三 人を救う力
白石さんが見せてくれたメールを、私はしばらく読むことができなかった。
件名だけで、胸の奥がざわついていた。
人を救う力。
その言葉が、さっき白石さんに言われたことと、変な形で重なっていた。
読者に届こうとしすぎている。
白石さんの言葉は、まだ体のどこかに残っていた。
届こうとすること。
役に立とうとすること。
救おうとすること。
それは、悪いことではないはずだった。
そう思いながら、私は画面に目を戻した。
白石さんは、私が読み始めるのを待っていた。
本文の冒頭には、月野しずく様、と書かれていた。
その名前を見た瞬間、ほんの少しだけ、距離ができたような気がした。
水瀬宛てではない。
月野しずく宛てに届いたものだ。
そう思えば、少し冷静に読める気がした。
けれど、すぐにわかった。
名前を変えても、読むのは私だった。
言葉を受け取るのも、胸がざわつくのも、私だった。
メールは、丁寧な文章で書かれていた。
―――――――――
月野しずく様
いつも記事を拝見しています。
ご相談してよいことなのか、ずっと迷っていました。
先生は、記事の中で直接そのようなことを書かれているわけではありません。
けれど、読んでいると、どうしても感じるのです。
先生も、私と同じように、人の言葉の奥にあるものや、見えない方の声のようなものを受け取っている方なのではないか、と。
私は昔から、人の気持ちが入りすぎるところがあります。
相手が笑っていても、本当は苦しんでいることがわかったり、
その人が言葉にしていないことが、急に胸の中に入ってくるようなことがあります。
人混みにいると、誰のものかわからない悲しみや怒りが、自分の中に入ってくるようで、立っていられなくなることもあります。
また、見えない方の声のようなものを感じることもあります。
それが本当に正しいものなのか、自分の思い込みなのかはわかりません。
けれど、これまで何度も、その感覚に助けられてきました。
また、その感覚を人に伝えたことで、相手が涙を流したり、救われたと言ってくれたりしたこともあります。
だから私は、この力をきちんと使えるようになりたいのです。
人を救うために。
今はまだ、仕事としては成立していません。
知人から相談を受けることはありますが、お金をいただくほどの形にはできていません。
けれど、このまま何もしないでいるのは違う気がしています。
私には、何か役割があるのではないか。
この感覚を、もっと多くの人のために使うべきではないか。
そう思うのです。
私にも、人を救う力があるのでしょうか。
この力を、どうすれば正しく開けるのでしょうか。
もし、私の勝手な勘違いや思い込みでしたら、本当に申し訳ありません。
その場合は、このメールにはお返事いただかなくて大丈夫です。
―――――――――
最後に、名前が書かれていた。
藤野、とあった。
私はその名前を、しばらく見ていた。
どこかで聞いたような気がした。
けれど、すぐには思い出せなかった。
「……どう思いますか」
白石さんが、小さな声で聞いた。
私は、すぐには答えられなかった。
文面は、礼儀正しかった。
乱暴なところはない。
人を脅すようなところもない。
むしろ、真面目すぎるくらい真面目な文章だった。
けれど、胸の奥のざわつきは消えなかった。
私は、もう一度メールに目を落とした。
月野しずく様。
その文字は、私の名前ではないはずだった。
それなのに、そこに向けられた言葉は、確かに私の胸をざわつかせていた。でも、違う。
その言葉を読んでいるのは、私だった。
胸がざわついているのも、私だった。
私は、画面から目を離せないまま言った。
「どうして、これは見せようと思ったんですか」
私が聞くと、白石さんは少しだけ目を伏せた。
「わからないんです」
「わからない?」
「はい。いつもなら、たぶん止めていたと思います。誌面で扱う内容ではないですし、安易に返事をするのも危ない気がします」
「危ない」
「うまく言えないんですけど」
白石さんは、指先で湯のみの縁をなぞった。
「この人、たぶん本気なんだと思うんです」
私は黙っていた。
「本気で、人を救いたいと思っている。だから余計に、怖い感じがするんです」
その言葉に、胸の奥が少し冷えた。
本気だから怖い。
それは、わかる気がした。
嘘や遊びなら、まだ遠くに置ける。
けれど、本気の善意は、時々、相手の中へまっすぐ入り込もうとする。
白石さんは、さらに言った。
「水瀬さんに見せたら、放っておけなくなると思いました」
「それなら、見せない方がよかったんじゃないですか」
自分で言ってから、少しきつい言い方になったと思った。
でも白石さんは、怒らなかった。
「そうかもしれません」
静かに、そう言った。
「でも、見せないまま捨ててしまうことも、できませんでした」
私は画面に目を戻した。
私には、何か役割があるのではないか。
この感覚を、もっと多くの人のために使うべきではないか。
その文章を、もう一度読んだ。
