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悩みを抱えた客だけがたどり着く宿で、僕はあなたを守る者の声を聴く ~答えを教えない、不思議な宿の六つの物語~  作者: 牧静
第三章 透明な器

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五 藍色の布の前で

部屋へ戻っても、私はすぐには眠れなかった。


カウンターでの会話が、まだ胸の奥に残っていた。


責めている間は、受け取れません。


手が、閉じていますから。


主人の声は大きくなかった。


けれど、静かな言葉ほど、あとになって消えにくいのだと思った。


客室の明かりを少し落としても、目は冴えていた。


私は布団の上に座り、鞄からスマートフォンを取り出した。白石さんからのメールを、もう一度だけ開く。


『企画、通りました。占いコーナーの件です。水瀬さんにお願いしたいです』


何度も読んだ文章だった。


でも、さっきより少しだけ、静かに見えた。


私を認めるための言葉ではなく、私に差し出されたもの。


そう思おうとして、けれどすぐに、まだそう思いきれない自分にも気づいた。


受け取るというのは、思ったよりも難しい。


私はスマートフォンを伏せた。


窓の向こうには、月のない夜が広がっている。遠くの山の輪郭は見えず、ただ黒い厚みだけがそこにあった。


その頃、倉橋さんも眠れずにいたのだと思う。


それを私が知ったのは、あとになってからだった。


倉橋さんの部屋は、私の部屋から少し離れたところにあった。


同じ二階の廊下に面した客室だった。


その部屋で、倉橋さんは黒いケースを座卓の上に置き、明日の資料を広げていたらしい。


 高級ホテルの新設バー。

 広告撮影用の最高級グラス。

 実際に導入する安価なグラス。

 見積もり。

 数量。

 納期。


資料の文字は、どれも現実的だった。


美しさとは別のところで、商談は進んでいく。


倉橋さんのスマートフォンが震えた。


自社の社員からだった。


『明日の打ち合わせについて、ホテル側から追加の確認が来ています。やはり広告撮影用と実使用分は分けたいとのことです。実使用分については、価格帯を二案にして持参した方がよいでしょうか』


倉橋さんは、その文章をしばらく見ていた。


いつもなら、すぐに返信しただろう。


違う。


そういう話ではない。

価格帯の問題にするな。

こちらの価値をどう伝えるかを考えるのが先だ。

頭の中には、そんな言葉がすぐに浮かんだ。


彼は返信欄を開いた。


『価格帯の問題ではありません。先方が本物の価値を理解していないことが問題です。明日の打ち合わせでは——』


そこまで打って、指が止まった。


責めている間は、受け取れません。


主人の声が、ふいに戻ってきた。


手が、閉じていますから。


倉橋さんは、スマートフォンを持つ自分の手を見た。


力が入っていた。


画面の光に照らされた指先が、少し白くなっている。


彼は、打ちかけた文章を見つめた。


先方が本物の価値を理解していない。


それは本当に、ホテルだけのことだっただろうか。


社員もまた、明日の商談を前に、現実的な準備をしようとしている。


ホテル側の意向を聞き、話し合いの入口を作ろうとしている。


それを、自分はまた「わかっていない」と責めようとしている。


倉橋さんは、ゆっくりと打った文字を消した。


代わりに、短く打った。


『確認ありがとう。二案は用意しておいてください。ただ、明日は価格の前に、職人の仕事についてもう一度きちんと話したいと思っています。資料に工房の写真も入れられますか』


