六 石の床
「石の床があります」
私は言った。
「冷たいです」
自分の声が、どこか遠くから聞こえた。
奥の部屋の椅子に座っているはずなのに、足の裏には、たしかに冷たさがあった。
湿った石の冷たさ。
裸足の裏から、ゆっくりと上がってくる冷たさ。
「建物の中にいます」
私は続けた。
「古い場所です。山の奥なのか、寺なのか……わかりません。でも、木の匂いがします。湿った石と、古い木の匂いです」
低い天井があった。
太い柱があった。
外では風が鳴っていた。
木々が揺れている音が、建物の中まで入ってくる。
私はそこに立っていた。
けれど、私ではなかった。
若い女だった。
今の私より、ずっと若い。
けれど、その胸の奥にある焦りは、よく知っているものだった。
部屋の中央に、別の女の人が座っていた。
薄い布を肩に掛け、両手を膝の上で重ねている。
顔色は悪く、唇に色がなかった。
泣いているわけではない。
けれど、泣き方を忘れてしまった人の顔だった。
目の奥だけが、乾いている。
その女の人の前に、師が座っていた。
今の主人と同じ顔だったのか、同じ姿だったのかはわからない。
けれど、その在り方は似ていた。
静かだった。
何かを見抜いているのに、それを急いで言葉にしない。
何かを知っているのに、その知っているものを前に出さない。
師は、その人の話を聞いていた。
長い沈黙のあと、女の人が口を開いた。
「幼い娘を、亡くしました」
声は、乾いていた。
「事故だったと、皆は言います。誰のせいでもないと、何度も言われました」
師は、何も言わなかった。
ただ、その人の呼吸を見ていた。
女の人の指先が、膝の上でかすかに震えた。
「でも、違います」
その声が、少しだけ強くなった。
「私が、死なせたのです」
私は、息を止めた。
その言葉は、部屋の中に落ちたまま、どこにも流れていかなかった。
師は、すぐには返事をしなかった。
慰めもしなかった。
否定もしなかった。
「あなたのせいではありません」とも言わなかった。
ただ、その言葉がそこにあることを、静かに見ていた。
その沈黙に、私は胸が苦しくなった。
何か言ってあげればいいのに。
そう思った。
この人は、こんなにも苦しんでいる。
自分を責めている。
誰かが、その罪をほどいてあげなければならない。
女の人は、また顔を伏せた。
「あの時、私が目を離さなければ」
声が、細くなった。
「私が、母でなければ」
それ以上は、言葉にならなかった。
師は、長くその人を見ていた。
そして、静かに言った。
「今日は、お帰りにならない方がよいでしょう」
女の人は、顔を上げなかった。
「休んでいただきなさい」
師は、私の方を見た。
「部屋へ案内してあげなさい」
私は、はい、と答えた。
その時、胸の奥が小さく熱くなった。
任された。
そう思った。
師は、この人を私に任せたのだ。
この人のそばにいる役目を、私に与えたのだ。
私は、女の人を客室へ案内した。
奥の部屋ではなかった。
人の祈りや願いが退いていく、あの静かな部屋ではない。
ただ、旅の人が身体を休めるための部屋だった。
小さな寝台があり、薄い掛け布があり、窓の外には暗くなりかけた木々が見えていた。
女の人は、寝台に横になった。
疲れ切っているはずなのに、目を閉じようとしなかった。
天井を見たまま、呼吸だけが浅く動いている。
私は、そのそばに座った。
「眠れそうですか」
そう聞くと、女の人は小さく首を振った。
「眠れるわけがありません」
かすれた声だった。
「目を閉じると、あの子の顔が見えます」
私は、何も言えなかった。
女の人の手は、掛け布の上で固く握られていた。
指の関節が白くなっている。
その手を見ているうちに、胸の奥がまた苦しくなった。
このまま、ただ休ませておくだけでいいのだろうか。
この人は、休めない。
眠れない。
こんなに苦しんでいるのに、私はただそばにいるだけでいいのだろうか。
師は、今日は帰さない方がいいと言った。
部屋へ案内しなさいと言った。
けれど、その先を禁じたわけではない。
そう思った。
思ってしまった。
