四 受け取ることと、認めさせること
倉橋さんは、黒いケースを自分の膝の近くへ引き寄せたまま、しばらく黙っていた。
空になった小さなグラスは、まだカウンターの上にある。
主人は、それを下げなかった。
もう一杯を注ぐこともしなかった。
ただ、そこに置いていた。
倉橋さんも、何も言わなかった。
自分が一息に飲み干した酒のことを気にしているのかもしれない。
あるいは、もう明日の商談のことを考えているのかもしれない。
私は、閉じられた黒いケースを見ていた。
その中に収められていた透明な器の光が、まだ目の奥に残っていた。
美しいものは、静かです。
主人の言葉が、カウンターの上に薄く残っているような気がした。
美しいものは、静か。
それなら、私はどうなのだろうと思った。
私はいつも、心のどこかでざわついている。
受け取ったものを静かに抱えているよりも、それを誰かに見せたくなる。
誰かにわかってほしくなる。
認めてほしくなる。
その時、主人がふいに私を見た。
「水瀬さんも、何か置いてきましたか」
私は、すぐには答えられなかった。
「え」
思わず、そんな声だけが出た。
主人は、いつものように、それ以上言葉を重ねなかった。
私がわかるまで待つように、ただそこにいた。
倉橋さんが、少しだけこちらを見た気配がした。
けれど、すぐに視線を伏せた。
聞いていないふりをしているようだった。
何か置いてきたもの。
私は、もう一度黒いケースを見た。
倉橋さんが置き忘れていたもの。
それは、あのケースだけではなかったのかもしれない。
では、私が置いてきたものは何だろう。
白石さんからのメールが、ふいに胸の奥で開いた。
企画、通りました。
占いコーナーの件です。
水瀬さんにお願いしたいです。
うれしかった。
それは本当だった。
けれど、そのうれしさのすぐ奥に、別の声があった。
ちゃんとしなければ。
期待に応えなければ。
今度こそ、価値のある人間だと思われたい。
私は湯呑みに視線を落とした。
「白石さんから、占いコーナーの話をいただいたんです」
主人は頷いた。
その話は、前にも少ししていた。
けれど、今夜は少し違うところから言葉が出てきた。
「企画が通ったそうです。私にお願いしたいと、連絡をいただきました」
「そうでしたか」
「はい」
私は小さく息を吸った。
「うれしかったんです。本当に」
そう言ってから、言葉が止まった。
うれしかった。
それだけで終われたら、どんなに楽だろうと思った。
「でも、うれしいだけじゃありませんでした」
主人は、何も言わなかった。
「期待に応えなきゃと思いました。失敗したくないと思いました。白石さんに、やっぱり頼まなければよかったと思われたくないとも思いました」
私は、自分の声が少し小さくなっていくのを感じた。
「それに……」
その先を言うのが、少し恥ずかしかった。
けれど、言わないままにしておくと、その言葉はまた自分の中で濁っていく気がした。
「認められたいと思いました」
言ってしまうと、胸の奥が少し痛んだ。
けれど、それは責められた痛みではなかった。
隠していたものに、少しだけ光が当たった時の痛みに近かった。
主人が言った。
「混じっているのですね」
それだけだった。
否定でも、肯定でもなかった。
混じっている。
私は、その言葉を胸の中で繰り返した。
相手のために動きたい気持ち。
ありがとうと言われたい気持ち。
誰かの役に立ちたい気持ち。
価値ある人間だと思われたい気持ち。
それらは、きれいに分けられてはいなかった。
「私、人のために動くのは嫌いじゃないんです」
私は続けた。
「誰かが困っていたら、手伝いたいと思います。話を聞いたり、できることをしたり、少しでも楽になってほしいと思うんです」
そこまでは、嘘ではない。
それは本当に、私の中にある気持ちだった。
「でも、あとから苦しくなることがあります」
「あとから」
「はい」
私は、湯呑みを両手で包み直した。
「あんなに手伝ったのに、と思ってしまうんです」
声に出すと、その言葉は思っていたよりも小さく、情けなく聞こえた。
「私はあの人のために時間を使ったのに。相手の誘いには行ったのに。どうして私の時には来てくれないんだろう。どうして同じだけ返してくれないんだろうって」
