四 梨のゼリー
夕方になっても、塔のカードは机の上に置いたままだった。
表向きのまま。
けれど、もう何も感じなかった。
昼に見た時、あれほど胸を揺らした絵だった。
それなのに今は、ただ一枚のカードだった。
怖くない。
恥ずかしくもない。
意味を探したいとも思わない。
私は、もう揺れていない。
そう思った。
窓の外では、夕方の光が山の端に沈みかけていた。
雨上がりの葉に残っていた水滴も、昼より少なくなっている。
私は、しばらくその景色を見ていた。
何かを待っている感じはなかった。
奥の部屋のことも、主人がいつ呼ぶのかも、考えようとすれば考えられた。
けれど、その考えはすぐに遠のいた。
ただ、夕方になった。
夕食の時間になった。
私は立ち上がり、部屋を出た。
廊下に出ると、藍色の布が視界の端に入った。
朝よりも深い色に見えた。
けれど、足は止まらなかった。
私は、ゆっくり階段を下りた。
一階の食堂には、もう夕食の支度が整っていた。
窓の外は、夕方の光を失いかけていた。
山の輪郭が少しずつ暗くなり、木々の葉は一枚ずつの形を失って、黒いかたまりになっていく。
テーブルには、小さな器がいくつも並んでいた。
蓋つきの椀から、細く湯気が上がっている。
焼き物の皿には、皮の端だけが薄く焦げた魚が置かれていた。
山菜の和え物は、青い香りを残している。
薄く切られた根菜は、出汁を含んで、端の方だけ透明になっていた。
私は席に着いた。
主人は、いつものように一品ずつ静かに置いた。
「どうぞ」
それだけだった。
私は、椀の蓋を取った。
湯気がふわりと顔に触れた。
澄んだ汁の中に、小さなきのこと、白い豆腐が浮かんでいた。
香りは強くない。
けれど、口に含むと、出汁の温かさが舌の奥にゆっくり広がった。
私は、少し時間をかけて飲んだ。
次に、山菜を一口食べた。
苦みがあった。
苦くて、そのあとに少し甘かった。
それだけを感じた。
魚に箸を入れると、皮が小さく音を立てた。
身はやわらかく、箸の先でほろりと崩れた。
白い湯気。
焼き目の香り。
皿の縁に残ったわずかな塩。
小鉢の酢の加減。
ご飯の温かさ。
器を持った時の重み。
湯呑みに触れた指先の熱。
それらが、一つひとつ、ゆっくり入ってきた。
私は、いつもより少し遅く食べていた。
急いでいないわけではない。
味わおうとしているわけでもない。
ただ、食べ物が、食べ物として目の前にあった。
汁は温かく、山菜は苦く、魚は香ばしく、ご飯はやわらかかった。
そのことが、静かに身体の中へ入ってくる。
食事の途中、主人はあまり話さなかった。
それでも、沈黙は気にならなかった。
何かを待つために食べているのではなく、食べるために食べている。
そんな感じがした。
夕食が終わる頃、窓の外はすっかり暗くなっていた。
主人は器を片づけ、最後に温かいお茶を淹れてくれた。
茶葉の香りが、食事の余韻の上に静かに重なった。
私は、湯呑みを両手で包んだ。
ああ、静かだ。
そう思った。
それは、昼間までとは少し違う静けさだった。
塔のカードを見ても、心は動かなかった。
藍色の布の前を通っても、足は止まらなかった。
主人の沈黙も、怖くなかった。
私は、もう落ち着いている。
そう思った。
主人が、器を下げ終えて戻ってきた。
そして、いつもの調子で言った。
「一時間ほどしたら、梨のゼリーが冷えます。よろしければ、また下へいらしてください」
一瞬、意味が入ってこなかった。
梨のゼリー。
私は、主人を見た。
「梨のゼリー、ですか」
「ええ」
主人は静かにうなずいた。
「山の向こうの方から、今朝届きました」
それだけ言って、主人は湯呑みを片づけ始めた。
胸の奥で、小さなものが沈んだ。
あ、まだだったんだ。
そう思った。
思ってしまったことに、自分で少し驚いた。
さっきまで、私は静かだった。
食事の味を味わっていた。
