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悩みを抱えた客だけがたどり着く宿で、僕はあなたを守る者の声を聴く ~答えを教えない、不思議な宿の六つの物語~  作者: 牧静
第六話 最後の秘術

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十 エピローグ

一年が過ぎた。


雑誌の連載は、今も続いている。


月野しずくのコーナーは、思っていた以上に読まれるようになった。


読者からの相談も増えた。


カードを引き、言葉を書く。


けれど以前ほど、答えを書こうとは思わなくなった。


相手を変えようとする言葉は、少し熱を持ちすぎる。


読者の奥にあるものを信じている言葉は、静かに余白を残す。


その違いを、原稿を書くたびに感じるようになった。


大きく変わった、とは思わない。


何か特別な力を得たわけでもない。


迷わなくなったわけでもない。


今でも、揺れる。


褒められれば嬉しい。


必要とされれば、胸が熱くなる。


断られれば、少し傷つく。


誰かの痛みに触れれば、助けたいと思う。


その心は、今も私の中にある。


けれど、その心が動いた時、以前より少しだけ気づけるようになった。


今、私は何を求めたのか。


相手のためだと思いながら、自分の安心を求めていないか。


寄り添っているつもりで、相手に私の願いを背負わせていないか。


その言葉の意味を、一年かけて、私は少しずつ知っていった。


透明でいることは、奥の部屋の中だけにあるものではなかった。


食事をする時。


誰かと話す時。


文章を書く時。


依頼を受ける時。


褒められた時。


断られた時。


何気ない返信を待っている時。


その全部が、私の心を見る場所だった。


白石さんとは、以前よりずっと距離が縮まっていた。


仕事の打ち合わせなのに、白石さんはよく笑うようになった。


いや、よく笑うというより、少しおちゃらけるようになった。


「水瀬さん、今回の原稿、すごくいいです」


ある日、白石さんはそう言ったあと、急に声色を変えた。


「……いや、いいです。よすぎます。編集部がざわつきます。これはもう事件です」


「事件ですか」


私が笑うと、白石さんは急に真顔に戻った。


「すみません。最近、水瀬さんの前だと、なんかはめ外しやすくなっちゃって」


そう言って、少し恥ずかしそうに笑った。


「仕事の話なのに、すぐふざけますよね、私」


「いいと思います」


私が言うと、白石さんは目を丸くした。


「いいんですか」


「はい」


「水瀬さん、前よりそういうところ、ゆるくなりましたよね」


「そうですか」


「はい。前は、もっとちゃんとしていなきゃいけない感じがありました」


私は、少し黙った。


それは白石さんの変化だけではなく、私の変化なのだと思った。


私が自然にいられるようになったから、白石さんも自然に崩れられる。


私が相手の言葉を正しく受け取ろうと身構えていた時、白石さんもどこかで、編集者として正しくあろうとしていたのかもしれない。


魂は、言葉だけで触れ合っているわけではない。


こちらの焦りは、相手の焦りを呼ぶことがある。


こちらの期待は、相手に余計な役割を背負わせることがある。


こちらの濁りは、気づかないうちに、相手へ渡ってしまうことがある。


逆も、ある。


こちらが少し自然でいられると、相手も少し自然でいられる。


こちらが相手を変えようとしなければ、相手は自分の形でいられる。


それは、不思議なことではなかった。


日常の中で、いつも起きていることだった。


「でも、白石さん」


私は言った。


「はめ外しすぎたら、私、ちゃんと笑いますね」


「注意じゃなくて、笑うんですか」


「はい」


「それ、逆に恥ずかしいですね」


白石さんはそう言って、また笑った。


その笑いを見ながら、私は胸の奥で小さく息をした。


以前の私なら、白石さんとの距離が近づくことを、どこかで怖がっていたかもしれない。


近づいた人ほど、あとで遠くなる。


面白いと言ってくれた人ほど、いつか言葉が薄くなる。


そんな未来を探していたかもしれない。


でも今は、少し違った。


今、白石さんが笑っている。


今、私はそれを嬉しいと思っている。


それでよかった。


その嬉しさを、未来の保証にしなくていい。


自分の価値の証明にしなくていい。


ただ、今ここにあるものとして受け取ればいい。


その日の夕方、私は宿へ向かった。


駅から途中までタクシーに乗り、細い道の手前で降りる。


そこから少し歩く。


坂道を上がる途中で、遠くから水の音が聞こえてくる。


初めて来た日と、同じ道だった。


けれど、歩いている私は、あの日と同じではなかった。


宿は、一年前と大きく変わっていなかった。


玄関の明かり。


木の匂い。


遠くで鳴る水音。


食堂の窓から漏れる、あたたかい光。


そのどれもが、前からそこにあったもののように私を迎えた。


主人は、いつものように食堂の隅で静かにお茶を淹れていた。


私は席に座り、湯呑みに手を添えた。


温かかった。


「今日、白石さんと打ち合わせをしました」


主人は、静かにうなずいた。


「はい」


「最近、私の前だと、はめ外しやすくなってしまうそうです」


言いながら、私は少し笑った。


「仕事の話なのに、すぐふざけてしまうって、恥ずかしそうにしていました」


主人は、少しだけ笑った。


「よいことですね」


「そうですか」


「はい」


主人は言った。


「人が少し自然に戻れるなら、それはよいことです」


私は、その言葉を静かに受け取った。


