五 藍色の布の前で
階段を上がる音が、いつもよりはっきり聞こえた。
古い木が、一段ごとに小さく軋む。
主人が先を歩き、その少し後ろを藤野さんが歩いていた。
私は、二人から少し離れて後ろをついていった。
藤野さんの背中は、さっきよりも固く見えた。
それでも、その足取りには迷いがなかった。
緊張している。
けれど、期待している。
そう見えた。
きっと何かが起こる。
私は、そう思っていた。
あの部屋なら、藤野さんの中にあるものを、そのまま浮かび上がらせるかもしれない。
自分でも扱えずにいた感覚や、苦しさや、力と呼びたがっていたものの正体が、少しだけ見えるかもしれない。
そうなれば、藤野さんは変われるかもしれない。
ここまで来たのだから。
主人が、ここへ向かうことを選んだのだから。
きっと、悪いことにはならない。
そう思ってしまっている自分に、私はまだ気づいていなかった。
階段を上がりきると、二階の廊下は静かだった。
雨上がりの湿った空気が、廊下の奥までうっすら入り込んでいるようだった。
奥に、藍色の布が見えた。
天井から床近くまで降りた、深い藍色の布。
手前の布は、左右にゆるく寄せられている。
奥の布は、静かに向こう側を閉ざしていた。
風もないのに、その色だけが、廊下の奥で深く沈んでいるように見えた。
藤野さんの足が、ほんの少し速くなった。
その横顔に、さっきまでよりも強い光が差したように見えた。
ああ。
私は、その表情を見た瞬間、胸の奥が冷えた。
藤野さんは、選ばれる場所に向かっているのだと思っている。
そう感じた。
ここに入れば、何かが開く。
ここに入れば、自分の中にあるものが本物になる。
ここに入れば、ずっと欲しかった言葉をもらえる。
そんな期待が、藤野さんの中で膨らんでいるように見えた。
主人は、何も言わなかった。
ただ、藍色の布の少し手前で足を止めた。
藤野さんも、足を止めた。
その瞬間だった。
藤野さんの表情から、すっと何かが消えた。
さっきまで張っていた背筋が、ほんの少し揺れた。
手の力が抜けるように、指がほどけた。
「……違う」
小さな声だった。
主人は、何も言わなかった。
藤野さんは、藍色の布を見ていた。
けれど、見ているというより、布の前で自分の中の何かを見せられているようだった。
「違う……」
もう一度、藤野さんはつぶやいた。
私は、息を止めた。
藤野さんの言葉は少なかった。
けれど、その言葉の奥から、いくつもの感情が押し寄せてくるような気がした。
期待。
怖さ。
悔しさ。
恥ずかしさ。
まだ認めたくない何か。
そして、ほんの少しだけ、安堵のようなもの。
その全部が、藤野さんの胸の奥で一度に揺れているように感じた。
私は、藤野さんの言葉よりも、その場の静けさの方を強く感じていた。
藍色の布の向こうには、何もない部屋がある。
人の祈りや願いが染みついていない部屋。
誰かの意図で満たされていない部屋。
だからこそ、自分の中にあるものだけが、静かに浮かび上がってくる部屋。
今、その部屋は、まだ藤野さんを中に入れていない。
それなのに、布の前に立っただけで、藤野さんの中にあるものが、もう浮かび上がり始めていた。
「入れないです」
藤野さんは、ほとんど息のような声で言った。
「私、ここには……入れないです」
その声は、誰かに拒まれた人の声ではなかった。
自分でそうわかってしまった人の声だった。
主人は、何も言わなかった。
藤野さんは、布を見たまま、唇を震わせた。
「ここに入れば、何かが始まると思っていました」
その声は、さっきまでの強さを失っていた。
「私が感じてきたものが、ちゃんとしたものになるんだと思っていました」
その言葉があまりに小さくて、私は思わず一歩前に出ていた。
「藤野さんが感じてきたことは、きっと無駄ではなかったと思います」
言いながら、自分の声が少し急いでいるのがわかった。
「今は違っても、きっとまた、タイミングが来るんじゃないでしょうか」
言いながら、その言葉は、どこか自分にも向いている気がした。
藤野さんは、私を見なかった。
藍色の布の前で、ただ小さく息をしていた。
言い終えた瞬間、主人の視線を感じた。
振り返ると、主人はいつものように、何も感じさせない目でこちらを見ていた。
責めているわけではなかった。
止めているわけでもなかった。
失望しているわけでもなかった。
ただ、見ていた。
主人は、静かに口を開いた。
「水瀬さんには、そう感じられたのですね」
それだけだった。
けれど、その言葉は、いつものようには聞こえなかった。
いつもなら、主人の言葉はただそこに置かれるだけだった。
誰かを押すことも、引くこともなく、静かにその場に残るだけだった。
けれど、その時だけは違った。
私は、その言葉の奥に、初めて、ほんのわずかな距離を感じた。
私は、そうは見ていません。
そう言われたような気がした。
胸の奥が、冷たくなった。
私は藤野さんを慰めようとしていた。
いま見えかけているものに、私の言葉をかぶせようとしていた。
主人は、私を責めなかった。
ただ、藤野さんに向き直った。
「間違いではなかったと、思いたかったのですね」
藤野さんの肩が、小さく震えた。
「……はい」
返事は、ほとんど声になっていなかった。
「誰かに、そう言ってほしかったんです」
その声を聞いた瞬間、廊下の空気がさらに深く静まったように感じた。
藤野さんは、布の前に立ったまま、顔を上げられずにいた。
「私には力があるって」
声が震えた。
「今まで苦しかったことには、意味があるって」
言葉が、少しずつ崩れていった。
「私は、ただ弱いだけじゃないって」
そこで、藤野さんの息が乱れた。
「そう思いたかったんです」
次の瞬間、膝から力が抜けたように、藤野さんはその場に崩れ落ちた。
泣き声はなかった。
ただ、ずっと保っていた形が、静かにほどけていくようだった。
主人は、何も言わなかった。
私も、何も言えなかった。




