五 何もない部屋
主人のあとについて、私は階段を上がった。
廊下は静かだった。
夜の宿は、昼間よりも少しだけ奥行きが深くなる。
同じ板の床なのに、足音が遠くまで届くような気がした。
藍色の布が見えてきた。
朝見た時よりも、昼に通った時よりも、その色は深かった。
天井から床近くまで垂れた布は、廊下の奥を静かにふさいでいた。
照明の淡い光を受けて、藍色の表面に、ほとんど見えないくらいの陰影が揺れている。
私は、その前で足を止めた。
今朝は、ここを見て胸が熱くなった。
私は入るのだろうか。
主人は私を認めてくれるのだろうか。
私はここまで来たのだろうか。
そんな思いが、たしかにあった。
けれど今は、同じ布を見ても、少し違っていた。
怖くないわけではない。
期待がないわけでもない。
ただ、そのどちらも、私の全部ではなかった。
呼ばれたい私がいる。
怖い私もいる。
ここまで来たのだと思いたい私もいる。
けれど、その思いだけで、私の中がいっぱいになっているわけではなかった。
主人は布の前で立ち止まり、私を振り返った。
「よろしいですか」
私は、小さくうなずいた。
「はい」
主人は、藍色の布を静かに寄せた。
その向こうに、奥の部屋があった。
初めてこの部屋に入った夜のことが、ふと重なった。
やはり、そこには何もなかった。
香の匂いもない。
仏像もない。
怪しげな道具もない。
何かを祈った跡も、誰かの願いが染みついた感じもない。
ただ、何もない。
中央には、深くもたれることのできる椅子が一つ置かれている。
その少し離れたところに、主人が座るための椅子があった。
私は、部屋に足を踏み入れた。
空気が変わった気がした。
でも、それは何か特別な気配が満ちている、という変化ではなかった。
むしろ、余計なものが静かに遠のいていくような感じだった。
あの夜、私はこの部屋の何もなさが怖かった。
人の祈りや願いで満たされていないことが怖かった。
何も置かれていないからこそ、自分の中にあるものだけが浮かび上がってくるようで怖かった。
その感じは、今もあった。
けれど、その夜、私はもう一つ別のものに気づいていた。
何もないのではない。
何かを足さないように、守られている。
そう感じた。
主人が、少し離れた椅子に座った。
その瞬間、部屋の静けさの質が、わずかに変わった。
満たされた、というより、空いた。
さらに余白が深くなった。
祈りに似ていた。
けれど、何かを叶えようとする祈りではなかった。
優しさに似ていた。
けれど、慰めようとする優しさではなかった。
悲しみにも似ていた。
けれど、沈ませる悲しみではなかった。
ただ、どんな声が現れても、その声を変えずに受け止めるための静けさ。
主人は、部屋を満たしているのではなかった。
部屋を、空けていた。
そのことに、私は初めて気づいた。
「お座りください」
主人が言った。
私は中央の椅子に座った。
思ったよりも深く、身体が沈んだ。
背中が支えられる。
肩の力が、少しずつ下りていく。
主人は、私から少し離れた場所に座っていた。
近くない。
でも、遠くもない。
手を伸ばせば届く距離ではない。
けれど、声は無理なく届く。
その距離が、今はとてもありがたかった。
「目を閉じてください」
主人の声がした。
私は、静かに目を閉じた。
暗くなった。
はじめは、椅子に沈む背中の感覚があった。
膝の上に置いた手の重さがあった。
口の奥には、梨の淡い甘さが残っていた。
けれど、それらは少しずつ遠のいていった。
椅子の感触が薄くなる。
手の重さがほどけていく。
梨の甘さも、どこかへ沈んでいく。
やがて、呼吸の音さえ遠くなった。
残ったのは、主人の声だけだった。
近くにいるはずなのに、遠くから届いているような声。
遠くから聞こえているはずなのに、私の内側で響いているような声。
「聞き取ろうとしなくて大丈夫です」
その言葉も、意味ではなく、音として届いた。
聞き取ろうとしない。
見ようとしない。
探そうとしない。
そう思ったわけではなかった。
ただ、思うことそのものが遠くなっていった。
「ゆっくり、息を吸ってください」
吸う。
「吐きます」
吐く。
「もう一度」
吸う。
吐く。
息をしている感覚も、やがて薄くなった。
「何かを急いで探さなくて大丈夫です」
主人の声が、遠くで聞こえた。
私は、その声を追いかけなかった。
追いかけなくても、声は届いていた。
「今、ここにあるものだけを、静かに見てください」
見る、という言葉も、目で見ることではなかった。
何かの形を探すことでもなかった。
何かがあるなら、あるままに。
何もないなら、何もないままに。
そのくらいのことだった。
暗さは、ただ暗さだった。
静けさは、ただ静けさだった。
何かが見えるかもしれない。
何かが聞こえるかもしれない。
どこかへ連れていかれるかもしれない。
そういう期待も、ほどけていった。
時間の流れも、曖昧になった。
一分だったのかもしれない。
もっと長かったのかもしれない。
やがて、暗さの奥に、かすかな冷たさが生まれた。
足の裏。
そう思った瞬間、足の裏があるのだと気づいた。
けれど、それは奥の部屋の椅子に座っている私の足ではなかった。
私は、どこかに立っていた。
誰かを見ているのではなく。
何かを思い出しているのでもなく。
ただ、冷たいものの上に、立っていた。




