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悩みを抱えた客だけがたどり着く宿で、僕はあなたを守る者の声を聴く ~答えを教えない、不思議な宿の六つの物語~  作者: 牧静
第六話 最後の秘術

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八 尊い方

部屋の余白が、さらに深くなったように感じた。


音がしたわけではない。


風が入ったわけでもない。


ただ、さっきまで空いていた場所が、さらに奥へ広がっていくようだった。


私は、目を閉じたままだった。


身体は椅子に沈んでいる。


頬には、涙のあとが残っている。


胸の奥には、まだ石の床の冷たさがあった。


けれど、その冷たさの向こうに、別のものが近づいてくるのを感じた。


近づいてくる、というより、もともとそこにあったものに、ようやく気づくような感じだった。


主人は、少し離れた場所で姿勢を正した。


見ていないはずなのに、それがわかった。


空気が、主人の方へ静かに集まったような気がした。


主人は、しばらく何も言わなかった。


その沈黙は、これまでの沈黙よりもさらに深かった。


待っている沈黙ではなかった。


探っている沈黙でもなかった。


ただ、敬っている沈黙だった。


やがて、主人の声がした。


「これから私は、この魂をお守りする方に、たくさんの愛と感謝と敬意を持って、質問させていただきたいと思います」


その声を聞いた瞬間、胸の奥が震えた。


言葉の意味ではなかった。


声の奥にあるものが、私の中へ入ってきた。


愛。


感謝。


敬意。


それは、私が知っているつもりだった言葉とは違っていた。


誰かを大切に思う気持ち。


ありがたいと思う気持ち。


尊敬する気持ち。


そういうものとは、まるで深さが違った。


主人は、信じているのではなかった。


そこにいるかもしれないと思っているのでもなかった。


当たり前のように、知っていた。


魂をお守りする方が、本当にいらっしゃることを。


その存在が、私よりも、主人よりも、はるかに深くこの魂を見ていることを。


主人は、それを知っていた。


知っているから、疑わない。


疑わないから、求めない。


求めないから、濁らない。


そのことが、声の奥から伝わってきた。


私は、初めて知った気がした。


魂が透明である、ということは、こういうことなのだ。


自分を消すことではない。


何も感じないことではない。


冷たくなることでも、空っぽになることでもない。


これほど深い愛と感謝と敬意が、何も混じらずに流れること。


相手を変えようとしない。


自分を見せようとしない。


答えを得ようとしない。


ただ、その方の尊さの前に、静かに身を置くこと。


主人の声は続いた。


「どうか、お答えいただけますでしょうか」


部屋の中が、さらに静かになった。


何かが降りてくるような感じではなかった。


誰かが遠くから近づいてくるような感じでもなかった。


むしろ、私の奥にあったものが、ずっと奥まで開いていくようだった。


暗さの中に、光があった。


けれど、その光はまぶしくなかった。


形もなかった。


人の姿にも見えなかった。


声とも、気配とも、言い切れなかった。


大きいのに、近い。


遠いのに、私の内側にある。


優しいのに、隠れる場所がない。


裁かないのに、何もごまかせない。


そのようなものが、そこにあった。


私は、呼吸を忘れたようになった。


けれど苦しくはなかった。


その方の前では、私は何者でもなかった。


水瀬という名前も、占い師という役割も、主人に認められたい心も、誰かを助けたい願いも、水面に映った波紋のように、静かにほどけていった。


それでも、私は消えていなかった。


むしろ、初めて、そのままで見られている気がした。


やがて、私の口が静かに開いた。


声が出た。


それは、さっきの過去の人の声とは違っていた。


もっと遠く、もっと深く、けれど不思議なほど近い声だった。


「人は、苦しみを取り除かれるためだけに、生まれるのではありません」


その声は、静かだった。


大きくはない。


けれど、部屋全体に広がった。


「その苦しみの中でしか、輝かない光があります」


私は、その言葉を聞いていた。


聞いているのに、自分の口から出ている。


けれど、さっきの声とは深さが違っていた。


私の奥を通って、もっと遠いところから届いているようだった。


「悲しみの中で、後悔の中で、迷いの中で、その魂が見つけようとしているものがあります」


胸の奥に、過去の女性の顔が浮かんだ。


泣いていた顔。


救われたようにほどけた顔。


そして、その後に残った知らせ。


「その痛みの奥にあるものまで、こちらの手で開いてしまうことがあります」


私は、何も言えなかった。


過去の人の後悔が、胸の奥で静かに震えていた。


「見えたものが真実であっても」


声は言った。


「今、その人に渡してよいとは限りません」


その一言が、深く沈んだ。


「真実は、受け取れる時に、受け取れる形で渡されてこそ、救いになります」


私は、あの女性の顔を思い出していた。


愛を受け取った顔。


その顔は、たしかに救われていた。


けれど、その救いは、あの人をこの世につなぎ止めるものにはならなかった。


「早すぎる真実は、光ではなく、重さになることがあります」


