、黙って聞いていた。
「職人の仕事は、見せるための小道具ではありません」
倉橋さんは言った。
「手に取って、使われて、そこで初めて生きるものです。写真の中だけで美しく見えればいいというものではない」
その言葉は正しいように聞こえた。
少なくとも、私はそう思った。
美しいものを、ただ人を呼ぶための飾りにする。
本物の光だけを借りて、実際には別のものを差し出す。
それは、たしかにどこか寂しい。
けれど、倉橋さんの声には、寂しさだけではないものが混じっていた。
怒り。
不満。
そして、わからせたいという力。
「ホテルの方は、どうおっしゃっているんですか」
私は思わず尋ねた。
倉橋さんは、少しだけ私を見る。
私が踏み込みすぎたと思った時には、もう遅かった。
でも倉橋さんは、答えた。
「予算の問題だそうです。高級品を全席分入れるとなると、どうしても金額が上がる。破損のリスクもある。現場の管理も難しい。だから、広告用には最高のものを使い、実際の営業では扱いやすいものを使いたいと」
「それも、わからなくはないです」
言ってから、自分でも少し驚いた。
倉橋さんの眉が、わずかに動いた。
私は慌てて言葉を足した。
「すみません。グラスのことは、私には詳しくわかりません。でも、ホテル側にも事情があるのかなと」
「もちろん、事情はあるでしょう」
倉橋さんは言った。
丁寧な言葉だった。
けれど、その丁寧さの奥で、何かが閉じる音がした気がした。
「私も、それは理解しています」
理解している。
その言葉が、また少し硬かった。
理解していると言いながら、倉橋さんは、本当は許していない。
そう感じた。
けれど、その感覚は、すぐに自分の中にも返ってきた。
私も、そういう言い方をすることがある。
わかっています。
大丈夫です。
気にしていません。
そう言いながら、心の中では相手を責めている。
親切のつもりだった。
でも、返ってこないと、私は心の中で相手を責めていた。
そして、その責める気持ちを隠すために、もっと丁寧な言葉を使っていた。
私は、湯呑みを持つ手に少し力を入れた。
倉橋さんの話を聞いているはずなのに、胸の奥では、別の記憶が少しずつ動き始めていた。
主人は、グラスを見ていた。
いや、グラスだけを見ていたのではないのかもしれない。
その透明な器を挟んで、倉橋さんと私の間に流れているものを見ていたのかもしれない。
倉橋さんは、ケースの中のグラスを少しだけ傾けた。
宿の明かりを受けて、切子の線がふっと光った。
小さな光が、カウンターの上に落ちる。
その光は、思っていたよりも繊細だった。
美しさというものは、こんなに静かなものなのだと思った。
大声で価値を主張しなくても、そこにあるだけで、何かを伝えてくる。
けれど、だからこそ、人はそれをわかってもらえない時、苦しくなるのかもしれない。
「このグラスを作った方は、ホテルの話を知っているんですか」
私は尋ねた。
「ええ」
「何とおっしゃっているんですか」
倉橋さんは、少し黙った。
「任せます、と」
「任せます」
「はい。あの人は、いつもそうです。売り方は私の仕事だ、と言います」
倉橋さんは、小さく息を吐いた。
「だから余計に、雑には扱えないんです」
その言葉には、今度は責めよりも、重さがあった。
職人から何かを預かっている人の重さ。
私はそれを感じた。
倉橋さんは、ただ売りたいだけではない。
ただ成功したいだけでもない。
この人は、何かを預かっている。
でも、その預かったものを守ろうとするあまり、いつの間にか周りを責めている。
ホテルを責め、担当者を責め、価値をわからない客を責める。
そして、おそらく自分自身も責めている。
そう思った時、胸の奥が少しだけ冷えた。
それは、倉橋さんの話が他人事ではないと感じたからだった。
私も、何かを預かった気でいた。
白石さんから、占いコーナーを任された。
誰かの役に立つかもしれない場所をもらった。
そのことは、たしかにうれしい。
でも、そのうれしさの奥に、私を見てほしい、私を認めてほしい、私の価値をわかってほしいという気持ちが混じっている。
もしうまくいかなかったら、私は誰を責めるのだろう。
白石さんだろうか。
読者だろうか。
それとも、私を見つけてくれない世界そのものだろうか。
倉橋さんは、ゆっくりとグラスをケースに戻した。
蓋を閉める前、もう一度だけ、その透明な器を見た。
「美しいものは、難しいですね」
倉橋さんが言った。
誰に向けた言葉なのかわからなかった。
主人はしばらく黙っていた。
それから、短く言った。
「美しいものは、静かです」
倉橋さんが顔を上げた。
主人は続けなかった。
ただそれだけだった。
でも、その一言は、しばらくカウンターの上に残った。
美しいものは、静かです。
倉橋さんは何か言おうとしたようだった。
けれど、言葉は出なかった。
ケースの蓋が閉じられた。
金具の音が、小さく鳴った。
その音で、私はようやく息を吐いた。
倉橋さんは、黒いケースを今度は自分の膝の近くに引き寄せた。
もう置き忘れないようにするかのように。
けれど私には、その人が本当に置き忘れていたものは、ケースではないように思えた。
もっと奥の方にあるもの。
職人から受け取った思い。
美しいものを初めて見た時の静かな感動。
それを誰かに渡したいと願った、最初の気持ち。
そういうものを、どこかに置き忘れてきた人のように見えた。
倉橋さんは、もう一度、空になったグラスを見た。
主人は、やはり何も注がなかった。
その横顔には、まだ苛立ちが残っていた。
けれど、さっきよりも少しだけ、疲れが見えていた。
怒っている人というより、長い間、何かを守ろうとして張りつめてきた人の顔だった。




