八 尊い方
部屋の余白が、さらに深くなったように感じた。
音がしたわけではない。
風が入ったわけでもない。
ただ、さっきまで空いていた場所が、さらに奥へ広がっていくようだった。
私は、目を閉じたままだった。
身体は椅子に沈んでいる。
頬には、涙のあとが残っている。
胸の奥には、まだ石の床の冷たさがあった。
けれど、その冷たさの向こうに、別のものが近づいてくるのを感じた。
近づいてくる、というより、もともとそこにあったものに、ようやく気づくような感じだった。
主人は、少し離れた場所で姿勢を正した。
見ていないはずなのに、それがわかった。
空気が、主人の方へ静かに集まったような気がした。
主人は、しばらく何も言わなかった。
その沈黙は、これまでの沈黙よりもさらに深かった。
待っている沈黙ではなかった。
探っている沈黙でもなかった。
ただ、敬っている沈黙だった。
やがて、主人の声がした。
「これから私は、この魂をお守りする方に、たくさんの愛と感謝と敬意を持って、質問させていただきたいと思います」
その声を聞いた瞬間、胸の奥が震えた。
言葉の意味ではなかった。
声の奥にあるものが、私の中へ入ってきた。
愛。
感謝。
敬意。
それは、私が知っているつもりだった言葉とは違っていた。
誰かを大切に思う気持ち。
ありがたいと思う気持ち。
尊敬する気持ち。
そういうものとは、まるで深さが違った。
主人は、信じているのではなかった。
そこにいるかもしれないと思っているのでもなかった。
当たり前のように、知っていた。
魂をお守りする方が、本当にいらっしゃることを。
その存在が、私よりも、主人よりも、はるかに深くこの魂を見ていることを。
主人は、それを知っていた。
知っているから、疑わない。
疑わないから、求めない。
求めないから、濁らない。
そのことが、声の奥から伝わってきた。
私は、初めて知った気がした。
魂が透明である、ということは、こういうことなのだ。
自分を消すことではない。
何も感じないことではない。
冷たくなることでも、空っぽになることでもない。
これほど深い愛と感謝と敬意が、何も混じらずに流れること。
相手を変えようとしない。
自分を見せようとしない。
答えを得ようとしない。
ただ、その方の尊さの前に、静かに身を置くこと。
主人の声は続いた。
「どうか、お答えいただけますでしょうか」
部屋の中が、さらに静かになった。
何かが降りてくるような感じではなかった。
誰かが遠くから近づいてくるような感じでもなかった。
むしろ、私の奥にあったものが、ずっと奥まで開いていくようだった。
暗さの中に、光があった。
けれど、その光はまぶしくなかった。
形もなかった。
人の姿にも見えなかった。
声とも、気配とも、言い切れなかった。
大きいのに、近い。
遠いのに、私の内側にある。
優しいのに、隠れる場所がない。
裁かないのに、何もごまかせない。
そのようなものが、そこにあった。
私は、呼吸を忘れたようになった。
けれど苦しくはなかった。
その方の前では、私は何者でもなかった。
水瀬という名前も、占い師という役割も、主人に認められたい心も、誰かを助けたい願いも、水面に映った波紋のように、静かにほどけていった。
それでも、私は消えていなかった。
むしろ、初めて、そのままで見られている気がした。
やがて、私の口が静かに開いた。
声が出た。
それは、さっきの過去の人の声とは違っていた。
もっと遠く、もっと深く、けれど不思議なほど近い声だった。
「人は、苦しみを取り除かれるためだけに、生まれるのではありません」
その声は、静かだった。
大きくはない。
けれど、部屋全体に広がった。
「その苦しみの中でしか、輝かない光があります」
私は、その言葉を聞いていた。
聞いているのに、自分の口から出ている。
けれど、さっきの声とは深さが違っていた。
私の奥を通って、もっと遠いところから届いているようだった。
「悲しみの中で、後悔の中で、迷いの中で、その魂が見つけようとしているものがあります」
胸の奥に、過去の女性の顔が浮かんだ。
泣いていた顔。
救われたようにほどけた顔。
そして、その後に残った知らせ。
「その痛みの奥にあるものまで、こちらの手で開いてしまうことがあります」
私は、何も言えなかった。
過去の人の後悔が、胸の奥で静かに震えていた。
「見えたものが真実であっても」
声は言った。
「今、その人に渡してよいとは限りません」
その一言が、深く沈んだ。
「真実は、受け取れる時に、受け取れる形で渡されてこそ、救いになります」
私は、あの女性の顔を思い出していた。
愛を受け取った顔。
その顔は、たしかに救われていた。
けれど、その救いは、あの人をこの世につなぎ止めるものにはならなかった。
「早すぎる真実は、光ではなく、重さになることがあります」
声は、静かに言った。
「深すぎる光は、その人の足元を崩すことがあります」