声は、静かに言った。


「深すぎる光は、その人の足元を崩すことがあります」


しばらく、何も聞こえなかった。


私は、あの女性の静かな顔を思い出していた。


救われたように見えた顔。


けれど、その足元までは、私は見ていなかった。


「その人が、今、どこまで受け取れるのか」


「どの深さまで、自分の足で降りられるのか」


「その痛みの中で、何を守り、何をまだ受け取れずにいるのか」


「それを見ることです」


見ること。


その言葉が、過去の人の声と重なった。


「あなた方にできることは、その人の内側から出てくる光を、邪魔しないことです」


その声は、さらに静かになった。


「光を与えるのではありません」


「光を作るのでもありません」


「その人の中にすでにあるものが、その人自身の時によって現れることを、妨げないことです」


妨げないこと。


その言葉が、胸に残った。


「透明とは、揺れないことではありません」


声は言った。


「揺れた時に、その揺れを知ることです」


「完全になることではありません」


「見続けることです」


私は、深く息を吐いた。


その言葉は、許しのようでもあり、逃げ場をなくすもののようでもあった。


「その人には、その人の時があります」


声は言った。


「その人には、その人の深さがあります」


少し間があった。


「その時、その人、その場を見なさい」


声は言った。


主人が、静かに尋ねた。


「水瀬さんに、これから必要なことは何でしょうか」


その問いに、部屋の奥がさらに静まった。


私の口が、ゆっくり開いた。


「急がないことです」


声は言った。


「力があるかどうかを、確かめようとしないこと」


少し間があった。


「けれど、必要な時に逃げないこと」


私は、その言葉を聞いた。


胸の奥が、静かに震えた。


主人は、少し間を置いて、もう一度尋ねた。


「この方は、秘術を扱ってよいのでしょうか」


その問いに、私は身体の奥が固くなるのを感じた。


知りたかった答えだった。


けれど、もう以前のように、合格か不合格のようには聞こえなかった。


部屋の中に、長い沈黙があった。


やがて、声が言った。


「扱うことを許される者は、扱いたがる者ではありません」


私は、息を止めた。


「扱うことの怖さを知り、それでも必要な時には逃げない者です」


少し間があった。


「この方は、まだ揺れます」


その言葉に、胸が痛んだ。


けれど、その痛みは不思議と嫌ではなかった。


「けれど、揺れることを知りました」


声は続けた。


「見続ける必要を知りました」


「ならば、これから学びながら、扱いなさい」


涙が、また頬を伝った。


それは、許可だったのかもしれない。


けれど、祝福というより、始まりの合図に近かった。


終わりではない。


到達ではない。


ここから、やっと始まる。


そんな静けさがあった。


主人が、深く頭を下げた気配がした。


「ありがとうございました」


その声は、震えていなかった。


けれど、そこには深い深い感謝があった。


「たくさんの愛と感謝と敬意を込めて、この問いにお答えくださったことに、心より感謝いたします」


その言葉を聞いた時、尊い方の気配が、さらに深く微笑んだような気がした。


微笑んだ、というのは違うかもしれない。


ただ、部屋の奥にあった深さが、ほんの少しやわらかくなった。


私の口から、最後に小さな声が出た。


「見守っています」


それは、誰に向けられた言葉なのかわからなかった。


私へ。


主人へ。


これから出会う誰かへ。


あるいは、すべてへ。


その声のあと、部屋は静かになった。


深い静けさだった。


何かが去った感じはしなかった。


ただ、私の中で開いていた場所が、ゆっくりと閉じていくようだった。


主人の声が、遠くから届いた。


「ゆっくり、呼吸を戻していきましょう」


私は、息を吸った。


肺に空気が入る。


吐く。


椅子の背が、身体を支えている。


膝の上に、手がある。


頬に、涙のあとがある。


少しずつ、奥の部屋へ戻っていく。


「足の裏を感じてください」


主人が言った。


足の裏。


さっきまで石の冷たさを感じていた場所。


今は、床についた足の重みがある。


「手を、ゆっくり動かしてください」


指先が、かすかに動いた。


「戻ってきて大丈夫です」


その言葉に、胸の奥がゆるんだ。


戻ってきて大丈夫。


どこかへ行ききる必要はない。


何かになりきる必要もない。


私は、水瀬として、ここへ戻ってきていい。


そう言われたような気がした。


私は、ゆっくり目を開けた。


奥の部屋は、何も変わっていなかった。


香の匂いもない。


仏像もない。


特別な道具もない。


中央の椅子。


少し離れた主人の椅子。


静かな空気。


ただ、それだけだった。


けれど、何もない部屋の何もなさが、もう怖くなかった。


主人は、少し離れた場所に座っていた。


近すぎず、遠すぎもしない距離で。


その目は、いつもと同じように静かだった。


私は、しばらく何も言えなかった。


言葉にすると、何かが壊れてしまいそうだった。


主人も、何も急がなかった。


ただ、私が戻ってくるのを待っていた。

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