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悩みを抱えた客だけがたどり着く宿で、僕はあなたを守る者の声を聴く ~答えを教えない、不思議な宿の六つの物語~  作者: 牧静
第六話 最後の秘術

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一 波紋の立つ朝

翌朝、私はいつもより早く目を覚ました。


眠れなかったわけではない。

けれど、深く眠ったという感じもしなかった。


薄い眠りの底で、昨夜の主人の声だけが、何度も戻ってきていた。


――そろそろ、あなた自身の話をしなければなりませんね。


あなた自身の話。


その言葉は、朝になっても胸のどこかに残っていた。


藤野さんが藍色の布の前で崩れ落ちた姿。

主人が最後に私へ向けた、静かな目。


それらが、まだ消えていなかった。


窓の外は、明るくなりきっていなかった。

山の朝の光は、街の朝よりも少し遅れて届く気がする。

空が白み始めているのに、木々の間には夜の湿り気が残っている。


私は体を起こした。


部屋は静かだった。


宿全体が、まだ深く息をしているようだった。


今日、昨夜の続きがあるのだろうか。


そう思った瞬間、胸の奥が小さく鳴った。


期待、というほど明るくない。

不安、というほど暗くもない。


ただ、何かが起きる前の、落ち着かない気配。


私はそれを、できるだけ見ないようにした。


洗面を済ませ、廊下に出ると、二階の奥に藍色の布が見えた。


昨夜、藤野さんがその前で立ち止まった場所。


天井から床近くまで垂れた布は、朝の薄い光の中で、夜とは少し違う色に見えた。

深い藍色の奥に、ほんのわずかに灰色が混じっている。


私は、足を止めた。


藤野さんは、あそこに入れなかった。


入れなかった、というより、入れないと自分でわかってしまった。


――私、ここには……入れないです。


あの声を思い出した瞬間、胸の奥に小さな熱が生まれた。


私は、入るのだろうか。


そう思った。


思ってしまった。


入る、入れない。


そんなふうに考えていること自体が、もう何かを期待している証拠のようだった。


もし、私があの部屋に入るのだとしたら。


もし、主人が今日、私のためにあの布を開けるのだとしたら。


それは、何を意味するのだろう。


私は、あの部屋に入るだけのところまで来たということなのだろうか。

主人は、私の中にある何かを、もう認めているのだろうか。


そう考えた瞬間、胸の奥がさらに熱くなった。


認められたい。


その言葉が、まだ形になる前の泡のように浮かんだ。


私は慌てて目を伏せた。


そんなことを考えているつもりはなかった。

主人に評価されたいわけではない。

奥の部屋に入れる人間だと認められたいわけでもない。


そう思おうとした。


けれど、藍色の布の前に立っている私の胸は、明らかに静かではなかった。


何が起きるかを、先に決めることはできない。


そうわかっているはずだった。


それなのに私は、もう何かが起きる方へ心を傾けていた。


今日、私は変われるのかもしれない。


そんな期待があった。


私は、藍色の布から目をそらし、階段を下りた。


一階では、すでに朝食の支度が整えられていた。


長いテーブルの上に、パン、チーズ、ゆで卵、小さなサラダ、果物、温かいスープが並んでいる。


ジャムの瓶には、いつものように小さな手書きの札が添えられていた。


いちじく。

杏。

林檎とシナモン。


主人は、少し離れたところでコーヒーを淹れていた。


「おはようございます」


主人が静かに言った。


「おはようございます」


私は答えた。


その声が、少し固くなった気がした。


主人はそれに気づいたのか、気づいていないのか、何も言わなかった。


ただ、私の前に温かいスープを置いた。


「よく眠れましたか」


「はい」


少し迷ってから、私はそう答えた。


嘘ではなかった。