送信する前に、しばらく迷った。


甘いだろうか。


こんな返事で伝わるだろうか。


社員に任せすぎていないだろうか。


けれど、さっきまでのように、相手を押し返す言葉ではなかった。


倉橋さんは、送信ボタンを押した。


画面が静かに切り替わった。


その瞬間、少しだけ息が抜けた。


だが、眠気は来なかった。


むしろ、目が冴えていく。


部屋の中は静かだった。


座卓の上の黒いケースだけが、妙に存在感を持っている。


倉橋さんは、ケースの留め具には触れなかった。


ただ、手を置いた。


受け取ったものを、渡す。


自分で口にした言葉が戻ってくる。


自分は、職人から何を受け取っていたのだろう。


 技術。

 作品。

 信頼。

 任せます、という言葉。


けれど、それを受け取ったと言い切るには、まだ何かが足りない気がした。


倉橋さんは、立ち上がった。


部屋の中を二、三歩歩き、窓の前で止まった。


月はなかった。


窓に映る自分の顔は、いつもより疲れて見えた。


その顔を見ながら、ふいに、あの酒の香りを思い出した。


甘く、深く、古い木箱を開けたような香り。


分かる人には分かるものだった。


彼にはわかっていた。


それなのに、味わわなかった。


ただ、飲み干した。


苛立ちを沈めたかったから。


明日のことを考えたくなかったから。


自分が乱れていることを見たくなかったから。


差し出されたものを受け取る前に、自分の中の騒がしさを消すために使った。


それは、ホテルがグラスを広告の見栄えに使おうとしていることと、どこが違うのだろう。


倉橋さんは、小さく息を吐いた。


部屋に戻ってきた時よりも、胸の奥の痛みは、かえってはっきりしていた。


眠れない。


そう思った。


ただ目が冴えているのではない。


何かが、眠ることを許してくれない。


倉橋さんは、黒いケースを持ち上げた。


今度は置き忘れないように、両手でしっかりと抱えた。


その頃、私も部屋を出ようとしていた。


喉が渇いていたわけではない。


けれど、部屋の中にいると、自分の考えだけが濃くなっていくようで、少し息苦しかった。


私はそっと戸を開けた。


二階の廊下は、昼間とは別の場所のようだった。


灯りは落とされている。


足元だけが、淡く照らされていた。


廊下の奥には、藍色の布が垂れている。


ふだんは、ただそこにあるだけの布だった。


けれど今夜は、夜そのものがそこに集まっているように見えた。


私は戸の前に立ったまま、少しの間、動けなかった。


その時、別の部屋の戸が静かに開いた。


倉橋さんだった。


黒いケースを抱えている。


私たちは、廊下の中ほどで目が合った。


「あ……」



私が先に声を出した。


「すみません。眠れなくて」


倉橋さんは、少しだけ頷いた。


「私もです」


声は低かった。


けれど、夕方のような棘はなかった。


私たちは、どちらからともなく廊下の奥を見た。


藍色の布の前に、主人が立っていた。


いつからそこにいたのかは、わからなかった。


待っていたのか。


それとも、ただそこにいたのか。


でも主人は、私たちが同時に部屋を出てきたことを、少しも不思議には思っていないようだった。


主人は、こちらを見た。


「こちらへ」


それだけだった。


その一言で、廊下の空気が変わった気がした。


倉橋さんの手に、力が入る。


黒いケースを抱える指が、少し沈んだ。


彼は、主人の方へ一歩進んだ。


「さっきの話ですが」


声は低かった。


「私にも、まだ見ていないものがありますか」


主人は、しばらく倉橋さんを見ていた。


「あります」


短い答えだった。


倉橋さんは目を伏せた。


「見ることは、できますか」


「今夜なら」


その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がひやりとした。


今夜なら。


その響きだけで、あの藍色の布の向こうの気配が、こちら側へ近づいてくるのがわかった。


倉橋さんは、少しだけ息を吸った。


「私は、そういうものを信じているわけではありません」


主人は何も言わなかった。


「ただ……」


倉橋さんは言葉を探した。


「このまま眠っても、同じ朝が来る気がします」


それは、ほとんど独り言のようだった。


私は、その言葉を聞いて胸が少し痛んだ。


同じ朝。


何も変わらないまま来る朝。


私にも、そういう朝を何度も迎えた記憶があった。


考えたつもりで、反省したつもりで、でも結局、同じ手を握りしめたまま目覚める朝。


主人は、藍色の布の方へ少しだけ体を向けた。


その動きだけで、もう案内は始まっているのだとわかった。


私は、その場に立ち尽くしていた。


ここから先は、私が入る場所ではないような気がした。


足を踏み入れるには遠く、忘れてしまうには近すぎる場所。


ずっと、そう感じていた場所だった。


その時、倉橋さんがこちらを見た。


「水瀬さん」


「はい」


「よろしければ、いてください」


私は目を見開いた。


「私が、ですか」


「はい」


倉橋さんは、少し言いにくそうにした。


「あなたの話を聞いたから、私はここに来ました。だから……いていただいた方がいい気がします」


その言葉には、夕方にはなかった柔らかさがあった。


主人は、私を見た。


「今夜のことは、水瀬さんにも必要でしょう」


心臓が、少し強く打った。


私は、藍色の布を見た。


布は静かに垂れている。


風もないのに、その向こう側だけが、少し深く息をしているように見えた。


怖かった。


でも、引き返したいとは思わなかった。


私は一度だけ、自分の手を見た。


さっきより、少しだけ開いているように見えた。


主人は、何も急がせなかった。


ただ、藍色の布の前に立っている。


倉橋さんが、黒いケースを抱え直した。


そして、主人の後に続いた。


私も、そのあとを追った。


布の向こうへ入る時、音はしなかった。


けれど、何かが閉じたような気がした。


外側の夜ではなく、私たちの内側にある何かが、静かに姿勢を変えたようだった。

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