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悩みを抱えた客だけがたどり着く宿で、僕はあなたを守る者の声を聴く ~答えを教えない、不思議な宿の六つの物語~  作者: 牧静
第五話 救いたかった人

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六 置き去りにしてきた自分

湯の沸く音が、妙に耳に残る。


藤野さんは、カウンターの端に座っていた。


私は、その少し離れた席に腰を下ろしていた。


主人はカウンターの中で、何も言わずに湯のみを用意していた。


誰も、さっきのことを口にしなかった。


階段を下りてくる時、藤野さんはほとんど何も言わなかった。


さっきまで彼女を支えていたものが、音もなく剥がれてしまったように見えた。


背筋を伸ばすこと。

声を強くすること。

自分には役割があるのだと思うこと。

誰かを救える人間になれるはずだと信じること。


その一つひとつで、藤野さんはここまで自分を保ってきたのかもしれない。


けれど、藍色の布の前で、その支えは一度に力を失っていた。


今、カウンターに座る藤野さんは、宿に入ってきた時の藤野さんではなかった。


私は、その横顔を見ていた。


宿に来た時の藤野さんは、強かった。


少なくとも、強くあろうとしていた。


自分には力がある。

その力を使って人を救いたい。

それをきちんと開きたい。


そう言う藤野さんの声には、どこか張りつめたものがあった。


けれど今、目の前にいる藤野さんには、その張りつめたものがなかった。


代わりに、以前のセッションで見た、あの小さく震えるような気配が戻ってきていた。


声の小さな藤野さん。


自分の中に起きていることに驚き、怖がり、どう扱えばいいのかわからずにいた人。


その時の言葉が、ふいに胸の奥でよみがえった。


――私、自分のことが嫌いなんです。


あの時、藤野さんはそう言っていた。


とても小さな声だった。


人の気持ちが入りすぎることよりも、見えないものを感じることよりも、その言葉の方が、ずっと深いところから出てきたように聞こえた。


私は、そのことを思い出していた。


やがて、主人は藤野さんの前に湯のみを置いた。


藤野さんは、両手でそれを包んだ。


温かさを確かめるように、しばらく指先を添えていた。


けれど、口元へ運ぶことはできなかった。


湯気だけが、静かに藤野さんの顔の前を上がっていた。


私は、藍色の布の前での主人の沈黙を思い出していた。


主人は、何も言わなかった。


藤野さんが崩れ落ちた時も、慰めなかった。

手を差し伸べなかった。

大丈夫ですとも、あなたは悪くありませんとも言わなかった。


その沈黙が、あの時の私には、とても冷たいことのように思えた。


残酷だとさえ思った。


目の前で人が崩れているのに、どうして何も言わないのだろう。

どうして手を差し伸べないのだろう。

どうして、一言声をかけないのだろう。


そう思った。


けれど今、カウンターに座る藤野さんを見ていると、少しだけわかる気もした。


あの時、何かを言われていたら、藤野さんはきっと、その言葉にすがった。


大丈夫です。

あなたは悪くありません。

いつかまた、時が来ます。


そんな言葉をもらえば、藤野さんは少し楽になったはずだった。


けれど、その楽さは、藤野さんを途中で止めてしまったのかもしれない。


自分の中にあるものに気づきかけた人が、本当にその底まで降りていく前に、誰かの優しさで引き上げられてしまう。


それは、救いのように見えて、ほんとうは、その人が自分を見る機会を奪うことなのかもしれなかった。


主人は、何も言わなかった。


何も言わないことで、藤野さんが落ちていく場所を、最後まで守っていたのかもしれない。


助けないことが、助けることになる瞬間があるのかもしれない。


そう思った時、胸の奥が小さく痛んだ。


私は、いつの間に待てなくなっていたのだろう。


以前の私は、届いた相談に、自信を持って答えることができなかった。


カードを引いても、それが相手にとって本当に必要な言葉なのか、最後までわからなかった。


ただ、その人の悩みの前に座り、一緒に迷っているような気持ちで言葉を探していた。


それが怖かった。

もどかしかった。

けれど、それしかできなかった。


それなのに、いつからか私は、一緒に迷うことよりも、届けることを考えるようになっていた。


読んだ人が少しでも楽になるように。

悩んでいる人が、前を向けるように。

傷ついている人に、今すぐ何かを渡せるように。


それは、優しさの形をしていた。


けれど、藤野さんが藍色の布の前で崩れた時、私はようやく気づき始めていた。


私は、待っていたつもりだった。


けれど本当は、いつの間にか、救いに行こうとしていたのかもしれない。


カウンターの中で、主人は何も言わずに立っていた。


藤野さんは、湯のみを見つめていた。


長い沈黙があった。


その沈黙は、さっき藍色の布の前で崩れた時の沈黙とは少し違っていた。


逃げるための沈黙ではなかった。


自分の中に置き去りにしてきたものを、初めて見ようとしている人の沈黙だった。


やがて、主人が静かに口を開いた。


「その方を、置き去りにしてきたのですね」


藤野さんの指が、湯のみの上でかすかに動いた。


「その方……」


藤野さんの声は、とても小さかった。


主人は、静かに続けた。


「力のある方ではありません」


藤野さんは、顔を上げられなかった。


「人を救える方でもありません」


湯気が、ゆっくり揺れていた。


「自分のことが嫌いだと言っていた方です」


藤野さんの肩が、小さく震えた。


私は、息を止めた。


あの時の言葉を、主人は知らないはずだった。


少なくとも、私が口にしたことはなかった。