しばらく、何も聞こえなかった。
私は、あの女性の静かな顔を思い出していた。
救われたように見えた顔。
けれど、その足元までは、私は見ていなかった。
「その人が、今、どこまで受け取れるのか」
「どの深さまで、自分の足で降りられるのか」
「その痛みの中で、何を守り、何をまだ受け取れずにいるのか」
「それを見ることです」
見ること。
その言葉が、過去の人の声と重なった。
「あなた方にできることは、その人の内側から出てくる光を、邪魔しないことです」
その声は、さらに静かになった。
「光を与えるのではありません」
「光を作るのでもありません」
「その人の中にすでにあるものが、その人自身の時によって現れることを、妨げないことです」
妨げないこと。
その言葉が、胸に残った。
「透明とは、揺れないことではありません」
声は言った。
「揺れた時に、その揺れを知ることです」
「完全になることではありません」
「見続けることです」
私は、深く息を吐いた。
その言葉は、許しのようでもあり、逃げ場をなくすもののようでもあった。
「その人には、その人の時があります」
声は言った。
「その人には、その人の深さがあります」
少し間があった。
「その時、その人、その場を見なさい」
声は言った。
主人が、静かに尋ねた。
「水瀬さんに、これから必要なことは何でしょうか」
その問いに、部屋の奥がさらに静まった。
私の口が、ゆっくり開いた。
「急がないことです」
声は言った。
「力があるかどうかを、確かめようとしないこと」
少し間があった。
「けれど、必要な時に逃げないこと」
私は、その言葉を聞いた。
胸の奥が、静かに震えた。
主人は、少し間を置いて、もう一度尋ねた。
「この方は、秘術を扱ってよいのでしょうか」
その問いに、私は身体の奥が固くなるのを感じた。
知りたかった答えだった。
けれど、もう以前のように、合格か不合格のようには聞こえなかった。
部屋の中に、長い沈黙があった。
やがて、声が言った。
「扱うことを許される者は、扱いたがる者ではありません」
私は、息を止めた。
「扱うことの怖さを知り、それでも必要な時には逃げない者です」
少し間があった。
「この方は、まだ揺れます」
その言葉に、胸が痛んだ。
けれど、その痛みは不思議と嫌ではなかった。
「けれど、揺れることを知りました」
声は続けた。
「見続ける必要を知りました」
「ならば、これから学びながら、扱いなさい」
涙が、また頬を伝った。
それは、許可だったのかもしれない。
けれど、祝福というより、始まりの合図に近かった。
終わりではない。
到達ではない。
ここから、やっと始まる。
そんな静けさがあった。
主人が、深く頭を下げた気配がした。
「ありがとうございました」
その声は、震えていなかった。
けれど、そこには深い深い感謝があった。
「たくさんの愛と感謝と敬意を込めて、この問いにお答えくださったことに、心より感謝いたします」
その言葉を聞いた時、尊い方の気配が、さらに深く微笑んだような気がした。
微笑んだ、というのは違うかもしれない。
ただ、部屋の奥にあった深さが、ほんの少しやわらかくなった。
私の口から、最後に小さな声が出た。
「見守っています」
それは、誰に向けられた言葉なのかわからなかった。
私へ。
主人へ。
これから出会う誰かへ。
あるいは、すべてへ。
その声のあと、部屋は静かになった。
深い静けさだった。
何かが去った感じはしなかった。
ただ、私の中で開いていた場所が、ゆっくりと閉じていくようだった。
主人の声が、遠くから届いた。
「ゆっくり、呼吸を戻していきましょう」
私は、息を吸った。
肺に空気が入る。
吐く。
椅子の背が、身体を支えている。
膝の上に、手がある。
頬に、涙のあとがある。
少しずつ、奥の部屋へ戻っていく。
「足の裏を感じてください」
主人が言った。
足の裏。
さっきまで石の冷たさを感じていた場所。
今は、床についた足の重みがある。
「手を、ゆっくり動かしてください」
指先が、かすかに動いた。
「戻ってきて大丈夫です」
その言葉に、胸の奥がゆるんだ。
戻ってきて大丈夫。
どこかへ行ききる必要はない。
何かになりきる必要もない。
私は、水瀬として、ここへ戻ってきていい。
そう言われたような気がした。
私は、ゆっくり目を開けた。
奥の部屋は、何も変わっていなかった。
香の匂いもない。
仏像もない。
特別な道具もない。
中央の椅子。
少し離れた主人の椅子。
静かな空気。
ただ、それだけだった。
けれど、何もない部屋の何もなさが、もう怖くなかった。
主人は、少し離れた場所に座っていた。
近すぎず、遠すぎもしない距離で。
その目は、いつもと同じように静かだった。
私は、しばらく何も言えなかった。
言葉にすると、何かが壊れてしまいそうだった。
主人も、何も急がなかった。
ただ、私が戻ってくるのを待っていた。