倉橋さんの指が、黒いケースの上で一度だけ止まった。
ほんの小さな動きだった。
けれど私は、それに気づいた。
たぶん、私の話のどこかが、倉橋さんの中の何かに触れたのだと思った。
「親切にしているつもりでした。でも、返ってこないと、心の中で相手を責めていました。私はこんなにしてあげたのに、って」
風が吹いた。
窓のどこかが、小さくカタッと鳴った。
普段なら気づかないような音だった。
けれど、その時は妙にはっきりと耳に残った。
自分の中に閉じ込めていた言葉が、外の空気に触れたような気がした。
「そう思う自分が嫌なんです」
私は言った。
「だったら、最初からしなければいいのに。見返りを求めるくらいなら、やらなければいいのに。そう思うのに、その時は本当に親切のつもりなんです」
自分で言いながら、胸の中にあった絡まりが少しずつ見えてくる気がした。
親切のつもり。
でも、どこかで返事を待っている。
ありがとう、と言われたい。
あなたのおかげです、と言われたい。
私のことも大切にしてほしい。
私は、与えているつもりで、心のどこかに「返ってくるはずのもの」を置いていたのかもしれない。
主人は、静かに言った。
「返ってくるものを、待っていたのですね」
私は頷いた。
「はい」
その一言だけで、胸の奥が少し熱くなった。
責められたわけではない。
ただ、見つけられただけだった。
「待っていました。ずっと」
自分でも驚くほど、素直にそう言えた。
「相手から返ってくるものを待っていたし、本当は、もっと前から誰かに認めてもらうのを待っていたのかもしれません」
倉橋さんは、空になったグラスを見ていた。
もう、聞こえていないふりはしていなかった。
でも、口を挟むことはなかった。
主人が、少しだけ視線を落とした。
「責めている間は、受け取れません」
その言葉は、とても静かだった。
けれど、私はすぐに返事ができなかった。
責めている間は、受け取れない。
その言葉が、胸の中のどこかにゆっくり沈んでいく。
「相手を責めていると、受け取れないんですか」
私が尋ねると、主人は答えた。
「手が、閉じていますから」
手。
私は、自分の両手を見た。
湯呑みを包む手に、知らないうちに力が入っていた。
そのことに気づいて、少しだけ指をゆるめた。
主人は続けた。
「返してもらうことを待っている時、人は相手を見ているようで、自分の足りなさを見ています」
その言葉は、少し痛かった。
けれど、嫌な痛みではなかった。
「自分の足りなさ……」
「はい」
主人は頷いた。
「足りないものを埋めてほしい。認められていない自分を、認めてほしい。その手で差し出すものには、相手への思いと、自分の空白が混じります」
私は黙っていた。
混じる。
また、その言葉だった。
相手のために動いているつもりだった。
でも、その奥で「私も見てほしい」と願っている時、私はもう相手だけを見てはいなかった。
親切の形をしていても、そこには小さな寂しさが混じっていた。
「では、どうしたらいいんでしょう」
私は聞いた。
主人は、すぐには答えなかった。
その沈黙の中で、私は自分の問いが少しだけ幼いことに気づいた。
どうしたらいいんでしょう。
その問いの奥にも、答えをもらいたい気持ちがある。
正しい方法を教えてもらい、もう責めない人間になりたいという願いがある。
けれど、きっとそういうことではないのだろう。
主人は、しばらくしてから言った。
「まず、責めていることに気づくことです」
「気づくこと」
「はい。責めないようにするのではなく、責めている手を見ます」
責めている手。
私は、自分の手をもう一度見た。
「その手が何を握っているのかを見ます」
「何を握っているのか」
「はい」
主人は、そこで言葉を止めた。
私は、自分の胸の中を探るように、ゆっくり息をした。
私が握っているもの。
それは、たぶん、期待だった。
返ってくるはずだった言葉。
返ってくるはずだった時間。
返ってくるはずだった関心。
返ってくるはずだった愛情。
私は、それらを握りしめたまま、人に何かを差し出していたのかもしれない。
だから、相手が受け取ってくれないと苦しくなる。