主人の沈黙も気にならなかった。
藍色の布のことも、朝ほど強くは浮かんでこなかった。
それなのに、梨のゼリーという言葉を聞いた瞬間、胸の奥がはっきり沈んだ。
夕食が終われば、次へ進む。
どこかで、そう思っていたのだ。
自分でも気づかないくらい小さく。
呼ばれたい。
その気持ちは、まだそこにあった。
がっかりした。
まだなのかと思った。
今日、何も起きないまま終わるのは嫌だと思った。
私は、その気持ちを追い払わなかった。
まだ、そう思うのだ。
私はまだ、呼ばれたいのだ。
そう認めると、胸の奥に広がった波は、少しだけ形を持った。
「わかりました」
私は答えた。
主人は小さく頭を下げた。
「では、後ほど」
私は部屋へ戻った。
階段を上がる途中、藍色の布の前を通った。
朝よりも、昼よりも、その色は深く見えた。
ほんの少し、足が止まりかけた。
けれど、私はそのまま部屋へ戻った。
机の上には、塔のカードがまだあった。
表向きのまま。
夕食の前には、ただ一枚のカードに見えていた。
けれど今は、少し違った。
黒い空も、崩れる塔も、昼ほど強く迫ってくるわけではない。
それでも、どこかでこちらを見ているような気がした。
梨のゼリー。
まだだったんだ。
その言葉が、胸の奥に残っていた。
さっきまで静かだったはずの心が、また少し波立っている。
大きな波ではない。
けれど、小さいからこそ扱いにくかった。
怒りでもない。
悲しみでもない。
はっきりした不安でもない。
ただ、思っていた流れから少し外されたような、頼りない揺れだった。
私は椅子に座った。
塔のカードを伏せようとは思わなかった。
でも、正面から見続けることもできなかった。
窓の外を見る。
暗くなった山が、ガラスの向こうに沈んでいた。
一時間は、長くも短くもなかった。
時々、胸の奥が小さく沈んだ。
そのたびに、私は思った。
まだ、待っている。
まだ、呼ばれたいと思っている。
そうわかると、波は少し大きくなった。
けれど、どうすればいいのかは、まだわからなかった。
一時間ほどして、私はもう一度階段を下りた。
食堂には、柔らかい灯りがついていた。
昼間の光の中で見た食堂とは、少し違って見えた。
窓の外は黒く、ガラスには部屋の灯りと自分の姿が薄く映っている。
カウンターの上に、小さなガラスの器が置かれていた。
器の中には、淡く透き通ったゼリーが入っていた。
完全な透明ではなかった。
けれど、濁っているわけでもない。
水に、ほんの少し月の光を溶かしたような、淡い白。
その中に、薄く切られた梨が静かに沈んでいた。
梨の果肉は、光を受けて、白というより薄い月の欠片のように見えた。
「きれいですね」
思わず言った。
主人は、小さくうなずいた。
「梨は、いい塩梅を探すのが少し難しいんです」
「あんばい」
私は小さく繰り返した。
主人は、少しだけ笑った。
「今は、あまり言わないかもしれませんね」
「バランス、みたいなことですか」
「近いですが、少し違います」
主人は、器の中の梨を見た。
「バランスというと、分量を合わせる感じがします。こちらを少し減らして、こちらを少し足す。そういう整え方です」
「違うんですか」
「塩梅は、もう少し、ものそのものに聞く感じです」
「ものに、聞く」
「はい」
主人は、スプーンを器の横に置いた。
「梨の熟し方を見る。水の出方を見る。香りの立ち方を見る。甘さがどこまで来ているかを見る。火を入れた時に、どこで梨らしさが残るかを見る」
私は、器の中の梨を見た。
「梨は、そのままなら、しゃりっとした歯ざわりがあります」
主人は続けた。
「けれど、火を入れすぎると、その良さはすぐに消えます。かといって、生のまま入れれば、水が出て、全体がゆるみます」
「難しいんですね」
「ええ」
主人はうなずいた。
「ゼラチンでは固まりにくいこともあります。梨の中には、ゼラチンの力を弱めるものがありますから」