眠れなかったわけではない。

ただ、心のどこかがずっと目を開けていた。


私はパンを取り、林檎とシナモンのジャムを少しだけ皿に取った。


以前なら、その味にも何か意味を探したかもしれない。

昨夜の言葉と、今朝の沈黙と、藍色の布の色と、すべてをどこかへ結びつけようとしたかもしれない。


けれど、今はただ、パンに薄く塗った。


そうしているつもりだった。


それでも私は、主人がいつ話し始めるのかを待っていた。


朝食は、いつも通りだった。


あまりにも、いつも通りだった。


主人は、昨夜のことには一言も触れなかった。


藤野さんのことも。

藍色の布のことも。

私自身の話をしなければならない、と言ったことも。


何も言わなかった。


私は、スープを少しずつ飲みながら、何度も主人の方を見そうになった。


けれど、そのたびにやめた。


こちらから聞くのは、何か違う気がした。


主人が昨夜言ったのだから、主人から話すはずだ。

そう思っている自分がいた。


朝食を食べ終えても、主人は何も言わなかった。


「ごちそうさまでした」


私が言うと、主人はいつものように軽く頭を下げた。


「少し、外の空気が気持ちいいと思います」


それだけだった。


私は、少し拍子抜けした。


「外、ですか」


「ええ。昨夜の雨で、山がよく冷えています」


主人はそう言って、器を下げ始めた。


外へ出ろ、ということなのだろうか。

それとも、ただ天気の話をしただけなのだろうか。


私は席を立ち、上着を羽織って外へ出た。


玄関を出ると、朝の空気が肌に触れた。


昨日の雨は、もう上がっていた。

けれど、石段の隙間にはまだ湿り気が残っていた。

草の先に小さな水滴がついている。


道は細く、宿の前からゆるく下っていた。


タクシーが入ってこられない、あの道。


初めてここへ来た時も、私は途中で降ろされて、この道を歩いて登った。

その時は、ただ心細かった。


今は、道の細さにも、湿った石の音にも、少し慣れている。


それでも、慣れているから安心する、というわけではなかった。


山の中では、知っている道でさえ、時々知らない顔をする。


私は、ゆっくり歩いた。


木々の間から、低い鳥の声が聞こえる。

遠くで水が流れているような音がする。

風が吹くと、葉についた雨の残りが、細かく落ちた。


静かだった。


けれど、私の中は静かではなかった。


今日、何が起きるのだろう。


そう考えないようにしているのに、気づけば同じ問いに戻っている。


主人は、何を話すつもりなのだろう。

私自身の話とは、何なのだろう。

私は本当に、何を見せられるのだろう。


そこまで考えて、足を止めた。


見せられる。


私は、いつの間にそんな言葉を使っていたのだろう。


まるで、今日、何か特別なものが用意されていると、初めから決めているみたいだった。


主人は、そんなことを言っていない。


ただ、あなた自身の話をしなければならない、と言っただけだ。


それなのに私は、その言葉を、大きな出来事の予告のように受け取っていた。


胸の奥が少し恥ずかしくなった。


私はまた歩き出した。


道の端に、昨日の雨で落ちた葉がいくつか重なっていた。

濡れた葉は、乾いた葉よりも色が濃い。

茶色なのに、どこか黒に近い。


何も言われないからこそ、自分が何を待っているのかが見えてくる。


主人の静けさは、時々、こちらの中にある騒がしさをはっきりさせる。


私は、深く息を吸った。


山の朝の匂いがした。


土。

濡れた草。

木の皮。

少し冷えた石。


どれも、今ここにあるものだった。


今、ここにいる私。


その言葉が、ふと胸の中に浮かんだ。


そう思おうとしても、今ここにいる私は、今日これから何が起きるのかばかりを見ていた。


私は、主人を知りたいのではない。


主人が私に何を明かしてくれるのかを知りたい。

私がこの宿で何者になるのかを知りたい。

私はどこまで近づいたのかを知りたい。


そのことに気づいた時、胸の中で何かが小さく揺れた。