返してくれないと責めたくなる。
私の手は、差し出しているようで、ずっと閉じていた。
「……私、与えていたつもりでした」
私は言った。
「でも、本当は、返してほしかったんですね」
主人は頷いた。
倉橋さんが、小さく息を吸う音がした。
そちらを見ると、彼は黒いケースに手を置いていた。
けれど、何かを言うことはなかった。
「受け取りたい心も、与えたい心も、どちらもあります」
主人が言った。
私は顔を上げた。
「悪いことでは、ないんですか」
「はい」
主人は静かに頷いた。
「ただ、受け取ることだけが強くなれば、欲になります。与えることだけが強くなれば、自分を失います」
私は、さっき見たグラスのことを思い出した。
吹く人と、彫る人。
どちらか一方が強すぎても、ガラスの呼吸は消える。
受け取ることと、与えること。
その二つも、きっと同じなのかもしれない。
「商いとは、本来、その間を見るものです」
主人の声は、ほとんど低い灯りのようだった。
「どちらかを勝たせることではありません」
倉橋さんが、わずかに顔を上げた。
その言葉が自分に向けられたものだと、気づいたのかもしれない。
けれど主人は、倉橋さんを見なかった。
ただ、カウンターの上に置かれた空のグラスを見ていた。
私も、そのグラスを見た。
主人が出した、分かる人には分かる酒。
倉橋さんは、その価値に気づいていた。
けれど、味わうより先に飲み干した。
渡されていたものを、受け取らずに通り過ぎた。
そのことに、倉橋さんも気づいたのかもしれない。
でも彼は、何も言わなかった。
風がまた、窓をかすかに鳴らした。
さっきよりも小さな音だった。
けれど、今度は倉橋さんも、それを聞いたように見えた。
私は、胸の奥が少しずつ静かになっていくのを感じた。
すぐに許せるわけではない。
すぐに見返りを求めなくなるわけでもない。
けれど、相手を責める前に、自分の手を見ることはできるかもしれない。
何を握っているのか。
どんな形で返ってくることを待っているのか。
その手を握りしめたまま、何を受け取り損ねているのか。
主人が言った。
「返ってくる形だけを決めていると、すでに渡されていたものを見落とします」
私は何も言えなかった。
その言葉は、足元だけでなく、まだ見えていない先の道まで、淡く照らしているようだった。
私は、返してほしい形を決めていた。
私が行ったのだから、相手も来てほしい。
私が手伝ったのだから、相手も手伝ってほしい。
私が時間を使ったのだから、相手も同じように時間を使ってほしい。
同じ形で返ってこないものは、返ってきていないものとして見ていた。
でも、もしかしたら。
違う形で渡されていたものが、あったのかもしれない。
まだ、それが何なのかはわからない。
でも、最初から何もなかったと決めつけていたのは、私の方だったのかもしれない。
「同じ形でなければ、返ってきたことにはならない」
倉橋さんが、低い声で言った。
それは、私に向けた言葉ではなかった。
自分に向けた言葉のようだった。
「私も、そう思っていたのかもしれません」
倉橋さんの手は、黒いケースの上に置かれていた。
「こちらが本物を差し出しているのだから、相手も本物として受け取るべきだと」
そこまで言って、倉橋さんは口を閉じた。
その声には、怒りではなく、疲れのようなものが混じっていた。
「水瀬さんの話を聞いていて、少しわかりました」
倉橋さんは、黒いケースから手を離さないまま言った。
「私は、職人のためにやっているつもりでした。職人の仕事を守るために、ホテルにわかってもらわなければならない。そう思っていました」
彼は一度、空のグラスを見た。
「でも、どこかで思っていたのかもしれません。私はこれだけ本物を用意しているのに。これだけ美しいものを持ってきているのに。どうして同じ重さで受け取ってくれないのか、と」
私は何も言えなかった。
倉橋さんの言葉は、私の話とはまったく違う場所の話のはずだった。
けれど、芯のところで、どこか同じものに触れている気がした。
与えているつもりで、返ってくる形を決めている。
受け取ってほしいと思いながら、受け取り方まで相手に求めている。
それが叶わないと、相手を責める。
