四 どうりで
藤野さんが宿に来たのは、雨の気配がまだ少し残る午後だった。
昼過ぎまで降っていた雨はもう上がっていたけれど、庭の石にはうっすらと水が残っていた。
木々の葉も、いつもより少し重たそうに見えた。
私は一階の食堂にいた。
主人は、窓際の席に座っていた。
いつもなら一階のカウンターの前に静かに立っていることが多いのに、その日は外を眺めるようにして、ただそこにいた。
宿には、ほかのお客の気配がなかった。
私は主人の近くに座っていた。
何かを話していたわけではない。
ただ、藤野さんが来る時間が近づくにつれて、胸の奥が少しずつ落ち着かなくなっていた。
玄関の方で、小さく音がした。
誰かが戸を開ける音だった。
私は顔を上げた。
先に立ち上がったのは、主人ではなかった。
私だった。
自分でも、どうして立ったのかわからなかった。
玄関に向かうと、そこに一人の女性が立っていた。
藤野さんだと、すぐにわかった。
メールの文面から想像していたよりも、落ち着いた印象の人だった。
年齢は、私より少し上だろうか。
淡い色の服を着て、髪はきちんと整えられていた。
けれど、その整い方には、どこか力が入っているようにも見えた。
手にした傘の先から、まだ小さな水滴が落ちていた。
藤野さんは、そのまま私を見た。
その瞬間、先に表情を変えたのは藤野さんの方だった。
「あ……」
小さく息をのむ声がした。
私は、何か言おうとして止まった。
藤野さんは、私を見たまま、少しだけ目を見開いていた。
驚いているようでもあり、どこか納得しているようでもあった。
「どうりで」
その言葉の意味が、すぐにはわからなかった。
「どうりで、ですか」
私が聞くと、藤野さんは少しだけ笑った。
けれど、その笑い方には、喜びだけではないものが混じっていた。
驚きと、安心と、何かを確かめたような熱。
その全部が、ひとつの表情の中に入っているようだった。
「以前、見ていただいたことがあります」
そう言われて、私はようやく、記憶の奥を探り始めた。
どこかで会ったことがある。
そう思った。
けれど、すぐには思い出せなかった。
「私、藤野です」
名前を聞いて、胸の奥で何かが小さく動いた。
藤野。
メールの最後に書かれていた名前。
どこかで聞いたような気がしていた名前。
その名前と、目の前の女性の顔が、すぐには結びつかなかった。
「水瀬さんですよね」
藤野さんは、確かめるように言った。
私は黙ってうなずいた。
「まさか、月野しずくさんが水瀬さんだったなんて、思いませんでした」
その名前を聞いた瞬間、胸の奥が少し冷えた。
月野しずく。
その名前で呼ばれるたびに、私は少しだけ自分から離れる。
けれど今は、その名前が、水瀬としての私にぴたりと貼りついてきたような気がした。
「でも、どうりで、と思いました」
藤野さんは、私から目を離さずに言った。
「今まで、いろいろな方のセッションを受けたり、記事を読んだりしてきました。でも、本当にしっくり来たのは、水瀬さんのセッションと、月野しずくさんの記事だけだったんです」
私は、返す言葉を失った。
しっくり来た。
それは、褒め言葉のはずだった。
けれど、どこかで私を捕まえる言葉のようにも聞こえた。
私の言葉が届いていた。
そう思うと、胸の奥に小さく温かいものがともった。
けれど、そのすぐあとで、別の感覚が来た。
届きすぎていたのかもしれない。
そう思った。
私は藤野さんを見た。
ようやく、少しずつ思い出してきた。
以前、個人セッションに来た人だった。
その時の藤野さんは、今よりずっと声が小さかった。
人の気持ちが入りすぎて苦しいのだと話していた。
誰かが笑っていても、本当は悲しんでいるのがわかる気がすると言っていた。
人混みにいると、誰のものかわからない感情が胸に入ってきて、苦しくなるのだと言っていた。
そして時々、見えない方の声のようなものを感じるけれど、それが本当なのか、自分の思い込みなのかわからないと、怯えるように話していた。
力がある人、という印象ではなかった。
むしろ、自分の中に起きていることに驚き、怖がり、どう扱えばいいのかわからずにいる人だった。
その時の藤野さんは、何度も同じようなことを言っていた。
「私、変なんでしょうか」
「こういうのは、気にしない方がいいんでしょうか」
