二 池の底を見る
主人は、窓の外を見ていた。
池の水面には、まださっきの波紋が残っていた。
最初ははっきりとした輪だったものが、少しずつ形を失いながら、水面全体に広がっていく。
私は、それを見つめていた。
「それは……」
言いかけて、声が少し詰まった。
「私の心のことを、言っているんですか」
主人は、すぐには答えなかった。
ただ、水面の波が少しずつ静まっていくのを見ていた。
「水瀬さんには、そう聞こえましたか」
その返事に、胸の奥が小さく揺れた。
そう聞こえた。
たしかに、そう聞こえた。
けれど主人は、私の心をそうだと決めつけたわけではなかった。
ただ、池を見ていた。
木の実が落ちた。
波紋が広がった。
そして、そのことを言葉にした。
その池に、自分の心を映したのは、私だった。
私は、池を見ていた。
水面には、まだ小さな揺れが残っている。
木々の影も、空の色も、その中でわずかに崩れて見えた。
私は朝から、何かを待っていた。
いつ呼ばれるのか。
何を聞くのか。
何が見えるのか。
自分は何を知るのか。
その問いの一つひとつが、私の中に小さな波紋を広げていたのかもしれない。
待っているつもりだった。
けれど、本当は待っていたのではなく、何かが起きることを待ち望んでいた。
「昨夜、言われたので」
私は、ゆっくり言った。
「私自身の話をしなければならない、と」
主人は、静かにうなずいた。
「言いましたね」
「だから、今日……何かあるのだと思っていました」
声に出すと、それだけで少し恥ずかしかった。
何かある。
その言い方の中に、私の期待がそのまま出てしまっていた。
私は、続けようとして、言葉を止めた。
あの部屋のことが、一瞬、頭をよぎった。
けれど、それを口にすることはできなかった。
「何かを……見せられるのかもしれない、と」
私は、ようやくそれだけ言った。
言ってから、胸の奥が熱くなった。
それは、昨夜の藤野さんが藍色の布へ向かった時の表情と、どこか似ていた。
何かが始まる。
自分の中にあるものが、本物だとわかる。
今までの苦しさに、意味が与えられる。
私は、その期待を危ういと思った。
けれど、今朝からの私は、本当にあの人と違っていただろうか。
藤野さんは、自分の苦しさに意味がほしかった。
ただ弱いだけではないと言ってほしかった。
力があると言ってほしかった。
今まで苦しかったことは、無駄ではなかったと証明してほしかった。
私は、それを危ういと思っていた。
けれど、私はどうだったのだろう。
主人に呼ばれたい。
奥の部屋に入れると知りたい。
私はここまで来たのだと、どこかで示してほしい。
その違いは、思っていたほど大きくないのかもしれなかった。
「意味を求めていたのかもしれません」
私は言った。
「自分がここにいることに。主人のそばに座らせてもらっていたことに。昨日の藤野さんのことを、私が見ていたことに」
言いながら、胸の奥が少し重くなった。
「何か、意味があるのだと示してほしかったのかもしれません」
主人は、何も言わなかった。
ただ、池を見ていた。
さっきよりも水面は静かになっていた。
けれど、完全に元通りになったわけではない。
一度広がった波紋は、消えたように見えても、水の中のどこかにまだ残っているように思えた。
「意味を求めることは、悪いことではありません」
やがて、主人が言った。
その言葉に、少しだけ息がゆるんだ。
けれど、主人は続けた。
「けれど、意味を急ぐと、人は今起きていることを見失うことがあります」
私は、何も言えなかった。
意味を急ぐ。
その言葉は、静かに胸の底へ沈んでいった。
私は、藤野さんのことを危ういと思っていた。
力がほしい人。
人を救える自分になりたい人。
自分の苦しさに、役割という名前をつけようとしている人。
そう見ていた。
でも、本当は、そう見ることで自分と切り離していたのかもしれない。
私は藤野さんとは違う。
私は力がほしいわけではない。
私はただ、主人のそばで、静かに見ているだけだ。
そう思いたかった。
けれど今、池の水面を見ていると、それほど簡単に切り離せるものではない気がした。