私は、自分の呼吸を整えた。
師から教わった通りに。
声を変えようとしたわけではなかった。
けれど、その人の呼吸に触れようとすると、声の出どころが自然に深くなった。
それは、声を操るというより、こちらの内側の置き場所が変わることに近かった。
言葉の輪郭がやわらぎ、響きだけが先に届いていく。
私は、間を取った。
女の人の呼吸に、自分の呼吸を合わせた。
「少しだけ、息を整えましょう」
女の人は、返事をしなかった。
けれど、拒まなかった。
私は、それを合図のように受け取ってしまった。
届いている。
そう思った。
「無理に話さなくてかまいません」
私は言った。
「ただ、浮かんでくるものを、そのまま見ていてください」
その言葉は、師から何度も聞いたものだった。
正しい言葉だった。
正しい手順だった。
だから、大丈夫だと思った。
私は、その人を少しでも楽にしたかった。
それは嘘ではなかった。
けれど、その奥に、別の熱があった。
任された私。
師がいない部屋で、この人を導いている私。
この人を救えるかもしれない私。
その熱に、私は気づいていなかった。
女の人の呼吸が、少しずつ深くなっていった。
まぶたが震え、やがて目が閉じられた。
私は、そっと声をかけ続けた。
「胸の奥にあるものを、無理に押さえなくて大丈夫です」
女の人の頬に、涙が一筋流れた。
「言葉にならないものがあれば、そのままでかまいません」
その涙を見て、私はさらに進んだ。
本当は、そこで待つべきだったのだと思う。
けれど、その時の私は待てなかった。
涙が出たことで、扉が開いたのだと思った。
開いた扉の向こうへ、導かなければならないと思った。
「その子は、そこにいますか」
私は尋ねた。
女の人の唇が、小さく震えた。
「……います」
その声を聞いた瞬間、私の胸が熱くなった。
やはり、いる。
そこに触れられる。
私は、さらに声を落とした。
「どこにいますか」
「庭に」
女の人は、目を閉じたまま言った。
「明るいところにいます」
「どんな様子ですか」
「笑っています」
その言葉のあと、女の人の顔が崩れた。
「笑っているんです」
涙が、あとからあとから流れた。
私は、その涙を見て、救いが始まったのだと思った。
「近づいても大丈夫です」
私は言った。
「ゆっくり、近づいてください」
女の人の呼吸が震えた。
「抱いています」
かすれた声だった。
「私が、あの子を……抱いています」
少し間があった。
「いえ」
女の人の眉が、少しだけほどけた。
「あの子が、私を抱いています」
私は、息を呑んだ。
その言葉は、部屋の空気を変えた。
女の人は、泣いていた。
でも、その涙はさっきまでの涙とは違っていた。
苦しみだけではなかった。
長く凍っていたものが、初めて温かいものに触れたような涙だった。
「何か、伝わってきますか」
私は聞いた。
女の人は、何度も息をしながら、ゆっくり言った。
「お母さんでよかった、と」
私は、身体の奥が震えた。
「私が、お母さんでよかったって」
女の人は、両手を胸の前で握りしめた。
「愛されていたことを、知っているって」
涙声だった。
「私も、お母さんを愛しているって」
その言葉を聞いた時、私は、美しいものに触れたと思った。
本当にそこにあったのだと思った。
亡くなった娘の愛。
母を責めるのではなく、母を包むもの。
それは、嘘ではなかった。
幻でもなかった。
たしかに、そこにある真実だった。
だから私は、そのまま支えた。
「そのまま、受け取ってください」
女の人は、何度も泣いた。
「ごめんね」と言った。
「ありがとう」と言った。
「お母さんも愛している」と、何度も言った。
やがて、顔が静かになった。
初めて眠る子どものように、力が抜けていた。
「ありがとうございました」
女の人は、目を閉じたまま言った。
「やっと、息ができます」
私は、その言葉を受け取ってしまった。
救えたのだと、思ってしまった。
その夜、女の人は眠った。
深く、静かに眠っているように見えた。
私は部屋を出て、師のもとへ戻った。
師は何も聞かなかった。