「誰かに話すと、たぶん怖がられると思うんです」
私は、その言葉を聞きながら、できるだけ静かにカードを読んだ。
あなたが変なのではない。
ただ、人よりも強く受け取ってしまうところがあるのかもしれない。
だからこそ、自分の中心に戻る時間を大切にした方がいい。
そんなことを伝えた記憶がある。
けれど、目の前にいる藤野さんは、少し違っていた。
背筋は伸びていた。
声も、以前よりはっきりしていた。
服装も、どこか隙がなく整えられていた。
怖がっている人、ではなかった。
怖さを、役割という言葉で包んできた人のように見えた。
「こちらへ」
主人の声がした。
振り返ると、主人はいつの間にか立っていた。
藤野さんは、主人を見た瞬間、表情を変えた。
先ほど私に向けていた驚きとは違う。
もっと緊張を含んだ、期待に近い表情だった。
「はじめまして」
藤野さんは、深く頭を下げた。
主人は、いつものように静かに会釈した。
「遠いところを、よくお越しくださいました」
それだけだった。
藤野さんは、少し拍子抜けしたようにも見えた。
もっと特別な言葉を期待していたのかもしれない。
もっと自分のことを見抜かれるような瞬間を、どこかで待っていたのかもしれない。
けれど主人は、ただ食堂の方へ案内した。
私たちは、窓際の席に座った。
さっきまで主人が座っていた場所だった。
藤野さんは、主人の向かいに座った。
私は、少し横にずれた席に座った。
テーブルの上には、何も置かれていなかった。
藤野さんは、しばらく黙っていた。
その沈黙の中で、私は藤野さんの手を見ていた。
膝の上に置かれた両手が、ぎゅっと握られている。
落ち着いて見える。
けれど、力が入っている。
主人は何も言わなかった。
藤野さんは、その沈黙に耐えかねたように、ゆっくり口を開いた。
「メールにも書いたのですが、私は昔から、人の気持ちが入りすぎるところがあります」
主人は、静かに聞いていた。
「相手が笑っていても、本当はつらいんだとわかったり、言葉にしていないことが急に胸に入ってきたりします」
藤野さんの声は、初めのうちは落ち着いていた。
「昔は、それが怖かったんです。自分がおかしいのかもしれないと思っていました」
私は、以前のセッションを思い出した。
そうだ。
あの時の藤野さんは、まさにそう話していた。
怖い。
わからない。
自分がおかしいのかもしれない。
それが、あの時の藤野さんだった。
「でも、いろいろ学ぶうちに、これはただ怖がるものではないのかもしれないと思うようになりました」
藤野さんは、少しだけ顔を上げた。
「私には、何か役割があるのかもしれないって」
その言葉が出た時、空気がほんの少し硬くなった気がした。
主人は、何も言わなかった。
「これまで、何人かの人に、感じたことを伝えたことがあります」
藤野さんは続けた。
「すると、涙を流してくれたり、救われましたと言ってくれたりしたんです」
救われました。
その言葉に、胸の奥が小さく反応した。
白石さんが見せてくれた読者の言葉が、ふいに浮かんだ。
救われました。
待っています。
水瀬さんの言葉が好きです。
私は、少しだけ視線を落とした。
藤野さんは、私の方を見ていなかった。
主人だけを見ていた。
「だから、私はこの感覚をちゃんと使えるようになりたいんです」
藤野さんの声に、少し熱が混じり始めていた。
「ただ敏感なだけで終わらせたくないんです。人の気持ちが入ってきて苦しいだけなら、ただの弱さかもしれません。でも、それを人のために使えるなら、意味があると思うんです」
主人は、静かに藤野さんを見ていた。
「今はまだ、仕事としてはうまくいっていません」
藤野さんは、少し早口になった。
「知人から相談されることはあります。でも、お金をいただくほどの形にはなっていません。講座を受けたり、本を読んだりもしています。でも、どこに行っても、どこか違う気がして」
そこで、藤野さんは私を見た。
「水瀬さんのセッションを受けた時、初めて、わかってもらえた気がしたんです」
私は、息をのんだ。
「そして、月野しずくさんの記事を読んだ時も、同じ感覚がありました。あ、この人はわかっている人だって」
その言葉は、まっすぐ私に向けられていた。
私は、何も言えなかった。