それでも主人の言葉は、まっすぐそこへ届いていた。


藤野さんは、しばらく黙っていた。


それから、かすれた声で言った。


「……忘れていたわけじゃ、ないんです」


主人は、何も言わなかった。


「でも、見たくなかったんです」


藤野さんの声が、少し震えた。


「弱くて、すぐ傷ついて、人の顔色ばかり見て、勝手に感じすぎて、勝手に苦しくなって」


言葉が途切れた。


「そんな自分が、嫌だったんです」


藤野さんは、湯のみを持つ手に少し力を込めた。


「だから、力があると思いたかった」


その言葉は、静かだった。


布の前で崩れた時のような激しさはなかった。


けれど、その分だけ、深いところから出てきているように聞こえた。


「ただ弱いだけじゃないって、思いたかったんです」


主人は、藤野さんを見ていた。


「人を救える自分になれば、その自分を見なくて済むと思ったのですね」


藤野さんは、ゆっくり目を閉じた。


否定はしなかった。


肯定もしなかった。


けれど、その沈黙が、返事のように聞こえた。


しばらくして、藤野さんは小さく言った。


「力があれば、変われると思っていました」


その声は、ほとんど独り言だった。


「人を助けられるようになれば、こんな自分でも、少しは好きになれると思っていました」


私は、何も言えなかった。


藤野さんは、続けた。


「その自分から、遠く離れたかったんです」


主人は何も言わなかった。


「私、あの頃の自分を好きになれる気がしません」


そこまで言って、少しだけ口元を歪めた。


笑おうとしたのかもしれない。


でも、笑いにはならなかった。


「なのに、そこを見ないままでは、もう進めないんですね」


主人は、しばらく黙っていた。


そして、静かに言った。


「本当の声に触れるために、特別になる必要はありません」


藤野さんの目が、わずかに揺れた。


「特別になる必要は、ないんですか」


「はい」


主人は、短く答えた。


「ただ、置き去りにしてきた方を、置き去りにしないことです」


藤野さんは、何も言わなかった。


その言葉を理解しようとしているようにも、受け入れられずにいるようにも見えた。


私は、その横顔を見ながら、藤野さんが完全に救われたわけではないのだと思った。


何かがほどけたようには見えなかった。


むしろ、ほどけかけたものを、どう扱えばいいのかわからずにいるように見えた。


けれど、宿に来た時のような強い声は、もうなかった。


そのことだけは、確かだった。


藤野さんは、しばらくして、ようやく湯のみを口元に運んだ。


ほんの少しだけ、お茶を飲んだ。


そして、小さく息を吐いた。


「少し、考えます」


それだけ言った。


主人は、うなずいた。


「はい」


「今日、ここに来てよかったのかどうかは、まだわかりません」


藤野さんは、正直にそう言った。


「でも、来なかったことには、もうできない気がします」


主人は、何も言わなかった。


私は、その言葉を聞いて、胸の奥が静かに痛んだ。


来なかったことには、もうできない。


それは、救いの言葉ではなかった。


けれど、嘘ではない言葉だった。


藤野さんは、そのあとしばらくして、帰り支度をした。


玄関まで見送る間も、彼女はあまり話さなかった。


靴を履き、傘を手に取る。


外は、来た時よりも少し明るくなっていた。


庭の石には、まだ雨の名残が残っていた。


「今日は、ありがとうございました」


藤野さんは、そう言って頭を下げた。


けれどその声は、すっきりした人の声ではなかった。


わかろうとしている人の声だった。


わからなければいけないと、自分に言い聞かせている人の声だった。


納得したいのに、納得しきれない。

間違っていたと認めたくない。

それでも、ここで何かを言えば、また同じ場所に戻ってしまうとわかっている。


そんな揺れが、まだ残っているように見えた。


私は、その背中を見ていた。


「藤野さん、私も――」


そこまで言って、私は口をつぐんだ。


私も、同じです。


そう言いたかった。


私も、誰かの役に立てる自分なら、少しは自分を認められる気がしていました。

私も、誰かに救われたと言われることで、自分に価値があると思いたかったのかもしれません。


そう言いたかった。


けれど、その言葉もまた、藤野さんのためではなく、私自身のためだったのかもしれない。


藤野さんは、少しだけ振り返った。


私は何も言えなかった。


主人も、何も言わなかった。


藤野さんは、もう一度だけ小さく頭を下げて、宿を出ていった。


戸が閉まる音が、静かに残った。


宿の中は、急に広くなったように感じた。


私は、まだ玄関の方を見ていた。


「言いませんでしたね」


主人が、静かに言った。


私は、少し遅れて主人を見た。


一瞬、褒められたのかと思った。


けれど、主人は続けた。


「けれど、言おうとはしました」


胸の奥が、冷たくなった。


藤野さんに、私も同じです、と言おうとしたこと。

大丈夫です、と言おうとしたこと。

あなたの苦しみは無駄ではありません、と言おうとしたこと。


全部、見られていた。


「助けたいと思うことは、悪いことではありません」


主人は、玄関の方を見たまま言った。


「けれど、その思いが前に出ると、人は相手の声ではなく、自分の願いを聞き始めます」


私は、何も言えなかった。


「そろそろ、あなた自身の話をしなければなりませんね」


その言葉を聞いた時、藍色の布の前で崩れ落ちた藤野さんの姿が、もう一度、胸の奥に浮かんだ。


私は、藤野さんを見ていたのではなかったのかもしれない。


私自身の奥にあるものを、見せられていたのかもしれない。

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