人を救う、という大きな言葉ではなく。


人が少し自然に戻る。


そのくらいの言葉が、今の私にはちょうどよかった。


「ただ」


私は言った。


「私の濁りも、相手に渡ってしまうことがあるんだと思いました」


主人は、黙って聞いていた。


「期待したり、認められたいと思ったり、必要とされたがったり。そういうものは、言葉にしなくても、相手に伝わるんですね」


「伝わります」


主人は言った。


「だから、日常で見るんですね」


「はい」


主人はうなずいた。


それだけだった。


それ以上の説明はなかった。


でも、その短いやり取りで十分だった。


夜になると、宿はまた少し奥行きを増した。


廊下の灯りは淡く、窓の外には黒い山の影があった。


私は、その夜、奥の部屋には入らなかった。


ただ、食堂で原稿を書き、白石さんへ送るメールの文面を整え、明日の相談の準備をした。


普通のことだった。


けれど、その普通の中に、学びはあった。


文章の一文を直す時。


相手にどう思われるかを気にしている自分を見る。


メールの返信を待つ時。


早く返ってきてほしい自分を見る。


相談の準備をする時。


よい時間にしたいと思う自分の中に、よい術者だと思われたい心が混じっていないかを見る。


日常は、思っていたよりずっと深かった。


奥の部屋へ入る前から、もうすでに場は始まっている。


そんな気がした。


数日後、一人の女性が宿へ来た。


私の鑑定を受けたいという人だった。


雑誌の読者だと言った。


年齢は、私より少し上だろうか。


服装は整っていたが、手元だけが落ち着かなかった。


指先が、何度も鞄の持ち手を撫でていた。


私は、食堂の隅の席に案内した。


椅子に座った女性は、すぐに私を見た。


その目には、不安と期待が混じっていた。


この人なら、何かを見つけてくれるかもしれない。


この人なら、私の悩みをほどいてくれるかもしれない。


そういう思いが、かすかに伝わってきた。


その瞬間、私は、一年前のあの夜の主人の言葉を思い出した。


麓にいる人から見れば、少し上にいる人は、とても高いところにいるように見える。


けれど、頂上から見れば、麓での少しの差は、ほとんど同じ場所に見えることがある。


主人は、そう言っていた。


尊い方の前では、主人と私の違いでさえ、麓での小さな差にすぎない。


あの時の私は、すぐには受け取れなかった。


主人と私が同じはずがない。


そう思う心があった。


けれど今、人の前に座るようになって、少しずつわかってきた。


違いはある。


技術も、経験も、深さも違う。


そこを曖昧にしてはいけない。


けれど、その違いは、魂の尊さの違いではない。


私が話を聞く側だから、高いのではない。


この人が話しに来た側だから、低いのではない。


迷っている人と、聞いている人。


話す人と、待つ人。


その役割は違う。


けれど、尊い方の前では、どちらの魂も同じように尊い。


そのことを忘れた瞬間、私は相手の上に立ってしまう。


相手の上に立てば、その人を助けたくなる。


救いたくなる。


導きたくなる。


けれど本当は、その人の魂は、私より下にあるわけではない。


その人の中にも、まだ言葉にならない光がある。


その人をお守りする方がいらっしゃる。


私よりも深く、この人を見ておられる方がいらっしゃる。


だから私は、この人を救う人として座るのではない。


この人の魂が、この人の時で立ち上がる場所を、静かに空けるために座る。


それだけだった。


その「それだけ」を、私は忘れそうになる。


だから、思い出す。


女性は、最初は仕事の悩みだと言った。


人間関係。


今後の方向性。


自分が何をしたいのかわからない。


そういう言葉が並んだ。


私は、相づちを打ちながら聞いていた。


カードは、まだ出さなかった。


しばらく話しているうちに、女性の声が少しずつ小さくなった。


「本当は」


女性は言った。


「別のことを聞きたいのかもしれません」


私は、黙っていた。


先を促さなかった。


「でも、言うと、崩れそうで」


女性の目に涙が浮かんだ。


私は、その涙を見た。


助けたい心が動いた。


大丈夫です、と言いたくなった。


ここでは話していいですよ、と言いたくなった。


その痛みを、早くほどいてあげたくなった。


けれど、その心を見た。


今、助けたいと思った。


その中に、私が役に立ちたい心も少しある。


私は、それを見た。


見た上で、静かに息をした。


女性は、涙を拭かなかった。


私は、カードを出さなかった。


「無理に言葉にしなくて大丈夫です」


私は言った。


「はい」


「今、言えるところからで大丈夫です」


女性は頷いた。


けれど、まだ言葉は出なかった。


私は、しばらくそのまま待った。


窓の外で、風が木の葉を揺らした。


遠くで、水の音が聞こえた。


女性の呼吸が、少し乱れていた。


私は、その乱れを変えようとしなかった。


ただ、一緒にいた。


やがて女性が、小さな声で言った。


「少し、目を閉じてもいいですか」


私は頷いた。


「もちろんです」


女性は目を閉じた。


そのあと、沈黙だけが残った。


沈黙の深さが、先ほどとは少し違っていた。


声にする前のものが、聞こえやすい静けさだった。


私は、もう一度だけ息を整えた。


「では」


自分の声が、思っていたより落ち着いていることに気づいた。


「ゆっくりと、呼吸をしていきましょう」

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