倉橋さんは、少し苦しそうに息を吐いた。
「私は、ホテルの担当者を責めていました。本物を軽く扱っていると。職人の仕事を飾りにしていると」
そこで、言葉が止まった。
主人は、何も言わなかった。
「でも、先ほどのお酒も……」
倉橋さんは、空になったグラスを見た。
「私は、味わいませんでしたね」
声は小さかった。
「いただいたものが何か、わかっていたのに」
その一言で、カウンターの空気が少しだけ深くなった気がした。
主人は、空のグラスを静かに見ていた。
責めるでもなく、慰めるでもなく。
ただ、そこにあったものを、そのまま置いておくように。
私は、湯呑みから手を離した。
掌に、少し赤い跡が残っていた。
知らないうちに、強く握っていたのだと思った。
「白石さんの話も、そうかもしれません」
私は言った。
「企画をいただいたのに、私はすぐに、期待に応えなきゃとか、認められたいとか、失敗したくないとか、そういうことばかり考えていました」
主人は聞いていた。
「でも、まず受け取ればよかったんですね」
言いながら、私はその言葉の頼りなさを感じた。
まず受け取る。
簡単なようで、難しい。
「白石さんが渡してくれた機会を、ただ受け取る。そこに、私を認めてくれるかどうかを重ねすぎない」
私は、ゆっくりと言った。
「まだ、うまくできる気はしません」
主人は頷いた。
「はい」
その「はい」は、できなくてもよいと言っているように聞こえた。
倉橋さんが、黒いケースを自分の方へ少し引き寄せた。
さっきよりも、少しだけゆっくりとした手つきだった。
「受け取ったものを、渡す」
倉橋さんが小さく言った。
私と主人は、そちらを見た。
倉橋さんは、こちらを見ていなかった。
黒いケースを見ていた。
「私は、職人から預かっていると言いました」
彼は低く言った。
「でも、本当は、彼らから何かを受け取っていたのかもしれません。預かる、という言い方をして、どこかで自分を守っていた」
主人は、何も言わなかった。
「預かっているなら、失敗すれば相手のせいにできます。ホテルがわかっていない。担当者が軽く扱っている。社員が伝えきれていない。そう言える」
倉橋さんは、自分の言葉に少し苦しそうな顔をした。
「でも、受け取ったのだとしたら……」
その先は、言葉にならなかった。
私は、黒いケースを見た。
その中の透明な器は、今は見えない。
けれど、閉じられたケースの中に、まだ光が残っているような気がした。
主人がようやく倉橋さんを見た。
「今夜は、酔わない方がよいでしょう」
倉橋さんは、少しだけ眉を動かした。
さっきなら、きっと反発したのではないかと思う。
私の飲み方まで決めるのか、と。
けれど、今は何も言わなかった。
空のグラスを見て、少しだけ息を吐いた。
「そうですね」
短い返事だった。
けれど、その声は、今夜初めて、何かを押し返そうとしていない声に聞こえた。
主人は、空のグラスを静かに下げた。
その動きは、何かの区切りのようだった。
倉橋さんは、黒いケースを持って立ち上がった。
「少し、部屋に戻ります」
主人は頷いた。
「はい」
倉橋さんは私に向かって、小さく頭を下げた。
「お話を、聞いてしまいました」
私は少し戸惑った。
「いえ。私も、勝手に話していただけなので」
「でも、必要な話でした」
そう言ってから、倉橋さんは言葉を探すように少し黙った。
「私にも」
それだけ言うと、倉橋さんは黒いケースを抱え、廊下の奥へ歩いていった。
その背中は、最初に宿へ入ってきた時よりも少しだけ小さく見えた。
けれど、それは弱くなったというより、何かを背負い直した人の姿のようにも見えた。
私は、その背中を見送った。
カウンターには、主人と私だけが残った。
白石さんからのメールは、まだ鞄の上のスマートフォンの中にある。
企画、通りました。
水瀬さんにお願いしたいです。
その言葉は、さっきとは少し違って見える気がした。
私を認める言葉としてではなく、私に差し出されたものとして。
まだ、うまく受け取れる自信はない。
でも、少なくとも今夜、私は自分の手が閉じていたことを知った。
その手を少しゆるめることからしか、始まらないのかもしれない。




