九 戻ってきた息
しばらく、部屋の中に沈黙があった。
尊い方の声。
過去の人の後悔。
石の床の冷たさ。
あの女性の顔。
そして、主人の声にあった、愛と感謝と敬意。
それらが、胸の奥でまだ静かに揺れていた。
「今のは……」
ようやく出た声は、かすれていた。
主人は、静かに私を見た。
「今、受け取られたものです」
それ以上、主人は言わなかった。
私は、うなずくこともできなかった。
受け取った。
たしかに、何かを受け取ったのだと思う。
けれど、それをわかったとは言えなかった。
言葉にすればするほど、遠ざかってしまうような気がした。
「わかったような気もします」
私は、ゆっくり言った。
「でも、何もわかっていないような気もします」
主人は、静かにうなずいた。
「それでいいと思います」
「いいんですか」
「はい」
主人は言った。
「深いところで受け取ったものは、すぐにわかるものではありません」
私は、息を吸った。
奥の部屋の空気が、胸に入ってくる。
さっきまで、どこか遠くへ行っていたような気がした。
でも今、私はここにいた。
奥の部屋の椅子に座っている。
目の前には主人がいる。
藍色の布の向こうには、夜の廊下がある。
それなのに、胸の奥にはまだ、石の床の冷たさが残っていた。
「怖いです」
小さく言った。
主人は、何も言わずに聞いていた。
「また、同じことをしてしまうんじゃないかって」
言葉にした瞬間、喉の奥が詰まった。
「助けたいと思った時に、また自分の願いを見てしまうんじゃないかって」
主人は、少しだけ目を伏せた。
「怖さがあるうちは、大丈夫です」
私は顔を上げた。
「怖さがあるうちは?」
「はい」
主人は言った。
「本当に危ういのは、自分はもう大丈夫だと思った時です」
その言葉は、静かに胸に落ちた。
私は、過去の人の声を思い出した。
私は、見ることをやめたのです。
相手を見ているつもりで、自分の願いを見ていました。
「術者は」
主人は、ゆっくりと言った。
「救う人ではありません」
私は黙っていた。
「場を空ける人です」
その言葉が、奥の部屋の何もなさと重なった。
香の匂いもない。
仏像もない。
特別な道具もない。
何かを起こそうとする気配もない。
ただ、何もない部屋。
けれど、何もないのではない。
何かを足さないように、守られている部屋。
「場を空ける……」
私は、つぶやいた。
「はい」
主人はうなずいた。
「相手の苦しみを、こちらの手で消そうとしない。答えを急いで渡さない。その人の奥から出てくるものを、こちらの願いで変えない」
私は、胸の奥でその言葉を受け取った。
「でも」
声が少し震えた。
「苦しんでいる人を見ると、何かしたくなります」
「なります」
主人は、すぐに答えた。
私は、少し驚いた。
「主人も、ですか」
「はい」
主人は静かに言った。
「私も、なります」
その言葉に、胸の力が少し抜けた。
主人は、何かを超えた人のように、苦しむ人の前でも揺れないのだと思っていた。
けれど、そうではないのかもしれない。
揺れないのではない。
揺れたことを、見ているのだ。
「だから、見るのです」
主人は言った。
また、その言葉だった。
見る。
「助けたい心があることを、責める必要はありません。ただ、その中に何が混じっているかを見失わないことです」
私は、ゆっくりうなずいた。
「秘術とは」
主人の声が、少し深くなった。
「特別な力の名前ではありません」
私は、息を止めた。
「さきほど、水瀬さんが感じられたものです」
少し間があった。
「確信と、愛と、感謝と、敬意。そして、自分の心を見続けること」
主人は、それ以上を足さなかった。
それだけだった。
けれど、その「それだけ」が、あまりにも深かった。
「私は、まだ揺れます」
声に出すと、胸の奥が少し震えた。
「混じります。怖くなります。認められたい心も、まだあります」
それなのに、あの言葉を受け取ってしまった。
その重さだけが、残っていた。
「もう、知らなかったことにはできない気がします」
主人は、しばらく黙っていた。
その沈黙は、答えを焦らせなかった。
「受け取られましたね」
「はい」
声が震えた。
主人は、静かにうなずいた。
「完成したから、受け取られたのではありません」
尊い方の言葉が、胸の奥で響いた。
「怖さを知ったから、学びながら受け取っていくのです」
私は、何も言えなかった。
「怖さを失わないことです」
主人は続けた。