藤野さんが求めていたものと、私が今朝から待っていたものは、形が違うだけで、同じ場所から出てきているのかもしれない。
何かを示してほしい。
あなたには意味がある、と。
あなたはここまで来た、と。
あなたが苦しかったことは、無駄ではなかった、と。
誰かにそう言ってほしい心。
私は、その心を藤野さんの中に見ていた。
そして、見ているつもりの私の中にも、それはあった。
「透明でいたいと思うのに」
私は、小さく言った。
「全然、透明じゃないですね」
主人は、私を見なかった。
池の方を見たまま、静かに言った。
「水を澄ませようとして、かき混ぜることがあります」
私は顔を上げた。
「澄ませようとしているのに、ですか」
「はい」
主人は、いつもの静かな声で言った。
「濁りを早く消そうとして手を入れると、底に沈みかけたものがまた舞い上がります」
庭の池に、風が通った。
水面に、小さな揺れが広がる。
私は、じっと見ていた。
「では、どうすればいいんですか」
聞きながら、また答えを求めていると思った。
それでも、聞かずにはいられなかった。
主人は、すぐには答えなかった。
その沈黙が、今度は少し苦しくなかった。
「波紋があることを、まず見ます」
やがて、主人は言った。
「消そうとせずに、見ます」
「見るだけで、消えるんですか」
「消えることもあります」
主人は静かに言った。
「消えないこともあります」
私は、少しだけ笑いそうになった。
主人の答えは、いつもそうだ。
簡単に終わらせてくれない。
けれど、その曖昧さは、逃げではなかった。
見えているものを、見えている以上に言い切らないための言葉だった。
「消えるかどうかは、決めなくてよいのです」
主人は続けた。
「ただ、今、水面に何が起きているかを見る」
私は、胸の奥でその言葉を受け取った。
今、水面に何が起きているかを見る。
それは、とても単純なことのようで、私にはずっと難しかった。
私はいつも、その先を見ようとしていた。
この揺れは何を意味するのか。
どうすれば消えるのか。
消えたら何が見えるのか。
見えたものは、私をどこへ連れていくのか。
問いが問いを呼び、水面に次々と石を投げ込んでいく。
そのくせ、自分は池の底が見えないと焦っている。
私は、湯呑みを置いた。
「部屋に戻ってもいいですか」
自分でも、意外な言葉だった。
主人は、静かにうなずいた。
「はい」
「少し、一人で見てみます」
主人は、私を見た。
「そうですね」
その声は、許可のようでもあり、ただの返事のようでもあった。
私は立ち上がった。
けれど、すぐには歩き出せなかった。
「あの」
声をかけると、主人は顔を上げた。
「はい」
「波紋が消えたら、底は見えるんでしょうか」
主人は、ほんの少しだけ間を置いた。
「見えるものが、あるかもしれません」
「見えないかもしれない?」
「はい」
主人は、静かに言った。
「けれど、見えないことがわかるのも、底を見ることの一つです」
私は、その言葉をすぐには理解できなかった。
けれど、今は理解しようと急がなくていい気がした。
私は小さく頭を下げ、階段へ向かった。
二階へ上がる途中で、藍色の布が視界の端に入った。
今朝見た時よりも、少し深い色に見えた。
私は、そこへ行かなかった。
自分の部屋へ戻った。
戸を閉めると、宿の音が遠くなった。
椅子に座る。
窓の外には、さっき歩いた山の緑が見えた。
私は、両手を膝の上に置いた。
波紋があることを、まず見る。
消そうとせずに、見る。
その言葉を胸の中で繰り返した。
何かを知ろうとする心。
何かを見せてもらおうとする心。
奥の部屋に入れるかどうかを、どこかで気にしている心。
藤野さんのようにはなりたくないと思う心。
それなのに、藤野さんと同じものが自分にもあるとわかっている心。
一つ見つけるたびに、胸の中で小さな波紋が広がる。
けれど、私はそれを消そうとしなかった。
ただ、そこにあると見る。
窓の外では、風が木々を揺らしていた。
庭の池は、ここからは見えない。
けれど、私の中には、さっき見た水面が残っていた。
何も投げ込まれていないはずの水面。
それでも、私の中だけが、まだ小さく揺れていた。