「そうなんですか」
「はい。だから今日は、寒天を使いました」
主人は、器を少しこちらへ寄せた。
「けれど、寒天は強すぎると硬くなります。支える力が強すぎると、中にあるもののやわらかさを奪ってしまう」
その言葉に、私は顔を上げた。
主人は、私を見ているわけではなかった。
ただ、梨のゼリーを見ていた。
「果汁も、入れすぎると全体がぼやけます。少なすぎると、梨はただ中に閉じ込められた果物になります」
「閉じ込められた果物」
「はい」
主人は静かに言った。
「包んでいるものと、中にあるものが、別々になってしまうんです」
私は、スプーンを取った。
ゼリーに入れると、やわらかい抵抗があった。
硬すぎない。
けれど、崩れるほど弱くもない。
口に入れると、最初はほとんど味がしないように思えた。
けれど、少し遅れて、梨の香りが静かに広がった。
甘さは淡い。
強くない。
噛むと、中の梨から水分が出て、ゼリーの甘さと混ざった。
その一口は、すぐにわかる味ではなかった。
急いで飲み込んでしまえば、ただ淡いゼリーだったと思ったかもしれない。
けれど、少し待つと、梨の水のような甘さが残った。
「おいしいです」
そう言うと、主人はいつものように小さくうなずいた。
「よかったです」
私は、もう一口すくった。
主人は、器を見ながら言った。
「前にうまくいった分量を、そのまま使えばいいわけではありません」
「今日の梨には、今日の塩梅があります」
その言葉が、胸の中で静かに響いた。
今日の梨には、今日の塩梅がある。
「その時、そのものが、一番そのものらしくいられるところを探すんです」
主人は、そう言った。
私は、スプーンを持ったまま、しばらく器を見ていた。
その時、そのものが、一番そのものらしくいられるところ。
呼ばれたいと思う私がいる。
それを消そうとしすぎると、私は固くなる。
それを正しいものとして握りしめると、私は濁る。
ただ、あると見る。
そして、その思いだけで、自分をいっぱいにしない。
梨が梨のままでいられるところ。
私にも、私が私のままでいられるところがあるのかもしれない。
まだ呼ばれたい私。
まだがっかりする私。
まだ主人に見てもらいたい私。
まだ奥の部屋に意味を見ている私。
その私を否定しすぎても、たぶん違う。
けれど、その私を肯定しすぎて、握りしめても違う。
私はまだまだだ。
でも、まだまだな私のまま、ここにいてもいいのかもしれない。
そう思った時、胸の奥で何かが少しほどけた。
私は、ゼリーをもう一口食べた。
梨の淡い甘さが、ゆっくり広がった。
強くはない。
けれど、消えてはいない。
私は、その味を追いかけずに、口の中に残るままにした。
今日、何も起きなくてもいいのかもしれない。
ふと、そう思った。
呼ばれなくてもいい。
奥の部屋に入らなくてもいい。
そのことに意味がないわけではない。
ここまでの一日が、何もなかったことになるわけではない。
私は、今日、何度も揺れた。
静まったと思って、また揺れた。
それでも、そのたびに、自分の中に何かがあることだけはわかった。
それだけで、今日という日は、もう十分に何かが起きていたのかもしれない。
主人は、私が最後の一口を食べ終えるまで、何も言わなかった。
器の底に、梨の果汁を含んだゼリーがほんの少しだけ残っていた。
私は、スプーンを置いた。
「ごちそうさまでした」
主人は、静かに頷いた。
「そろそろ、よろしいでしょう」
一瞬、何のことかわからなかった。
けれど、胸の奥が先に反応した。
主人は、カウンターの奥から出てきた。
「行きましょうか」
その声は、いつもと同じだった。
強くない。
優しすぎもしない。
ただ、時が来たことを告げる声だった。
私は、ゆっくり立ち上がった。
梨の淡い甘さが、まだ口の奥に残っていた。