「けれど、怖さを理由に逃げないことです」
その言葉で、胸の奥にあった何かが、静かに沈んだ。
怖いままでいい。
でも、逃げなくていい。
完成していなくていい。
でも、見続けなければならない。
それは許しのようでもあり、責任のようでもあった。
「わかったとは、まだ言えません」
私は言った。
「はい」
主人はうなずいた。
「でも、忘れないようにします」
「忘れると思います」
あまりに静かに言われたので、私は思わず小さく笑った。
「忘れるんですか」
「はい」
主人も、少しだけ笑った。
「忘れたら、思い出せばいいのです」
その言葉が、やさしく胸に入ってきた。
忘れない人になるのではない。
忘れた時に、思い出す。
揺れない人になるのではない。
揺れた時に、見る。
完成するのではない。
学びながら、敬意を失わずに扱う。
私は、ゆっくり頭を下げた。
「ありがとうございました」
主人は、静かに受け取った。
「こちらこそ」
また、沈黙が戻ってきた。
けれど、その沈黙は、さっきまでとは少し違っていた。
深いものを受け取った後の沈黙。
言葉が消えたのではなく、言葉がそれぞれの場所へ沈んでいくような沈黙。
私は、もう一度、奥の部屋を見た。
何もない部屋。
中央の椅子。
少し離れた主人の椅子。
静かな空気。
ここで、私は過去の失敗を見た。
終わらなかった後悔を聞いた。
尊い方の言葉を受け取った。
そして今、ここに戻ってきている。
でも、不思議なことに、何か特別な力を得た感じはなかった。
むしろ、逆だった。
自分がどれほど揺れる存在なのかを知った。
どれほど混じりやすいのかを知った。
どれほど見続ける必要があるのかを知った。
それなのに、以前よりも少しだけ、静かに座っていられる気がした。
「あの」
「はい」
「私は、これから何をすればいいのでしょう」
主人は、すぐには答えなかった。
しばらく私を見ていた。
そして言った。
「明日も、普通に生きることです」
私は、思わず目を瞬いた。
「普通に、ですか」
「はい」
「もっと、修行とか、何か特別なことをするのかと」
主人は、少し笑った。
「必要な学びは、これからもあります」
「はい」
「でも、特別な場所だけで透明になるのではありません」
私は黙った。
「食事をする時。誰かと話す時。文章を書く時。依頼を受ける時。褒められた時。断られた時。不安になった時」
主人は、一つずつ言った。
「その時に、自分の心を見ることです」
私は、白石さんの顔を思い出した。
雑誌の原稿。
読者からの反応。
人気が出ること。
褒められること。
必要とされること。
そのすべてが、これからも私を揺らすのだろう。
「日常で、ですか」
「はい」
主人は言った。
「奥の部屋でだけ透明でいようとしても、難しいでしょう」
「たしかに」
私は小さく笑った。
「日常で濁ったまま、ここでだけ澄むことはできません」
その言葉は、静かに胸に落ちた。
「だから、普通に生きながら見るのです」
主人は言った。
「嬉しい時も、悔しい時も、焦る時も、寂しい時も」
私は、うなずいた。
「それが、学びですか」
「はい」
主人は答えた。
「そして、その学びの中で、人の前に座る時が来たら、座ればいいのです」
私は、深く息を吸った。
怖さはまだあった。
でも、その怖さの奥に、ほんの少しだけ静けさがあった。
主人は、ゆっくり立ち上がった。
「少し、外の空気を吸いましょうか」
私はうなずいた。
「はい」
立ち上がると、足元が少し頼りなかった。
けれど、不安定ではなかった。
長い旅から戻ってきた後のように、身体の重さが少し遅れて戻ってくる感じがした。
主人が、藍色の布の方へ歩いた。
私は、その後についていった。
布をくぐる前に、一度だけ振り返った。
何もない部屋が、そこにあった。
香の匂いもない。
仏像もない。
特別な道具もない。
ただ、何もない。
けれど、その何もなさは、もう私を拒んでいるようには見えなかった。
何も足さないまま、そこにいてくれる場所。
人の声が、その人の時で現れるまで、静かに空いている場所。
私は、深く頭を下げた。
誰に向けてなのかは、わからなかった。
でも、そうしたかった。
布をくぐると、廊下の灯りが目に入った。
夜の宿の空気が、少し冷たかった。
遠くで、水の音が聞こえた。
私は、ゆっくり息を吸った。
その息は、さっきまでとは違っていた。
深くはない。
特別でもない。
ただ、今ここに戻ってきた人間の息だった。




