三 塔
椅子に座って、しばらく自分の胸の奥を見ていた。
けれど、見ようとすればするほど、かえって輪郭がぼやけていった。
呼ばれたい心。
見せてもらいたい心。
何かを知りたい心。
それらがあることはわかる。
でも、それ以上深く見ようとすると、すぐに言葉になってしまう。
これは期待だ。
これは不安だ。
これは承認欲求だ。
これは、藤野さんと同じものだ。
名前をつけた瞬間、少しだけわかったような気になる。
けれど、本当に見ているのかどうかは、わからなかった。
私は立ち上がり、鞄を開けた。
中には、いつものタロットカードが入っていた。
この宿に来てから、自分のためにカードを引くことは、ずいぶん減っていた。
以前は、少しでも心が乱れると、すぐにカードを切っていた。
迷えば、一枚。
不安になれば、一枚。
誰かの言葉が気になれば、一枚。
この先どうなるのか知りたくなれば、一枚。
カードは、私にとって道具だった。
でも、それだけではなかった。
不安の中で、何かを確かめるためのお守りでもあった。
私は箱からカードを出し、膝の上に置いた。
手に触れた瞬間、少しだけ落ち着いた。
そのことに、また少し戸惑った。
私は、まだカードに落ち着かせてもらおうとしている。
そう気づいた。
けれど、手は止まらなかった。
ゆっくりとカードを切る。
紙の擦れる音が、部屋の中に小さく響いた。
問いは、うまく立てられなかった。
今日、私は何を見ることになるのか。
そう聞きたい気持ちがあった。
でも、その問い自体が、すでに何かを先に決めようとしている気がした。
では、私は今、何を見ればいいのか。
そう聞こうとして、それも少し違う気がした。
見ればいいものを、カードに決めてもらおうとしている。
私は、カードを切る手を止めた。
窓の外で、風が鳴った。
葉が揺れる。
遠くで、水の音がした。
問いを立てるのではなく、今の自分の心の前にカードを置く。
それだけでいい。
そう思って、一枚引いた。
カードを表に返す。
塔。
息が止まった。
黒い空。
稲妻。
崩れる塔。
落ちていく人影。
この宿に来てから、出なくなっていたカードだった。
胸の奥に、はっきりと波紋が広がった。
怖い。
まず、そう思った。
何が壊れるのだろう。
何を失うのだろう。
どこまで落ちるのだろう。
そんな言葉が、次々に浮かんだ。
そのすぐあとに、恥ずかしさが来た。
やっぱり、私は期待していたのだ。
今日、何かが起きることを。
主人から何かを明かされることを。
自分の中にあるものが、特別な意味を持つと示されることを。
そして、その恥ずかしさの奥に、もっと小さなものがあった。
認められたかった。
主人に認められたい。
ここまで来たのだと知りたい。
あの部屋に入れる人なのだと思いたい。
そんな自分がいる。
藤野さんが、力があると言ってほしかったように。
今までの苦しさに意味があると言ってほしかったように。
私も、自分の揺れに意味があると言ってほしかったのかもしれない。
そう思うと、胸の奥の波紋が、さらに大きくなった。
水面が、一度に乱れたような気がした。
私は、思わず目を閉じた。
怖い。
恥ずかしい。
情けない。
主人に見てもらいたい私がいる。
藤野さんとは違うと思いたい私がいる。
でも、本当は同じものを持っていると知っている私もいる。
助けたい。
届けたい。
役に立ちたい。
そう願いながら、その奥で、認められたいと願っている私がいる。
それを見つけた瞬間、また胸の奥が揺れた。
こんなことで揺れるのかと思った。
主人に少し認められたいだけで。
何かを明かされるかもしれないと思っただけで。
自分が藤野さんとは違うと、どこかで思いたかっただけで。
こんなにも、私の水面は揺れるのか。
私は、まだこんなにも未熟なのだ。
そう思った。
その言葉は、胸の奥に深く沈んだ。
未熟。
愚か。
透明ではない。
いくつもの言葉が浮かんだ。
私はしばらく目を閉じたまま、それらの言葉が胸の中を通り過ぎるのを感じていた。
やがて、少しずつ呼吸が戻ってきた。
怖さも、恥ずかしさも、情けなさも、消えたわけではなかった。
ただ、名前のないまま渦を巻いていたものに、少しだけ輪郭ができた気がした。
私は目を開けた。
机の上には、塔のカードがあった。
さっきと同じ絵だった。
私は、カードを伏せようとした。
けれど、手が止まった。
なぜか、今は伏せない方がいい気がした。
私は、塔のカードを机の上に置いた。
表向きのまま。
塔が出た。
その事実だけがある。
それを吉凶に分けることも、すぐに意味づけることも、今はしなくていい気がした。
何かが壊れるのなら、壊れるのだろう。
壊れるべきものがあるのなら、それを見ればいい。
そう思った。
思えた、というより、そう考えることにした。
その方が、少し落ち着いた。
私はもう一度、椅子に深く座り直した。
窓の外で、また風が吹いた。
葉が揺れ、水滴が落ちる音がした。
何も解決していなかった。
けれど、心は静かになっていた。
塔のカードは机の上にある。
私の中にも、まだ揺れはある。
でも、それらはもう、私を押し流すものではなかった。
私は、しばらく塔のカードを見ていた。
怖くないわけではない。
けれど、もう引き直したいとは思わなかった。
それだけで、何かが静まったような気がした。
揺れない人になったわけではない。
透明になったわけでもない。
でも、少なくとも今は、揺れている自分を、離れた場所から見られている気がした。
私は、塔のカードを表向きのまま机に残した。
そして、もう一度、窓の外を見た。
山の緑は、昼の光の中で静かに揺れていた。
庭の池は、ここからは見えない。
それでも、胸の中の水面は、静かになっているように思えた。