嬉しさはあった。
たしかにあった。
けれど、その嬉しさのすぐ下に、薄い怖さがあった。
藤野さんは、私の沈黙をどう受け取ったのか、少しだけ微笑んだ。
「だから、今日ここに来られてよかったです」
ここ。
その言葉を聞いた時、私は胸の奥で何かが引っかかるのを感じた。
藤野さんは、この宿のことを知らなかったはずだ。
メールにも、宿のことは書かれていなかった。
それでも今、藤野さんはここにいる。
私が、つないでしまったのだろうか。
そう思った。
私は、この人をどうすればいいのかわからなかった。
白石さんのところで止めてもらうこともできた。
誌面では扱えませんと、静かに終わらせることもできた。
けれど、それで終わらせていいのかもわからなかった。
だから私は、主人に預けた。
預けた、という言い方が正しいのかはわからない。
少なくとも、私の言葉で返してはいけない気がしていた。
「私、今ならわかるんです」
藤野さんは、両手を膝の上で強く握った。
「ずっと怖がっていただけなんです。自分にあるものを、認めるのが怖かったんです」
主人は何も言わなかった。
「でも、もう逃げたくないんです」
藤野さんは、まっすぐ主人を見た。
「私なら、できると思うんです」
その言葉を聞いた瞬間、私は胸の奥が小さく冷えるのを感じた。
以前、私の前で小さく震えていた人が、今は、自分の震えを力と呼ぼうとしている。
「人を救える人になりたいんです」
藤野さんの声は、震えていなかった。
震えていないことが、かえって怖かった。
「そのために、どうすればいいのかを知りたいんです」
主人は、静かに藤野さんを見ていた。
「あなたは」
しばらくして、主人が言った。
「何を救いたいのでしょう」
藤野さんは、一瞬、言葉を失った。
「何を、ですか」
「はい」
主人は、それ以上説明しなかった。
藤野さんは、少しだけ眉を寄せた。
「苦しんでいる人です」
「苦しんでいる人の、何を救いたいのでしょう」
藤野さんの手に、さらに力が入った。
「心、だと思います」
「心」
「はい。苦しんでいる心を、楽にしてあげたいんです」
主人は、静かに聞いていた。
「楽にしてあげたい」
その言葉を、主人はただ繰り返した。
責めるような声ではなかった。
けれど、藤野さんの表情が少し揺れた。
「いけないことですか」
「いけないことではありません」
主人は、すぐに答えた。
「けれど、楽にしてあげたいと思う時、人は相手を見ることを忘れることがあります」
藤野さんは、口を閉じた。
私の胸も、少しだけ痛んだ。
主人の言葉は、藤野さんに向けられているはずだった。
けれど、私にも届いていた。
楽にしてあげたい。
少しでも役に立ちたい。
読んだ人が、前を向けるように。
そう思いながら書いていた自分の言葉が、また胸の奥に戻ってきた。
藤野さんは、しばらく黙っていた。
それから、小さく息を吸った。
「でも、私は本当に、誰かの役に立ちたいんです」
その声には、少しだけ切実さが戻っていた。
「すごい人だと思われたいだけなら、こんなに苦しくなかったと思います。ずっと苦しかったんです。人の気持ちが入ってきて、見えないものを感じて、それを誰にも言えなくて」
藤野さんの目が、少し潤んだ。
「だから、これが誰かのためになるなら、私の苦しさにも意味があると思えるんです」
私は、何も言えなかった。
その言葉は、嘘ではないと思った。
藤野さんは、本当に苦しかったのだと思う。
本当に、人のためになりたいのだと思う。
だからこそ、危うい。
そう感じた。
主人は、ゆっくりと立ち上がった。
「では」
その声は、静かだった。
「行ってみましょうか」
藤野さんは、一瞬だけ戸惑ったように主人を見た。
どこへ行くのか、わかっていないのだと思った。
けれど、その顔にはすぐに、期待に近いものが浮かんだ。
何かが始まる。
そう思っている顔だった。
私は、立ち上がりながら、胸の奥が静かに冷えていくのを感じていた。
主人がどこへ向かうのか、私にはわかっていた。
二階の奥。
藍色の布の前。
その瞬間、胸の奥に小さな期待が生まれた。
あの部屋なら、藤野さんの中にあるものを、そのまま浮かび上がらせるかもしれない。
そう思ってしまった。
思ってしまったことに気づいて、少し息が苦しくなった。