私はしばらく歩いてから、宿へ戻った。


玄関に入ると、主人は一階のカウンターにいた。


湯を沸かしていたのか、奥からかすかに湯気が見えた。


「お戻りでしたか」


主人が言った。


「はい」


私は靴を脱ぎながら答えた。


「山が、気持ちよかったです」


「それはよかったです」


それだけだった。


主人は、やはり何も言わなかった。


私はカウンターの席に座った。


出されたお茶を、両手で包む。


湯呑みの温かさが、掌にゆっくり広がった。


何か聞かれるかもしれないと思っていた。

散歩してどうでしたか、と。

何か見えましたか、と。

昨夜のことを考えていましたか、と。


けれど、主人は何も聞かなかった。


ただ、湯を注ぎ、茶葉を蒸らし、湯呑みを置いた。


それだけだった。


私は、その沈黙の中で、自分が少し焦れていることに気づいた。


朝からずっと、私は待っていた。


昼近くになっても、主人はいつも通りだった。


私は、そろそろ部屋に戻るべきか、それともこのまま一階にいていいのか、少し迷っていた。


その時、主人が台所の奥から顔を出した。


「簡単なものですが、お昼にしましょうか」


その言い方が、あまりにも自然だったので、私は少しだけほっとした。


「はい」


そう答えながら、胸の奥で別の期待が動いた。


昼食を一緒にとるなら、何か話が始まるかもしれない。


昨夜の続き。

私自身の話。

藤野さんのこと。

奥の部屋のこと。


主人が食事の途中で、ふいにその話を切り出すかもしれない。


そう思った。


けれど、私は何も聞けなかった。


窓側の席に、二人分の昼食が並べられた。


朝の残りを少し整え直したような煮物。

薄く焼いた卵。

山菜の小鉢。

小さなおにぎり。

澄んだ汁。


宿の食事というより、誰かの家で出される静かな昼ご飯のようだった。


主人は、私の向かいではなく、少し斜めの席に座った。


近すぎず、遠すぎもしない距離。


食事のあいだ、主人はほとんど話さなかった。


私は、箸を動かしながら、何度も口を開きかけた。


けれど、そのたびに、おにぎりの海苔を見たり、椀の湯気を見たりして、言葉を飲み込んだ。


聞けば、何かが壊れる気がした。

聞かなければ、このまま何も始まらない気もした。


窓の外には、雨上がりの庭が見えていた。


主人はただ、静かに食べていた。


食事が終わり、主人が器を端に寄せた。


このまま、何もないまま午後になるのだろうか。


そう思った時、私はもう黙っていられなかった。


「あの」


主人が、箸を置いた。


「はい」


私は、自分の声が少しだけ急いでいることに気づいた。


それでも、止められなかった。


「今日は……何もしないんですか」


言ってしまってから、胸が少し熱くなった。


何もしない。


その言い方が、あまりにも露骨だった。


主人は、すぐには答えなかった。


ただ、窓の外を見ていた。


私は、その視線の先を追った。


庭の奥に、小さな池があった。


私は今まで、そこに池があることをほとんど意識したことがなかった。

石に囲まれた、静かな水面。

雨上がりのせいか、水は少しだけ濁って見えた。


その時だった。


池に覆いかぶさるように伸びていた枝から、小さな木の実が一つ落ちた。


音は、ここまでは届かなかった。


けれど、水面がほんの少しへこみ、そこから丸い波紋が広がっていった。


輪はゆっくり大きくなり、池の端に近づく頃には、もうどこから始まったものなのかわからなくなっていた。


主人は、その水面を見たまま言った。


「池に何かが落ちると、波紋が広がります」


私は、何も言わなかった。


「波紋が広がっているあいだ、池の底は見えにくくなりますね」


主人の声は、いつもと同じだった。


静かで、強くない。


けれど、その言葉は、まっすぐ胸の奥に落ちてきた。


私は、何も言えなかった。

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