「眠られましたか」
そう尋ねただけだった。
「はい」
私は答えた。
「よく、眠っていらっしゃいます」
師は、しばらく黙っていた。
それから、小さくうなずいた。
褒められはしなかった。
けれど、責められもしなかった。
その沈黙の意味を、私はわからなかった。
数日後、その方が亡くなったと知らされた。
自ら、命を手放されたのだと。
その知らせを聞いた時、最初、意味がわからなかった。
なぜ。
救われたはずだった。
あの方は泣いた。
息ができると言った。
娘に愛されていたと知った。
母でよかったと知った。
なのに、なぜ。
私は師の前に座っていた。
石の床の冷たさが、あの日よりも深く感じられた。
師は、長い沈黙のあとで言った。
「あなたが、その方を死なせたのではありません」
その言葉に、私はかえって息が苦しくなった。
責められた方が、まだ楽だった。
お前のせいだと言われた方が、どこかへ落ちることができた。
けれど師は、そう言わなかった。
ただ、静かに続けた。
「けれど、あなたは扉を開けました」
私は、顔を上げた。
「私は、休んでいただきなさいと言いました」
その言葉が、石の床に落ちたように聞こえた。
「あなたは、その方がまだ一人では立てない場所へ、導きました」
私は、何も言えなかった。
「見えたものは、偽りではなかったのでしょう」
師は続けた。
「あの子の愛は、そこにあったのでしょう。あの方が母として愛されていたことも、本当だったのでしょう」
胸の奥が震えた。
「けれど、本当だからといって、今渡してよいとは限りません」
その言葉は、責めるものではなかった。
けれど、責められるよりも深く刺さった。
「その方は、まだその真実を抱けるところまで来ていませんでした」
師は言った。
「あなたは、その方の罪をほどいたのかもしれません」
私は、息を止めた。
「けれど同時に、この世に留まるための細い糸まで、ほどいてしまったのです」
胸の奥で、何かが静かに崩れた。
私は、泣けなかった。
ただ、息ができなかった。
「私は……救ったのでは、なかったのですか」
そう聞いた。
師は、すぐには答えなかった。
「あなたは、触れました」
師は言った。
「けれど、見てはいませんでした」
その言葉が、深く残った。
触れた。
けれど、見ていなかった。
私は、女の人の奥にあった愛に触れた。
亡くなった娘の優しさに触れた。
それは嘘ではなかった。
けれど、私は、その方がその真実を受け取ったあと、地上に立っていられるかどうかを見ていなかった。
その方の足元を見ていなかった。
呼吸を見ていなかった。
沈黙の薄さを見ていなかった。
私は、真実の美しさを見ていた。
その真実を伝えられる自分を見ていた。
その人を救える自分を、見ていた。
「私は」
声が出た。
それは、今の奥の部屋で、私の口から出ている声だった。
けれど、石の床の上にいたその人の声でもあった。
「私は、救いたかった」
主人は、少し離れたところで、静かに聞いていた。
私は続けた。
「何もできないことが、耐えられなかった」
胸の奥に、古い痛みが広がる。
「苦しんでいる人の前で、ただ待つことができませんでした」
言葉が、私の口から出ていく。
「師から教わった言葉がありました。手順がありました。呼吸がありました。沈黙がありました」
私は、ゆっくり言った。
「それを正しく使えば、人の奥にあるものを開けるはずだと思っていました」
主人は、何も遮らなかった。
「でも、私は、その人を見ていませんでした」
言葉が震えた。
「その人の奥にある真実を見ていました。真実を渡せる自分を見ていました」
息が苦しくなった。
「その人を救える自分を、見ていました」
言った瞬間、胸の奥で、あの日の石の冷たさが広がった。
それは、石の床に膝をついていた私の痛みだった。
けれど、その声は、もうあの場所だけのものではなかった。
奥の部屋で、主人が静かに聞いている。
私は、あの日の冷たさを胸に残したまま、今の私の口で語っていた。
主人が、静かに口を開いた。
「あなたは、どなたですか」