私にも、人を救う力があるのでしょうか。
胸の奥に、小さな痛みが走った。
それは、藤野さんの言葉が痛かったのか。
それとも、さっきまで自分の中にあったものに触れたから痛かったのか。
わからなかった。
「……少し、宿で聞いてみた方がいいのかもしれません」
気づくと、私はそんなことを口にしていた。
白石さんが、不思議そうに顔を上げた。
「宿?」
「あ」
私は、自分が何を言ったのかに気づいて、慌てて首を振った。
「いえ、違います。今のは忘れてください」
「前にお話ししていた、時々行かれているところですか」
「そうですけど、そういう意味じゃなくて」
私は、自分でも何を否定しているのかわからなかった。
「すみません。今のは、本当に独り言みたいなものです。聞かなかったことにしてください」
白石さんは、少しだけ首を傾げた。
けれど、それ以上は聞かなかった。
「わかりました」
そう言って、スマートフォンの画面をそっと伏せた。
その日の帰り道、私は何度も、自分の言葉を思い出していた。
宿で聞いてみた方がいいのかもしれません。
なぜ、そんなことを言ってしまったのだろう。
白石さんに、今回は扱わないでください、と言えば済む話だった。
実際、そうしてもよかった。
雑誌に届く相談のすべてに答えることはできない。
まして、あの宿に関わる話を、私の判断で広げていいはずもない。
白石さんも、きっとそのつもりでいたのだと思う。
私が「違うと思います」と言えば、それで終わったはずだった。
けれど、終わらなかった。
私は何度か、白石さんに返信を書きかけた。
今回は、誌面では扱わない方がいいと思います。
申し訳ありませんが、こちらではお応えできません。
そう書けばいいだけだった。
でも、最後の送信ボタンを押せなかった。
人を救う力。
その言葉が、嫌だった。
嫌だったのに、忘れられなかった。
それから、少し時間が経った。
私はいつものように、宿へ向かった。
特別な用事があったわけではなかった。
新月の頃、少しまとまった時間が取れると、私はあの宿へ行くようになっていた。
主人のそばに座り、時には何も話さず、ただ静かな時間を過ごす。
それが、いつの間にか私の中の一つの流れになっていた。
その日、宿には、ほかのお客の気配がなかった。
いつもなら主人は、一階のカウンターの前に静かに立っている。
けれどその日は、食堂の窓際の席に座り、外を見ていた。
窓の外では、木々がゆっくり揺れていた。
私は少し迷ってから、主人の向かいの席にそっと座った。
テーブルの上には、何も置かれていなかった。
しばらく、私は何も言わなかった。
主人も、何も聞かなかった。
話すつもりで来たわけではなかった。
けれど、話さずに帰れる気もしなかった。
私は、少しずつ、その相談のことを口にした。
うまく説明できた気はしなかった。
月野しずく宛てに届いた、少し変わった相談。
その人が、自分の中に起きる感覚を「人を救う力」と呼びたがっているように見えたこと。
それだけを伝えるだけでも、思ったより時間がかかった。
主人は、黙って聞いていた。
私が話し終えても、すぐには何も言わなかった。
「白石さんに、お断りしてもらうこともできます」
私は、そう言った。
言ってから、それが自分に言い聞かせるための言葉だとわかった。
「その方がいいのかもしれません。誌面で扱う内容ではないですし、宿のことを簡単に案内していいとも思いません」
主人は、静かに私を見ていた。
「けれど、気になっているのですね」
私は答えられなかった。
気になっている。
その言葉は、あまりに簡単だった。
でも、その通りだった。
「この方は」
主人は、静かに言った。
「ご自分の中に起きていることを、まだ自分のものにしようとしています」
私は、その言葉を聞いて、背中が少し冷たくなった。
自分のものにしようとしている。
それは、藤野さんだけのことなのだろうか。
「力があるかどうか、ではないのですね」
私が言うと、主人は少しだけこちらを見た。
「力と呼べるものがある人ほど、その呼び方に気をつけなければなりません」
その言葉に、私は黙った。
あの部屋に立ち会うたび、私の中に薄く映るもの。
言葉になる前のもの。
理由もなく浮かんでくる景色。
それを、力と呼んでいいのか。
そう思ったことが、私にもあった。
主人は、私の沈黙を責めなかった。
「お会いしましょう」
やがて、短くそう言った。
私は顔を上げた。
「本当に、ですか」
そう言ってから、自分でも少し驚いた。
会わせたいと思っていたはずなのに、主人の口からそう言われると、急に不安になった。
主人は、すぐには答えなかった。
「まずは、お話を聞きます」
それだけだった。
日程は、白石さんを通して決まった。
すぐに会うことにならなかったことに、私は少しほっとした。
けれど、その名前は、頭のどこかに残り続けていた。
藤野さん。
どこかで聞いたような気もした。
けれど、その時の私は、まだ思い出せなかった。




